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哲学初心者です

こんにちは、哲学について最近興味が少し湧いてきたので質問させてください。 まず率直な話、「哲学」とは何ですか? あなたの「哲学」とは何ですか? これから私が「哲学」を学ぶにはどうすればよいですか?何かいい本などありましたらよろしくお願いします。 ぜひアドバイスお願いします!!

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  • harepanda
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回答No.3

nisekantさんはショーペンハウエルにお詳しい方のようですね。よろしければ、http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3736620.html にもご意見ください。 さて、keita888さん、本題の「哲学とは何か」ですが、哲学と言うのは元々ギリシャ語で「考えることが好き」という程度の意味の言葉です。私は弁証法哲学といわれるタイプの思考様式を取る人間で、大学のゼミ仲間が言っていたセリフとして、あまりにも分かり易いものがあります。「考えることは最強の趣味である。金もかからないし準備も後片付けも要らない」。非常に哲学の本来の趣旨を鋭く突いていると思います。私は彼の影響下、企業就職の就職活動中に某中堅商社の面接で、人事部とはツーカーで双方とも内定は決まりだと思っていたものの、役員の受けが非常に悪く、「哲学専攻などというヘナチョコがビジネスの役に立つのか。PHPは哲学だと思うか」という挑発的な質問を受けたことがあります。私の回答は、「哲学と考えてよろしいのではないでしょうか。哲学とは考えることが好き、という意味です。誰がどんなことを考えても、それを全面否定することは出来ません」というものでした。結局、役員面接で落とされたのですが、あそこを通っていたら、今頃、良い意味でも悪い意味でも、全然ちがう社会人生活だったろうな、と思います。後悔はありません。商社には受かりませんでしたが、通信業で素晴らしい方々とめぐり合えたので。特に、昔のKDD出身の年配の方は、すごい人が多いのです。日本に国内電話の電電公社と国際電話のKDDしかなかった時代には、KDDに入れる人というのは、深い教養を備えた本物のエリートだけだったんだな、と、良く分かります。 あなたが哲学をこれから学びたいのであれば、まず理解しなければならないのは、哲学は人によって言うことがバラバラであり、全てをいっぺんに理解しようなどというのは不可能だということです。教えて!gooでも以前、同様なテーマで書いたことがあるのですが、教授が哲学史の授業をして、過去の哲学史を学生に一気に理解させようとしている状況があり、質問者さまがその授業についていけず、非常に悩んでおられました。「何かいい本などありましたらよろしくお願いします」とのことですが、そんなものはないと思ったほうが良いかと思います。高校の倫理の参考書でも読んで、「キーワードと枠組みと歴史的順序は分かるが、どうしてこ~なるのか、さっぱり分からん」という程度で、最初はかまいません。 哲学史を一気に理解するのは不可能です。10年かかります。より建設的な方法は、あなたの興味関心や問題意識に合う哲学者を探すことです。まず、自分の思考法と親和性のある哲学者を見つけ、その人の理論を使いこなせるようになるまで理解し、そこから、それに対する他の哲学者の批判を理解していけばよいのです。 具体的な勉強法としては、現段階では、日本人が書いた様々な哲学者の入門書と、良質な新書を知的好奇心のおもむくままにあさり読みすることです。そのうち、何かがみつかるでしょう。 偽カントではなく、本物のカントが言っていたセリフに、こういうものがあります。