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子供はなぜ優等生思考になるのか
教育の席にいるわけでもなく、親になっているわけでもないので、子供の実体はよく存じません。しかし、私自身の小学生時代、子供時代のこととも考え合わせると、どうも子供、特に小額高学年程度の考え(あるいは外面だけか?)が非常に人工的優等生的で、どうも気持ち悪いと感じることが多いです。これは本当に子供の本心から出た言葉なんだろうかと。 例えば機能の新聞にエコロジーに関する小学生の作文があって、節約は大切だ環境に気を配らねば子孫のためにできることをやらねばと、それが、ごく自然に出てきているようなのですが、それが非常に本来の子供らしさとかけ離れている気がして気持ち悪いのです。これは、教育によって無理やり型にはめられたのがあたかも自分の考えのように錯覚しているだけなのでしょうか。もしそうなら、そんな教育方針は意義あることなのでしょうか。むしろ子供の自由発想を奪ってしまうのではという危惧も感じます。それとも、子供というのは自然に善行的考えに支配されている生物なのでしょうか。 以上のことはもちろん、子供の多数派がそう見えるというだけで、アウトサイダーな子も少数存在するでしょう。しかし、この多数であるという点に疑問を感じます。
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そうですね。 幼稚園から小学校で習うような道徳は、いわば建前です。 小さいうちはその建前教育にたいていの子は騙されます。 環境に気を配るとか、お年寄りを大切にするとか、人のやりたがらないことを進んでやるとか。 これは半分は子供の純粋さから「本気で」そう思っているでしょうし、半分は「それがいいこととされてるから(先生に誉められるから)」という目的でやっているような気がします。 >そんな教育方針は意義あることなのでしょうか。 私も、こんな建前教育法には疑問を持ちます。 このような教育がいじめや問題児を増産しているように思うからです。 学校教育では先生は聖人君子、悪いことは何もしません、朝寝坊もしないしお酒も飲みません、勉強は大好きです、という顔をします。 一方、私は塾の教師のバイトをしていた時に、子供たちとは本音でつきあいました。 塾というのは「成績を上げるため」という目的がはっきりしているので、本音が出しやすいのです。 塾の講師は「今日寝坊しちゃってさー」とか「私だって勉強なんて好きじゃないよ」という話は平気でします。 そしてだからこそ、いじめなどの問題が起きたとき、「いじめたくなる気持ちもわかるけど」「いじめられる子もかわいそうだからやめようよ」という「本音の」言葉が、説得力を持つのです。 実際、私は勤めていた塾でいじめの問題は何件もそのように解決してきました。 学校の先生が「いじめなんてしてはだめです」と言っても、建前教育に気づいてきている小学校高学年あたりは、もう通用しないのです。
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#2です。 >子ども扱いされないことを経験するために、現実とギャップを感じてストレスになるということでしょうか。 その子によって色々ですが、ケースとしてこの意見は正しいように思います。 たとえば、ヤフーなどの大規模なフォーラムの掲示板を利用するとき、ネット初心者(特に中年以上の人)は、年齢の分からない話し相手を「自分と同じくらいの歳」とみなす傾向にあります。 ところが現実には、その相手はいかにもガキっぽい、変な書き込みを繰り返すわけです。 それを見たその初心者は、相手が大人かどうか確証もないのに「いい歳して何をやってるんだ」と思い込み、注意してしまいます。 対し注意された子供は、社会経験もない未熟な人間ですから、注意された意図が分からず、「意味のない怒声」をぶつけられたときと同じストレスを受けるのです。 ↑この例は質問文とは逆のケースということになりますが、逆に、子供が大人びたことを書くと、それがどんなに素晴らしい発言であっても、とっさに「生意気だから」と注意してしまう人もいます。 具体的には、間違いを盛んに揚げ足取りするのです。 どちらも、子供に対して「大人は怖い」という意味のない恐怖心を植えつけるだけの行為で、できれば大人としては避けたいものです。
お礼
やはりそういうことですね。顔を見ないでコミュニケートすることを子供からやることは(大人でさえネットでは間違った態度を取ったり取られたりで心理的によいとはいえないのに)きわめてむずかしく、益はないかもしれませんね。
- 8942
