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大化の改新のレポート!!

現在私は中学二年生です。 学校で「大化の改新」についてのレポートを書きたいのですが、教科書には資料が少なくて困っています。 僕でも理解できるような分かりやすい資料はないでしょうか? 知ってれば是非教えてください。

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  • fumkum
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回答No.4

>現在私は中学二年生です。 学校で「大化の改新」についてのレポートを書きたいのですが、教科書には資料が少なくて困っています。 僕でも理解できるような分かりやすい資料はないでしょうか? 知ってれば是非教えてください。 こんにちは 一番簡単な方法は、日本史辞典で「大化の改新」を引いてみることです。また、百科事典で「大化の改新」を引くことも参考になります。日本史辞典の最高峰は現在のところ「国史大辞典(吉川弘文館刊)」ですが、中学生には難しい内容です。図書館で数種類の日本史辞典及び百科事典を見ることをお薦めします。 レポ-トのポイントは、改新前と後ではどのような変化があったのか。改新が起こった原因は何なのか。関係人物及び行動です。キーワードは、天皇中心・豪族中心・中央集権・律令体制・公地公民・隋唐などではないでしょうか。 なお、大化の改新について「乙巳の変(いっしのへん)」と言い方をされることがあります。これは、このときの変化が改新といわれるほど大きな変化ではないのではないかとの学説・考え方が強くなってきたためです。歴史事象の見方についてはいろいろの説があり、今まで定説とされているものも研究の結果、新たな学説に取って代わられることがあります。少し難しいことを書きましたが参考に。

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  • yoshizne
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回答No.3