「経験とは全く無関係な、純粋な理論は存在するだろうか。わたしは存在すると考える」。これに同意する人は、カントと親和性が高く、カントを楽しく勉強できることでしょう。他方、私のように、「は?経験とは無関係な理論?あるわけね~だろ」と考えるタイプは、カントと発想法が根本的に違うのか、もしくはカントの問題意識を理解できる水準に達していないか、どちらかでしょう。 基本的に、スタート地点は誰からであってもかまわないのです。ただし一般論としては、人間はなぜ世界を見ることができるのだろうか?ということが気になっているのであれば、カントや現象学と言われるタイプの哲学者がお奨めであり、自分はなぜ苦しみながら生きていかねばならないのだろう?ということがテーマであれば、仏教か実存主義がお奨めであり、人間の本質とは何であろうか?というテーマであれば、人間論・宗教論(フォイエルバッハ)か自然法理論の中でも特にルソーをお奨めし、科学はいかにして可能になるのか?というテーマであれば分析哲学や英米系思想家(特にカール・ポパー)が興味を引くと思われ、最後になりますが、社会や物事は有機的に出来ているはずなのに、物事を要素に分解したり機能・特徴を列挙するというデジタル思考方式は間違っている!と思うのであれば、私と同じく弁証法の系譜を学ぶのが有効かと思われます。 「あなたの「哲学」とは何ですか?」との質問ですが、哲学とは文学やメタファーではなく科学であり、自然科学とは違って数学ではなく概念をつかうという特徴があるものの、科学であることには間違いがないと思っています。私には、人はいかに生きるべきかという発想がありません。「ヘーゲルに倫理学なし」という批判がヘーゲルに対して向けられることがあるのですが、ある程度、あたっています。個人の生き方よりも、社会のあり方を義憤を持って語る哲学者であるうえに、彼の大きな哲学体系の中では、個人の生き方というのは小さなテーマでしかないからです。彼の倫理学を一言でまとめると、「良き法を持った国の国民であれば、倫理的に生きることが出来る」ということになります。これを、非常に変形した形で受け継いだのが共産主義のマルクスであり、「意識が存在を規定するのではなく、存在が意識を規定するのだ」という言い方をします(つまり、生れ落ちた階級や教育環境によって、人間の発想法は決められてしまうのだ、という指摘です)。 そして、私にとって哲学とは、究極の問いである「人間とは何か?その本質は何か?」という、ソクラテスの「汝自身を知れ」以来の伝統的テーマにフォーカスを与えるものです。近代自然法という一群の思想の流れは、このテーマに正面から取り組んだ試みであり、「現実に存在する間違った法に対して、人間本性に基づく、あるべき理想の法とは何であるか」という、人間論にして社会哲学であると言うことが出来ます。私にとっては悲しい現実ですが、自然法理論は、すでに歴史的使命を果たし終わっており、フランス革命が恐怖政治からナポレオン独裁、王政復古へと転落していくのを見た後の世代では、自然法のような架空性の高い理論は、いまさら、はやらないのです。ヘーゲルは自然法の完成を見るとともに、その解体が始まる時代にいたと言われます。ヘーゲルとマルクスの間には、自然法を正面から取り上げるか無視するかという断絶があるような気がします。マルクスの時代ともなると、社会科学の領域でも実証主義的傾向が強くなるのですから、自然法が忘れられてしまうのも当然でしょう。 ちなみに、中曽根元総理は、一番の愛読書としてカントの純粋理性批判を上げています。最近、こういう教養のある政治家が減ったような気がします。中曽根氏と比べると、昨今の政治家の発言は、薄っぺらく聞こえます。特に安倍とか、福田とか、福島みずほたんとかは。あえてあげるなら、小沢一郎は中曽根氏に劣らないレベルの社会哲学を持っているように思えますが、中曽根氏以上に誤解され易い人物であり、なかなか国民的人気を得るのは難しそうです。

