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哲学の面白さについて
哲学を学ぶことの魅力や面白さなどを教えていただけませんか?最近、哲学に関心が湧いてきました。
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「AはBのまねをする」・・・(1) 「BはAにまねさせる」・・・(2) (1)と(2)は、本来同じ事象なのだけれど、受け止め方が異なっている。そうは思いませんか。そして、これらは「学ぶ」と「教える」の関係でもある。 カントだったか、「きみたちは私から哲学を学ぶのではない。哲学することを学ぶのだ」といったそうですが、これが正しいことを言っているとすれば、哲学を学ぶのではなく、哲学することを学ぶといわなければならない。 おそらく、先人の下した判断をまねて言うだけでは、哲学を利用するとはいいえても、哲学することにはならないということでしょう。 自らの力で考えることが、哲学することにおいて重要なことではないかと思うのですが、どうですか。自分で考えてみたいと思いますか?それとも、手っ取り早く、哲学的思想のエッセンスを知識として吸収したいですか? 私は、哲学書も少しは読みましたが、自分で考えるほうが、性に合っていました。読みかけて、読み終えられない書物、たとえば、ハイデッガー『存在と時間』、面白くないです。人の考え方を推測しながらたどっていくのは苦痛でさえあります。こういうことは、まねさせられません。 プラトン『ピレボス』『パルメニデス』は面白いです。ただ、私は考えながら読みました。こういうところは、まねしていいです。 ソクラテスは対話の相手の主張に対して、質問をしていきます。そして、はいかいいえでこたえる事が約束事としてあります。このような対話を、一人心の中ですることを思考するというのだと言っています。「考える」ということに私は強い興味を持っていたので、その対話を思考の形式であると考えて読んでいったのです。内容や結論は興味の対象外で、どうでもよかったのです。『メノン』では、徳は教えられるかという問題に取り組むのですが、そもそも徳とは何かになり、結局何かわかっていません。正しく考えていくと、こうだと思っていたことが、そうではなくなるのです。言論の限界を感じます。しかしまた、それは言論の可能性でもあります。 『パイドン』でソクラテスは言います。 ミソロギアー(言論嫌い)にならぬようにしよう。信頼していた人に裏切られると、すべての人を信じなくなりがちだが、ことばについてもそういうことがあると思う。言論が行き詰まったからといって、言論への信頼を捨ててしまうことは誤りであると思う。 哲学するとは、何か考えたいテーマがあって、それについて考えていくのですが、でも、どうやって考えていきます?数学でも問題の解き方というのかありますが、その解き方を知らない人は、どうやって解いてゆくのですか?哲学することを学ぶとは、このたとえでは、解き方を学ぶにあたりませんか? 哲学的思考はふつうでは気がつかないことを結論することがあります。これが魅力でしょう。
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- ebinamori
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>魅力や面白さなどを教えていただけませんか? という部分が哲学っぽくないような気がしますが 「ソフィーの世界」なんて読んでみてはいかがでしょうか?
お礼
「ソフィーの世界」面白そうですね。ありがとうございます。
お礼
丁寧に回答して頂き、ありがとうございます。参考になりました。