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子供の書いた標語ポスターで寒い
今日、ビルの工事現場で、周りの壁に殺風景を緩和しようというのか、たぶん近所の小学生の書いた絵とその標語をいっぱい飾っているのを見ました。標語というのは、なにか一般的に「明るい」「希望が持てる」「純粋」など、特に子供が発するのにふさわしいと思われるような言葉です。絵もそれにあわせたものです。 そこで、私は一般人がどう感じるかはわかりませんが、これを見て非常に寒い思いがしました(実際今日は冷えますが、体のそこから何かゾワッとする気色の悪いものが湧き上がってきました。 つまり、こんなものが子供の本心だとは思えないわけです。私が子供のころを思い出しても荘です。こういう試みに付き合わされて適当に要求されているようなものを書いてお茶を濁していましたが、心からの声と言うのはそんな奇麗事じゃないわけです。それはもっと具体的で個別的で、もしかしたら半モラルであったり残酷であったり、くだらなかったり、他愛もなかったりいろいろなはずです。 で、教育の場で、なにか「奇麗事を書きなさい」と暗に強制されるようなことは、果たして有効なものなのでしょうか。ただ単に子供を利用しているだけではないでしょうか、もしかしたら、子供に悪影響さえ残さないか?それとも、「こういう場では心にもないことを言うんだよ」という、心憎い処世術を教え込まれているんでしょうか? いろいろ考えますに、とにかく、この種の標語が、表面的で心のこもらないものであろうし、そういう毒にも薬にもならないものしか、あるいは一般に認知されるという図式にあてはまるものしか、教育の場で処理する能力がないという皮相的状況に陥っていると感じます。これは最近始まったことでもないでしょうが、改まることはなく徐々に加速しているのではないでしょうか。 これらと比べると、私がまだ健全だと感じたのは、もっと昔の「暗記暗記」の教育の時代、自由意志なんていうものが教育の場になかった時代のほうがまだ、表裏のない潔さが合ったのではないかと感じています。 こういう問題をどう考えたらよいのでしょうか。
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質問者が選んだベストアンサー
>えているんでしょうか。それとも、なにか強固な理論に裏打ちされているんでしょうか。 まったく考えていません。この手のコンクールは、学校内で選定し、(市町村)教育委員会に送る。送り先で選定し、次の選定会(都道府県教育委員会等)に送る、、、、と繰り返されます。 したがって、曖昧な文言がついてきますけど、各選考会では選考委員の主張で決まってしまいます。この「選考委員」名が多くの場合非公開です。 結局、各選考において選考委員の趣味が一致すれば通るでしようけど、趣味が合わない場合には途中で消されます。 >いずれにしても、子供をだしにしている。 そうですよ。もっともらしいことをイッテイトモ、なんとかをしていると対外的に宣伝することで金を巻き上げる手段でしかないのですから。
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- kotoshikos
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日本の子供の書いた絵や標語、「明るい」「希望が持てる」「純粋」・・・子供の将来を考えて、なかなか良い言葉じゃないですか。 隣国、韓国の地下鉄の駅に張り出された、韓国児童が書いた、これ等の反日ポスター(日本のマスコミは報道しませんでした)、こんな民度の低いものに比べると、ずっとマシだと思います。↓
お礼
イヤーこれはひどいですね。 マスコミはクソですね。 しかし、これとは比べる次元が違うようです。 たしかに「まし」です。 しかし、今回取り上げたような日本の(あるいはほかの国でもあるのかもしれませんが)例は、別の意味で、なにか硬直化した脆弱なところに浮き上がっている印象を受けます。
- dai-ym
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garcon2000さんのように考える子供もいれば、そうでなく純粋にそう思っている子供もいます。 それは子供だけでなく大人だってそうですよ。 自分の考えが正しくみんな同じ考えをしているってのは大きな間違いですよ。 また、こういう絵を選ぶ大人が子供が発するにふさわしくない言葉や絵を間引きしているので、 そういう言葉や絵を書いた子供と今回選ばれたような言葉や絵を書いた人数がどのくらいかわかりません。 展示されたものがすべてと思うのもまた考え直した方が良いですよ。