あなたに僕の文献を差し上げます あなたを見ていると僕の昔を見るようだから 「歴史って面白いよな。」 4千5百~4千9百年程前には、現在の東北地方に国が興って来ました。津軽で阿蘇辺王国が起こり、近畿に邪馬台王国、筑紫に熊襲王国、出雲に出雲王国、関東に日高見王国、と、続々と王国が建国されて来ました。ユーラシア大陸、朝鮮を経由して来た人々が、石川県(加賀)の三輪に移住し、100以上ある小国を統一して耶靡堆国(やまたいこく)を建国しました。耶靡堆日子(やまとひこ)とも阿毎氏(あめ)とも言われる初代王は、耶靡堆国明日香(やまたいこくあすか)の箸香(はしはか)の山を三輪山(みわやま)と名付けました。その後、加賀(かも)の三輪山神を現在の奈良県桜井市へ移し、これを三輪山大神として、その土地の大杉に住む白蛇を大物主神(おおもののぬししん)として祀りはじめました。この時に耶靡堆国(やまたいこく)は国号を耶馬臺国(やまたいこく)と改めました。 この下に筑紫九州を耶馬一国、南海道三重和歌山を耶馬二国、出雲を耶馬三国、東国関東以上を耶馬四国と称しました。後に耶馬台族の安日彦王が耶馬臺国中央の王になり、合わせて五人の王を立てて政治を行いました。多くの小国の族長(王)がこの時代の動きに敏感に同調して、倭国とも称される耶馬台国は、急激に頭角を表してきたのです。時代は安定したかに思われました。  ところが、紀元前○○○年頃、筑紫日向高砂族の佐怒王(さぬおう)が邪馬台国へ東征を行い、再び戦乱の世となりました。まず、佐怒王は、日向王五瀬彦を送り込みました。7年もの攻防戦でも決着がつきませんでした。この間に日向軍は、出雲族と合流して戦力を高め、耶馬台軍を後退させました。8年後、八百隻の軍船を従えて、佐怒王と五瀬王が難波に上陸しました。五瀬王は、この時、ナガスネヒコ(ヒコは王)らの耶馬台軍によって致命傷を負い、討死しました。そして佐怒王が将軍となりました。この後、難波からの上陸が極めて不可能だと考えた日向軍は、紀伊半島を迂回し、熊野を通って耶馬台国を攻めました。この時耶馬台の王ニギハヤヒは佐怒王を三輪山の麓の磐余に召集させました。佐怒王の天孫の御徴を見たとき、間違いなく弟二ニギの子孫であると確認して佐怒王に国を明け渡しました。佐怒王に政治のなんたるかを教え、安堵するなり出雲へ隠居したものと考えられます。深傷を負ったナガスネヒコは東国へ一族を連れて退去しました。安日彦王もまた、東国へ同じく退去しました。佐怒王は正統に邪馬台国をニギハヤヒより委任されて立君し、後に呼ばれる「神武天皇」として大倭王朝を興し、日本紀元を称したとされていますが、それはこの時期からおおよそ30年後のことです。一方、ナガスネヒコと安日王は福島の会津で再開し、再起を願って津軽へ逃れ、安日王を中央王として立君し、三輪郷(青森県弘前市)を中心に全く邪馬台国と同じ五王の制度を布きました。ここに秋田の熟族、岩手の麁族を併合、ナガスネヒコらが津軽に来る前には晋の時代に敗れた遺臣、その一族が大陸から稲を運んでいて、津軽の日之本国は豊かでした。日之本国讃日は自ら支那に赴いて馬を導入しました。支那へ渡った際、支那東周王朝安王と友好があって、安東将軍と呼ばれたといいます。騎馬軍を編成、秋田の石油を軍用に用いるなど新技術を駆使しました。日之本国済糖彦は、この騎馬軍を5万騎に膨らませ、日之本国武波日の時には念願の故地邪馬台国(倭国)を奪還しました。孝元天皇の邪馬台国立君を良く思わないでいる奥州各地の長老達は坂東(関東地方)に興日彦王を立君し、彼を日之本国正王としました。  これに激怒した武波日彦王は、一族を脱して、自らを日本天皇と新め、(出雲、南海道、筑紫、山陽、山陰)を統一して王国を形成しました。坂東の日之本国と出雲の日本国が激しく紛争を繰り広げたのが、秦始皇帝の甲戌20年だと伝わります。またこの合戦の地が邪馬台国(倭)の那古、現在の名古屋です。つまり、名古屋が西国と東国の堺でした。孝元天皇の子供がやがて父のように邪馬台国を再び統一しました。  三輪山に即位したその人物は後に、開化天皇と呼ばれ民衆に親しまれる存在です。  ●岩手の歴史  岩手県は、日本国の語源となった日高見「ひたかみ」を古称とします。その歴史は古く、太古の古代は原人と呼ばれた人々が同県の早池峰山から宮守村、遠野にかけて住居していきました。約4500年の昔、水害で移住してきた人々とともに文明と文化がもたらされ、日高見国(日ノ本国)として栄えました。今の北上市は奈良時代に韓国朝鮮半島からの移民者が作った大和朝廷からは蝦夷と呼ばれたその中心地で、8世紀末の38年戦争では日ノ本国王アテルイは、大和朝廷同じく渡来系移民の子孫である坂上田村麻呂の率いる朝廷軍と戦いました。その後、蝦夷は全国に強制移住させられて俘囚と化すが、後に一部が許されて帰還し、11世紀までに俘囚長の安倍氏とともに半独立の勢力を築きました。安倍氏は前九年の役で源頼義の朝廷軍になびいた秋田仙北の俘囚主清原氏によって滅ぼされました。その清原氏も一族の内紛から後三年の役で滅び、安倍氏の血を引く藤原氏が東北を統一して黄金時代を築いたのですね。  江戸時代には、県の南部は伊達氏、北部は南部氏によって統治されました。幕末に東北諸藩が奥羽越列藩同盟(北部政府)を作ると、現在の岩手県を支配していた南部藩・伊達藩はその中心となりますが、結局敗れて明治政府によって占領されました。その後、盛岡県を岩手県に改称させられるなど、敗戦の屈辱をバネに人材を輩出し、原敬が総理大臣に就任して薩長藩閥政治を終わらせ議会政治の定着をはかるなど、近代においては岩手県元知事の千田正の采配もめまぐるしく日本国家建設に多くの功がありました。現在「陸奥みちのく」と呼ばれる以外は、太古の栄光を知るすべも無くなった岩手県ではあるが、日高見の国を童話「銀河鉄道の夜」で有名な作家宮沢賢治がイーハトーヴォ(理想郷)になぞらえる等、郷土を愛する市民の多いことも如実であり、冬の気候は厳しいながら温情暖かな人々の集う理想都市であります。現在は岩手県民が一体となって環境問題に取り組み、輝かしい郷土の歴史とその心を子供たちに継承しているところです。  北上市は水の便に恵まれ、縄文の昔から北上市更木の水乞山を中心に大規模な集落が作られています。昭和に入ってからは旧更木村長の千田甚太郎によって北上川に昭和橋がかけられ、それより北上、岩手はめまぐるしく発展を遂げました。北上市は古くは宮守村、遠野から移転してきた人々が、土地の郷氏と睦み、日本国の古称である日高見国の中央として古代は豊かな台地でありました。 9世紀、平泉より遡ること250年前には、国見山極楽寺が山岳仏教の拠点として栄えています。  ▲岐阜の歴史  歴史そのものは原始のむかしより人が住んでいます。飛騨高山にはじまる岐阜県の太古の歴史は、日高見国(岩手県)と耶靡堆国(石川県)の睦みによって約3000年前に開かれました。シルクロードを作ったサマルカンド(ソグド=ユダヤ)のその末裔たちは、大淡上方(おおあわのかみがた)と呼ばれ15代続いた後は天照大神と名乗り○○○○年前の35代(三輪明神の母)が奈良へ行くまで続きます。これより4代後の神武より大王の笏(しゃく)は飛騨高山から倭国(後の大和)に飛騨より許可を経て贈られました。尚、飛騨白川郷は世界遺産に登録されています。  ◆奈良の歴史  桜井市の歴史は古く、縄文太古の昔は同市三輪山近郊の巻向にて大集落を形成していました。約○○○○年前、岐阜の地震によって逃れてきた人々が、同市笠村に移住し、豊かな文明・文化をこの地にもたらしました。ここは大倭瑞穂国(おおやまとみずほのくに)と呼ばれました。三輪山にはこの地を和邇(丸子氏)に養子いりしたこの地初代のニギハヤヒ大王が祀られています。紀元前後に天然痘の流行った際には九州より天皇の代理として卑弥呼(正しく日弥呼)がこの地に来て、治世を行いました。また彼女は紡績を推進して当時なすすべをしらず悲惨な目にあっていたこの地の女子に仕事を与え、また、病人のために療養施設を作るなどをして、社会福祉事業を行いました。後に皇居は三輪から初瀬へと、そして敏達時代に飛鳥へと移されました。538年百済より仏教がもたらされ、三輪明神(後明治時代までの大神神社)に百済仏が安置され、蝦夷との乱の平定を祈って聖徳太子(正しく厩戸)が、581年大三輪寺(現在の平等寺)を創建して百済仏は移され、桜井市より日本全国に仏教が波及しました。大化の改新後、藤原不比等によって藤原京が建設され、710年には平城京を整え、当時世界の中心であった中国の唐を手本とした律令国家が形成されました。このとき、郡山に政治的な拠点を置いたのです。同時に三輪を中心とする奈良盆地全体を占めるほどの、当時『世界最大級の都であった倭京』は、藤原の政策によって改名され、はじめて日本(大和)の号が使われ始めます。平安京にいたるまでの時代、奈良県桜井市は国家形成の基礎となり、今尚三輪山の神社仏閣への信仰は篤いです。