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素直なんじゃないですかね。 先生、親、マスコミからいわれた事を鵜呑みにして疑いもしないし、 実行の難しさもしらないから 悪く言えばキレイ事を言っているのでしょう。 現実の厳しさをしるのはこれからですから
お礼
素直なんでしょうね。まだ批判精神はないから。そういう似非ごとを教え込むことは一体どういう意味合いがあるものなのでしょうね。
そういうものです。 10歳くらいになると、人間は社会適合のため「本心を隠す」ことを覚え始めます。 友達に対して愛想笑いなどを始めるのもこれくらいからです。 よく考えてみてください。大人の場合、「いい子ちゃんぶったことを本心から言う」と、ノーブレーキ人間(もしくは過激な活動家や、それに近い人種)とみなされる傾向にあります。 よって、大人は本心を隠していい子ちゃんぶります。社会で生きていくために必要だからです。 そして、そのような行為を覚えはじめるのが、子供ではだいたい10歳くらいからなのです。 ようするに、子供はいつまでもパープーではなく、また人生の節目々々で急に大人になるのでもなく、徐々に少しずつ大人になっていくのです。 ちなみに、現代ではまだ、「学生時代は子供であることを無理やり求められ、社会人になると急に大人として振舞うことを求められる」傾向にあります。 特に10代の子供は、少しは大人として成長しているのに、「子供らしくしろ」と無理やり型にはめられて成長を阻害され、20を過ぎるとそれが急に外されるのです。 このような行為は、たいがいの場合は無意識に行われていることですが、事インターネット社会においては、子供にはかなり大きなストレスとなっています。 よって、子供は、大人としての能力を一定の範囲ですでに持っているのだ、と認めるべきだと思います。
お礼
子供らしさをそんな形で失っていくことに、どうも納得行きかねるものがあります。もっといい形で移行できないものかと。おそらく子供にもストレスなんでしょうね。それが、意味のあるストレスなのか、もっといい発展形態があるのか。なにか、捻じ曲げられう事で本来の素直さというものを失うことが多いのではないかという危惧があります。
補足
インターネット社会だと、子ども扱いされないことを経験するために、現実とギャップを感じてストレスになるということでしょうか。
- cse_ri2
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自分自身の子供時代を振り返っても、まあそんなものかなと思います。 私の場合は、世界地図を見ながら世界征服の夢想にふけったり(今思うと、爆笑!)、ウルトラマンの怪獣シリーズを読みながら悦に浸っているような子供でした。 しかしそれとは別に、テストの回答や読書感想文では、けっこう優等生を演じてきたと思います。 なぜなら、親や先生に誉められたいという気持ちが強く、誉められるにはどうしたらよいかを子供ながらに必死に考えていたせいでしょう。 ですが私の結論としては、それでいいのではないかと思います。 子供は無邪気ですが、一面では善悪の観念も薄く、やりたい放題にさせておいたら、我侭を通すしか知らない人間にしかならないでしょう。 子供が社会的な規範を身に付ける上で、親や教師による適切な指導は必要ですし、それがいささか格式ばったものになってもよいと私は思います。 むしろ最近の教育では、子供に対する倫理・道徳観念の植付けが不十分のように感じられます。 いじめ問題を耳にするたびに、私はこのことを考えざるを得ません。 子供は自由であるがゆえに、大人の目から見て明らかに悪いことも、平気で行うことができます。 その典型がいじめでしょう。私の経験から考えても、いじめている子供には悪気はおそらくほとんどありません。 悪気がないゆえに、凄惨ないじめも平気で実行できるのです。 これを正すのは、大人の倫理・道徳観しかないでしょう。
お礼
使い分けることに、器用な性質ならばいいのかもしれないですね。肯定論というのも参考になります。確かにかせをはめる必要というのはありますね。しかし、こういうなにかあまりに人工的な形態から自由にならないものか、もうちょっと自然なかせというものはないのかなと、つい思いますね。 そして、おっしゃるとおり、倫理道徳がおろそかにされている!だめなものはだめ、そういう強い道徳観こそが、もっとかせに利用されるべきなんでしょう。わからないご時世になっています。
お礼
そうですね。建前に素直に同調する。それが悦に入れるように思える。そんな教育方針のいわば実験台なのかと思えてきます。 しかし、それがいじめと結びつくものですか。そうだとしたらこれは駅よりも害が多い方針ですよね。しかし、ご体験から本気で接することは確かに効果があるということは、貴重な意見です。建前で奇麗事を演ずることに、やはり駅は少ないとの事、問題ですよね。