お礼
天子のように純粋な人っているんでしょうか?そりゃいますよね。でも、その少数派に基準をあわせる必要があるのかどうか?もっと、標準的な子供の声を取り上げたらどうだろうか?それを「間引き」する大人は一体何様なのか?そんな疑問を常に感じます。
- yokihito005
- ベストアンサー率22% (103/467)
>私は一般人がどう感じるかはわかりませんが、これを見て非常に寒い思いがしました 一般人が受け取る印象(タイプ)の1つではありますね。100人に聞けば、それなりに上位ランクにつけるかもしれません。 しかし、おなじモノをみて、これはやだなという印象と、ここは良いなと思う印象とはひとりの人間のなかで矛盾せず同居することが可能なんです。じっさいそのとき、質問者さんの感想のなかにもそれはあったはずです。 >一般的に「明るい」「希望が持てる」「純粋」など、特に子供が発するのにふさわしいと思われるような ひとの心理は輻輳していて、プラスの評価そのものを同時に嫌悪することもまた然りなんだと思います。 質問者さんはその一方を意識に上げて口にしたわけですが、、、”おとなとこども”の2分別で言えば大人の意見であり、”すなおと賢しい”で言えば賢しい考えであり、”批評家と当事者”で言えば批評家の意見である、、、、そういった傾向の意見を意識的に取り上げる傾向がある(あるいは今回たまたまそうだった)、そういっても良いかもしれません(裏を返すと、その反対の思いを抱く自分がかならず見つかるはずです)。 強いて言えば、質問者さんの文面中、思い込みがすぎるのではないか、と思うところはつぎの一点です。 >表裏のない潔さが合ったのではないか 人が表裏が無いもの....大げさな言い方をすれば行動学的にも心理学的にも人文学的にも”そうだ”と認知されたことはないでしょう。ぎゃくに表裏、本音建前があってしかるべきだ、というのが一般人が抱く人間像だと思います。 そうだと思い直せば、 >教育の場で、なにか「奇麗事を書きなさい」と暗に強制されるようなことは、果たして有効なものなのでしょうか。ただ単に子供を利用しているだけではないでしょうか こどもがなにも知らない絶対無垢の存在としてあるわけでなく、(いまや不安になるくらい)”裏”のある存在であるわけですから、質問者さんの懸念はご自身の”ひと(こども)とは表裏のないもの”という仮定(固執)に基づく自家製造的想念なんだと思います。 他の回答者さんも述べていますが、”表裏のない潔さ”に固執するあまりこころの病に陥ったり、他人の意見に耳を傾けられない人が増えているように思います。”表と裏”、”清と濁”というのは大抵は言葉の綾であり、一方が悪で他方が善であるとは限りません。多くの意見を受け入れる、というのは社会で円滑に生きる術だけでなく、ひと独りが生きて行く術でもあるのだと思うのですが・・・いったいどこで”表裏のない潔さ”などという教育が行われているんでしょうね?? (最後の文節はわたしの”私見”です、すみません)
お礼
人間感情のあやふやさと振り子のゆれみたいなことは、そのとおりだと思います。しかし、この種のやり取りで、本能的に胡散臭いものを感じます。子供をだしにしたものは数多くありますね。男女2人で、僕たち仲良し代表みたいなポーズで、大人の都合のいい台詞を言わせる操り人形のような。 表裏があってしかるべきである。それはひとつの妥当な考えでしょうし現実論でしょう。しかし、子供をだしにしてそれを実現することがよいことであるか? 子供の本来的?表裏を利用するといいますが、そんなものを教育で要求し、わけがわからない不文律とか建前とか、大人のいやらしさを実感させる必要があるのか?もっとまっすぐに育ててやればどうなのか? あまりにも、現実のキタナさに慣れきっていないでしょうか?それを子供に要求することに抵抗を感じないという、一種麻痺的な思考に陥っていないでしょうか?それが社会病理的に現れているのではと。 稚児とか祭典び子供はまた別だと思います。
- usokoku
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この手の兵庫は、教職員が選択しているので、教職員に都合の良い内容だけ担っています。 実際の子供たちの考え方はわかりません。 教職員が対外的に見せるのにふさわしい と考えた内容だけです。
お礼
でしょうね! 「対外的に見せるのにふさわしい」という価値観が、どんなに不確かであやふやなものか、考えているんでしょうか。それとも、なにか強固な理論に裏打ちされているんでしょうか。いずれにしても、子供をだしにしている。