  • yoshizne
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回答No.2

 中学校二年生ですか、また素晴らしい勉学に励んでおられますね。感心します。少しでも自分の知っていることを。  藤原鎌足公の本名は中臣鎌子ですね。鎌子は最上に生まれ少年期までは茨城県の鹿島で育ちました。父親は御食子(みけこ)という神官であり、母は大伴家の方です。大伴夫人と呼ばれています。  600年代の日本は非常に難しい状況にありました。中大兄皇子は百済より避難してきた王族の系統です。兵庫県の三木の忍部(おしんべ)さんの村に匿われて育ちました。あるとき村の祭りがあって、その時中大兄皇子が和歌を詠んだんですね。それはおかしな話ですよ。村人はびっくりしました。ただの牛飼いと思っていた少年が、突然都人しか使わない、それも貴族でしかやらない和歌を詠んだのですからね。  その噂を聞きつけたのが、中臣家を継ぐために奈良に来ていた鎌子です。鎌子は考えたわけですね。今のまま蘇我氏が皇室と権威に就いているようでは、朝鮮百済から逃げてきた人々は出世もできないのではないだろうか。もっと温和な政策にならないだろうかと。  そうして、中大兄皇子を都へ連れて行き、しばらくして蹴鞠をしていたところを訪ねて行って、皇子の気持ちを確かめたわけです。その話し合いをしたのが多武峰(とうのみね)の談山です。  「皇子、いいですか、あなたが皇統位につけば、全てが丸く治まります。豪族がはばをきかせて民が苦しめられることもなくなります。また諸国の遺臣もこれで助かるのです。もし、私を信用しているのであれば、懐妊しているあなたの姫を預けていただきます。」  昔は、人の信を知るために、その人の妻を自分の妻にしたりしました。これは、皇室のものに万一のことがあった場合に備えて、そのようにしたのです。  中大兄皇子は了承し、姫を一人鎌子に任せました。そうして、645年6月12日に板蓋宮(いたぶきのみや)で蘇我入鹿は暗殺されます。死ぬ前には、「なぜ私が殺されねばならないか!」ということを叫んだのです。  蘇我氏にしてみれば、日本を悪くした覚えはなく、中央集権の国家を目指していたので、鎌子や中大兄は急ぎすぎた行動だったかもしれません。  鎌子は政治の中心を、大和郡山に置き、律令をもって政治を進めるとともに、当時の重税であり重い役であった古墳の造営を縮小させるなど、国民の負担を少なくする政策を進めて行きました。  中大兄は天智天皇となったわけですが、鎌子がやはり怖かったようです。政治は鎌子の子、不比等が任されて平城京の造営もはじまりました。それでも自分を天皇にまで押してくれた恩人であることには変わりないので、天智天皇は鎌子に藤原の姓を送り、藤のように茂り日本中を潤してくださいと言い、日本で天皇以外に最高位である、大職冠(たいしょくかん)の地位を与えたのだといいます。  今にも昔にも、この大職冠を受けたのは、藤原鎌足その人だけです。  歴史は教科書に偏りますから、レポートするときお勧めは、  (1)その時代の世界情勢、日本の情勢  (2)先の勢力、蘇我氏の政策  (3)大化の改新、その後どう変わったか  ということを念頭に入れてまとめてみると、内容があって楽しい学習になると思いますよ。あなたの勉学がうまいこといきますように。

  • bari_saku
  • ベストアンサー率17% (1827/10268)
回答No.1

この質問をそのまま、図書館で言えばOKです。 できれば大きい所に行った方がいいですね。 近くに小さな図書館しかない場合は、本を取り寄せてもらうことになりますので、時間に余裕を持って下さい。

rangelove
質問者

お礼

やはり時間が必要ですか… 分かりました。わざわざありがとうございます^^

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