keita888
質問者

お礼

哲学の起源からわかりやすく書いて下さってとてもわかりやすかったです。 ありがとうございました。

その他の回答 (6)

  • usijima
  • ベストアンサー率22% (17/74)
回答No.7

「哲学」とは物事の考え方のひとつだと思っています。ただ哲学は行動に移さない(移せない)ものだと思っています。行動に移さないことによってより純粋化し創造する(行動する)人を牽引する役目を持つものだと思っています。確かに矛盾も多いですが。 とにかくもっとも最先端なもっともアバンギャルドな行為が「哲学」だとおもいます。 日本人はとにかく流れを無視し過去の様式にこだわる人が多いですが、人類が積み上げてきた最先端の既知はポストモダニズムです。 過去に戻ってああだこうだ言う前に、突破口をしめせっつうの。

keita888
質問者

お礼

物事の考え方のひとつとしてとらえるようにしてみます。 ありがとうございました。

  • abc2008
  • ベストアンサー率17% (7/41)
回答No.6

哲学とは分かり易く言えば、ものごとの道理を知るための学問といってよいでしょう。ただこの場合、科学的に解るものは科学に任せればよく、なかなか科学では解らないものを探求するためのもの、ということです。たとえば、幸不幸の原因とか運命、生死の理由、仏や神の存在等々。これらは宗教の領域でもありますが、信仰の対象に見ずに客観的に捉えれば哲学的となるわけです。ただ残念なことに、過去の哲学者たちはあまりに難解な哲学的用語を多用したため、一般の人々を哲学から遠ざけてしまったのです。元々真理というものは単純なものなのに、哲学者の数だけそれを複雑にしてしまい、現在に至っていると言ってよいでしょう。ですから、いろいろと哲学書を読み漁っても結構ですが、おそらく混乱というか、混沌というか、迷路に迷い込むことになるのではないかと思われます。そこで、アプローチ方法としましては、演繹法(えんえきほう:これも難しい用語ですが、これはいきなり核心をつかんでから、それが本当に本質、真理といえるのかを様々な事象、現象から証明して行くやり方)と帰納法(きのうほう:これは様々な事象、現象から判断して、その真理、本質の解明にせまって行くやり方)の二つありますが、私の経験上、前者がお勧めかと思われます。  それで一応、参考のためですが、核心部分を披露しておきますと、まず、この宇宙自体が知性を持つ一つの大きな生命体であり、我々はその一部分であって、しかも生死を繰り返しても、その本質は永遠の存在であり、その本質に自身の善悪の行為の責任が科せられて、そして、その果報を受けて幸不幸を現していく、というもので、運命にしろ、幸不幸にしろすべては自身によるもので、つまりはすべては自分で決めれるし、変えられるということです。ちなみに仏や神など、その言葉は違えどもそれらは結局、大生命体のことを指しているかと思われます。  以上ですが、今後はこのことを念頭において、世の中のことをいろいろと観察して見てください。何か徐々につかめてくるかも知れません。

keita888
質問者

お礼

科学は科学屋に任せればよくて、科学では解明しにくいことを探求していく感じですかね?哲学って答えがひとつにならない奥深い世界な感じがしますね。 ありがとうございました。

回答No.5

哲学は、思考する技術です。 人に答えを尋ねるのではなく、 まずは適当に哲学系の本を、 読んでみてはいかがでしょうか? 自分の抱えている問題がまずわからないのでは、 誰も本をすすめることもできません。 何を考えたいのかひとそれぞれなはずです。 貴方が哲学に興味を持った理由が分からないのに、 それに合った本はわかりませんから自分に合った本を探す。 これが哲学のはじめの1歩では?

keita888
質問者

お礼

私は哲学初心者ですが、哲学に対するイメージというのは、難しそうだなという感じです。でも学んだ先には深く考える自分がいて、なんだか楽しそうだなって感じがします。そこに興味をもちました。 ありがとうございました。

noname#49326
noname#49326
回答No.4

>「哲学」とは何ですか? ・真理の追求 ・真理の追求を愛すること >哲学」を学ぶにはどうすればよいですか?    語彙力が必要だと思います(遠回りな勉強方法ですけど)。  「入試評論読解のキーワード300」という多くの高校生等が使用している参考書から入ると良いかもしれません。  基礎がないと、疑うことが出来ない。  人間は言葉によって世界を分節する(分ける)。 →物質に名前を与える行為等(「机」「鉛筆」「携帯電話」等)  言葉というフィルターを通して世界を見ている。 →言葉を持って、世界を分けている。  逆に言えば、人間は言葉に縛られている。  こういう内容が記載されてます(もっと分かり易いですが)。 受験コーナーに置いてあるので、恥ずかしいかもしれません、汗。  個人的には分かり易い内容でしたし、今ではその書籍が根源となってます。