Q、こんなものが子供の本心だとは思えないわけです。 A、それは、単なる質問者の受け取り方に過ぎないでしょうね。 「おはようと 元気な声で 今朝もあいさつ」 こんな標語があったとします。 これがどういう経緯で書かれたかは、実に、判らないですよ。 「おはようの 声で振り向く 朝の道」 「おはようと みんなに挨拶 太郎君」 「おはようと 元気な声で みんなであいさつ」 と、幾つか考えたかも知れません。 「どれが、いいかなー」と迷ったかも知れません。 「お前、太郎君はないだろう」と友達に注意されて、太郎君は断念。 「元気な声で みんなであいさつ」は、「で」が重複しているのに気が付いたかも。 「振り向いてどうなる」で朝の道の句もボツに。 「こんにちわ 元気な声で 今日もあいさつ」 そこで、登校途中に見かけた標語を借用して朝バージョンにしたのかも知れません。 標語ポスターの標語なんて、このような模索の結果でしかないですよ。 ですから、最終的に採用した標語=その子の心情や物の見方・考え方じゃないですよ。 ちょっとじゃないくらいに論理が飛躍していますよ。 >心憎い処世術を教え込まれているんでしょうか? 考え過ぎです。 >昔が、表裏のない潔さが合ったのではないかと感じています。 美化し過ぎです。 ただ、昨今の弁論大会は、ほとんどが自己批判、自己反省をテーマにしています。 まあ、それだけ、今の子供達は自己葛藤しているということでしょう。 「私が悪いのでしょうか?」という質問もOKWave では多発しています。 ですから、この妙に良い子ぶって自己葛藤を披瀝する傾向が強まっているのは事実でしょうね。 しかし、だからと言って、それを復古的で抑圧的な教育を合理化する援軍にするとは??? 子供達の自己葛藤の背景にある根本原因の分析を抜きに自己の論理のみで「寒い」。 これこそ、「寒い論理」ではないですか?
お礼
子供らの自己葛藤の背景とは、いったいなんでしょうね。その正体こそ、この質問の究極のような気がします。 つまり、「悪い子になっちゃいけない」というような葛藤がどこからか圧迫になっていて、それに圧倒されているという感がりますね。強い人間がいなくなってしまった?変な日和見と自虐者が多くなってしまった?もっと、主張を持った押しのある人間がいなくなってしまった。 いえていると思います。
- kaputun
- ベストアンサー率14% (127/864)
標語ポスターは本心を表現する場ではないので問題ないと思います。 自己を表現する方法として限定された課題で描くというのも 勉強の1つでしょう。 それに、綺麗ごとが、刷り込まれて自身の真理となるのであったら、 綺麗ごとなだけに本人にとっても世の中にとっても悪いことではありません。 ちなみに、私は暗記暗記の時代の人間ですが、 小中学生の頃、やっぱり標語ポスターの課題はありました。 みんなで「動物をかわいがろう」などという真剣に理解もしていない嘘くさいポスターを描いて、 その中でも表現が一番うまい子が全国のコンクールで入賞したりしていました。 その子は、蟻の巣に水を入れて水没させるのが大好きでしたね~ 今も昔も変わらない課題があるのだなと思うと懐かしいです。 寒いのは、ポスターを描いた子供たちではなく、 ポスターを子供の本心だと勘違いしてしまうような 自分の子供時代を忘れてしまった大人のほうです。
お礼
奇麗事は、あとで役に立つもんでしょうか? 仮にそうであったとしても、それは多分教育者の善意からではないでしょう。おそらく、都合からでは。 ありの巣に水を入れる子の実例は、実に頭ぶっ飛ぶようなもんですね。それこそ、この質問の究極の回答に突き当たったようです。 大人がやっぱり狂っているんでしょうね。
- heinell
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そういう明るい事を説きもしなきゃ子供はそういう発想の重要性を知らずに育つ訳で。 性善説的発想なら、明るい事が重要なことなんだとも知らずに育ってしまって、周囲にある闇に染まりやすくなってしまう。 性悪説的発想なら、子供はそういう闇の中にいるんだから、明るい事の重要性を知って良い人になってもらいたい。 どっちにせよ大人は明るい方向に導いて当然だったりします。 (効果的かどうかは別の話ですが。) 必然的にそういう教えを受けたって葛藤・逆境はありますよね。 性善説流に考えれば、染まりやすい周囲の闇をがんばって退けなきゃならない。 性悪説流に考えれば、自分の中の闇をがんばって封じ込めなきゃならない。 安易に「染まりやすいのが実社会だから」「元々の性は悪なんだから」で諦める方が楽なのは当然(でなきゃ教えを説くほど重要な事じゃない)。 そこで諦めずにちゃんと考えなきゃダメだろってのが元来の教育です。 今そんな綺麗事が通じにくいってのは重々承知ですけどね。 質問者さんのように「諦めるのがオトナ」って堂々と言う人の方が多いご時世です。 上記のような事をまじめに言えば「そんな事言う奴キモイ」とか言って指差して笑われる事でしょうね。 (そんな世の中で、子供の面倒見なきゃならない先生は世間全部が敵みたいな気分でしょう)
