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神功皇后について。

 神功皇后と香坂王・忍熊王の争いは、のちの安閑・宣化・欽明の皇位継承権争いが反映されているという説があるそうです。これにすごく関心があるのですが、どの研究者の説なのかよくわかりません。  ご存知の方、教えてください。よろしくお願いします。

みんなの回答

  • nacam
  • ベストアンサー率36% (1238/3398)
回答No.1

神功皇后自身の存在が疑問視されている人物です。 神宮皇后は、仲哀天皇の皇后とされ、仲哀天皇の時代に朝貢を拒んだ熊襲征伐の途中で、神が乗り移り、熊襲ではなく、新羅征伐のお告げをうけます。 仲哀天皇は、それに従わず、熊襲征伐を続けたため、神の怒りにより死亡します。 神宮皇后は、神の教えに従い、新羅遠征で勝利し、その途中で産気づきましたが、石をかかえて出産を伸ばし、帰国直後に後の応神天皇を生みます。 応神天皇は死んだとの噂を流し、香坂・忍熊の両王子の蜂起を待ち、二人を殺害し、みずから実質的天皇として政治に携わります。 このことから、天皇家が、崇神王朝と、全く関係無い応神王朝、仁徳王朝を結びつけるために創られた人物とされています。 一般的には、継体天皇の子である安閑・宣化・欽明の各天皇とは関係が無いと言われています。 一方では、仲哀天皇自体も架空の人物で、本来仁賢天皇と武列天皇の間にいた天皇を、日本武尊として崇神王朝に移し、その子として、仲哀天皇を想像し、応神天皇から継体天皇につなげたとの説があります。 日本武尊を仁徳朝から崇神朝に移した理由は、継体朝の存在を正当化するために、武列天皇の悪行を強調しますが、その先代が英雄の日本武尊では、武列天皇の悪行を薄められてしまうためと考えられています。 武列天皇の悪行に関しては、古事記には一切の記載が無く、日本書紀にのみ書かれているため、継体天皇を正当化するための捏造との説もあります。 また、安閑・宣化・欽明の皇位継承権争に関しては、神宮皇后とは関係無く、二人の天皇が並立していたとの説があります。 これは、欽明天皇の死亡年から在位年数を逆算すると、継体天皇の死亡年と一致してしまうために、文献のどこかに誤りが有るのか、二王朝が並立していた可能性があるためです。 私の読んだ本は、平成5年に出版された「歴史と旅」の臨時増刊号「歴代天皇総覧」です。 このあたりの事について書かれたのは、 武光誠 明治学院大学助教授(当時)     日本武尊、仲哀天皇 岡田精司 三重大学教授(当時)      神宮皇后 松前健  奈良大学教授(当時)      応神天皇 川口勝康 都立大学助手(当時)      武列天皇 田中日佐夫 成城大学教授(当時)       継体天皇 酒井雅志 国学院栃木短大助教授(当時)      安閑天皇、宣化天皇、欽明天皇

poccuru5
質問者

お礼

 なるほど、この質問の情報源は、瀧音能之氏の  『神々と古代史の謎を解く 古事記と日本書紀』青春新書(05.11.15)ですが、  まだまだ知らない説ってたくさんありますね。

poccuru5
質問者

補足

 『歴代天皇総覧』歴史と旅臨時増刊をネット古書店から取り寄せて読みました。新知見はありましたが、当面の問題についてはあまり参考にならないようです。でもお答えいただきありがとうございました。

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