keita888
質問者

お礼

受験コーナーですか…でも受験参考書ってとてもわかりやすいですよね。ちょっと本屋に寄ってみようかと思います。 ありがとうございました。

  • Roman0
  • ベストアンサー率18% (118/628)
回答No.2

> まず率直な話、「哲学」とは何ですか?  「物事に対する基本的なスタンス」という言い方が、私にはしっくりきますね。もうすこし「物事」を人間とか社会とかに限定した哲学もあるのですが、初心者ということであえて無視します。 > これから私が「哲学」を学ぶにはどうすればよいですか? > 何かいい本などありましたらよろしくお願いします。  クセノフォンの「ソクラテスの思い出」なんか、外堀を埋めるにはいいんじゃないかと。内容は哲学そのものではないのですが、哲学をする人としてのソクラテスが描かれています。クセノフォン自身は哲学者ではなく軍人でしたから、却って色が付いていなくて良いですし。

keita888
質問者

お礼

哲学を学んだ先には世界が広がりそうですね。 ありがとうございましいた。

  • nisekant
  • ベストアンサー率11% (13/112)
回答No.1

真実を守ることが哲学の唯一の義務であるが、真実を全うするためには、苦悩という哲学的原経験をその全き現実性において、またその全範囲に渡ってしかっりと捉えておかなければならない。哲学は世界の鏡たるべきである。哲学は世界を、それが現にあるとおりに示すべきであり、それゆえ、怯むことなく世界の悪をその全容に渡って描き出さなければならない。又、哲学はそれ自身が苦悩の経験に根差していることを否認してはならないし、それゆえ、哲学は苦悩から目をそらすことさえしてはならないのであり、寧ろ、何のために哲学が有るかを忘れないために、自分の精神状態〔苦悩〕であるか他人のそれであるかを問わず、苦悩に目を留めていなければならない。 さて、先入見を持たずに観察すれば、世界はきわめて「悲惨な」ものであることがわかる。不断に新しい個体を生み出す自然は、しかも〔産み出しておきながら〕、これら個体を全て「日々何千となく、偶然、動物の欲望、人間の気ままによる破壊」に委ねてしまう。それ〔自然の世界〕は「絶えざる窮乏のうちにあって、お互いに喰いあうことによってのみ束の間存続し、不安と困窮のうちに生存し、しばしば恐るべき苦悶を耐え忍び、ついには死の手中に落ちてしまう生物たちの世界」である。 人間や動物が生きているときにすこぶる熱心に追求している目的は全て、遅くとも死と共に水泡に帰し、比較的に幸福な瞬間も稀にしかなく、しかも短い。それ〔目的が永続的に実現されること、幸福が永続すること。ショーペンハウアーの文脈では究極目的〕に代わって支配しているのが「多くの長い苦悩、絶えざる闘争、万人の戦い、各人が狩猟でかつ各人が狩られること、押し合い圧し合い、欠乏、困窮、不安、咆哮」であり、それが永遠に続く。「ある者達は考え、他の者達は行動しつつ、全てのものが駆り立てられてアクセクし、喧騒は言語に絶する──しかし、全てのものの究極目的、それは何であるか?命儚く、苦しみ多い個体をほんのわずかの間維持すること、最も幸福に恵まれた場合に、耐えうる程度の困窮状態と比較的に苦痛の少ない状態でそれを維持すること、である。しかし、この状態には直ぐにも退屈が忍び込もうと狙っている。さらに、〔究極目的は〕この種族と営むの繁殖?繁栄である」。ここで冷静に計算する者は、「生とは、その収益が出費を補填するには到底およばない営業である」という結論に至らざるをえないであろう。それゆえ、恐らく誰も、然るべき熟慮の機会があれば、その生をもう一度生きたいとは願わず、それよりも非存在を遥かに良しとするであろう。 すなわち、この世界は良い世界でなく、寧ろあらゆる可能な世界のうちの最悪の世界である。なぜなら、この世界は、もう少し劣悪であったなら全く存在しえなかったであろうから。という事実の承認を、である。 ショーペンハウアー

keita888
質問者

お礼

なんだか読んでいくうちに何がなんだかわからなくなってきました… やはり私が哲学初心者のせいでしょうか? でもなんとなくいいことが書かれていると思いました。 ありがとうございました。

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