お礼
ごもっともな理論だと思います。 教育というものは必要悪なのかもしれません。それは、矯正ですね。人間善にしろ悪にしろ、方向付けをしなければならない。 しかし、あまりに一方向によっていないでしょうか。あまりに人工的杉あまりにセレモニー化しすぎるのではないでしょうか。
補足
大変よくわかりますね。 後日お礼を書きます。 >質問者さんのように「諦めるのがオトナ」って堂々と言う人の方が多いご時世です。 上記のような事をまじめに言えば「そんな事言う奴キモイ」とか言って指差して笑われる事でしょうね。 これ、身にしみますね。 「はい、これ本質はおかしいね、でもあきらめようね」 言いえてますよ。
- hukuponlog
- ベストアンサー率52% (791/1499)
難しいですね。ただ思うことはあります。 >半モラルであったり残酷であったり、くだらなかったり、他愛もなかったり ここは間違っていると思います。一人の子供の中で「半モラルであったり残酷であったり、くだらなかったり、他愛もなかったり」する場面はある。それなら同意します。 それは大人だって同じです。私も貴方も、心から不正を憤る場面もあるでしょうし、「まぁ、いいか」と妥協する場面、もっと逆に卑しい心(例えば妬んだり、憎んだり)を持つ場面だってあるはずです(私はあります)。 でもそれは一人の個人の心の中で起こることで、ある個人が常に「半モラルであったり残酷であったり、くだらなかったり、他愛もなかったり」するわけではないでしょう。サラ金で違法な取り立てをする人が、家庭では良き父親であったりするのと同じ事です。 だから、その標語を書いている瞬間、子ども達は本当にそう思っているかも知れません。もちろん、あなたが言うように、「適当にお茶をにごしている」子供だっているでしょうけれど。 でも、それでも構わないと個人的には思っています。それは現実の世界では「建前」かもしれませんけれど。以前あるマンガで「本音というのは胡椒のようなものだ、それだけをどっさり出されても喰えるもんじゃない。建前という料理に少し振りかけるから美味いのだ」みたいなセリフを読みました。「建前」の大切さを知るというのも、大事な勉強でしょう。
お礼
おっしゃることはもっともです。 一人の人間の中でも、いろいろな思いがあり、清濁併せ持っている。そして、こういうところに出すのは「清」がいいのかもしれない。 しかし、なぜ「濁」を排斥しなければならないでしょうか?それも、鑑賞者の寛容性を試す試練ではと。
補足
後日お礼します。 そういう標語にちょっと胡椒がかかっていると、また違った感想になると思うんですがね。
「綺麗」を「奇麗」と表現するあなたのほうが寒い。
お礼
いや、案外言いえている誤変換かもしれませんね。
- keirimas
- ベストアンサー率28% (1119/3993)
ちょっとシニカルではないですか。小学生なんてそんなもんだと思います。 小学校の卒業式で「卒業生の言葉」とか言って先生が決めたセリフを生徒が次々しゃべらされたことがあります。後で思い出して「くさいな」と思ったりするものですが、そのときは純粋に、真剣にそう語っていたように思います。ある程度きれいごと、お決まりごとをしゃべれせる、植えつける、育てるといった過程は必要と思います。
お礼
確かにそういう考えもあります。卒業式の言葉なんて、何十回もやらされているうちに、あながち本心のような気もしてきました。でも、所詮上から与えられたものです。 昔の教育勅語みたいなものはよく把握していませんが、まああれと似たことを現代も続けているのでしょう。個人的には、あれは格調高くて、たとえ理念が問題でも、文章自体の美しさで暗記する価値はあると感じます。また現代版のそれはそれで、心の肥やしになるのかもしれない。 しかし、やはり、「なにか押さえつけられている」という感覚は残りますね。 「思ったことを言ってみろ!」っていう教育があるでしょうか?もちろんそんな修羅場に耐えられるような教員がいるとも思えません。
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お礼
ありがとうございます。 これが真実に近いと思います。 何事も、だしにされるかするか、そんな気がします。