- ベストアンサー
「我思う、故に我あり」とは?
デカルトの「我思う、故に我あり」という言葉の意味が良く分かりません。 何かを見たり触ったりしているのも、夢の中の出来事かもしれないけど、どれだけ疑ったとしても疑っていると思っている事実は動かない・・・ということだと思うのですが、だから何が言えるのか良く分からないです。 また、疑っていると思っていることも夢かもしれないと思うのですが、どうなんでしょうか? どなたか分かりやすく説明をお願いします。
- みんなの回答 (8)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
6番さんのおっしゃること、アホとは全く思わないですが、伝統的なデカルト解釈からはかなり外れているように見受けます。 私なりに噛み砕いてまとめてみます。 当時、デカルトが、真理を探究していこう!とまじめに思って回りを見渡してみると適当なことばかり言ってる人ばかりだった。 特にスコラ哲学者は、偉そうな顔して適当なことばっかり言ってた(デカルトは仮想敵として、スコラ哲学を思い浮かべていることが多いようです。だからデカルトを真に理解するためにはスコラ哲学を腰をすえて十年は読まないといけない、とされてます)。 そこで、そこから出発したら、絶対まちがわん、という一点を必死に探した。あらゆるものを疑ってみて、論破できたら、全部疑わしいものとして切り捨てた。 で、感覚的世界も全部私を間違わせるから、全部無視して、自分がどこにいるのかも分からなくなりながら、必死に疑いえない一点を探した。 あらゆる命題を疑い、論破し、苦しんだあげく、最後に「われ思うゆえにわれあり」を見つけた。 これはどんなに疑いの目を向けても、真実だ、とデカルトには思えた。 というわけでここから出発して真理を探究することにした。全ての学問の出発点はここ以外にありえない、と。 そこから哲学について、感情について、いろいろ探求したけれど、一番凄いのは神様の存在証明まで考えたことだと思います。 われ思う、から出発して、神様まで証明しちゃう。 『省察』のその戦いっぷりは偉大です。 全然デカルト主義者じゃないですが、泣けます。 話がそれましたが、「われ思うゆえにわれあり」は、全ての哲学が、全ての学問がそこから出発すべき一点だ、とデカルトは主張します。 感覚的なものは私を間違わすことがあるので、切り捨てます。だからこの「われ」は肉体ではなく精神です。(デカルトは肉体と精神を思いっきり分けて考えます) 夢の中で思っていても精神としての私はある。 ホントは体を全て失っていて、実験室で脳に電極さされて、本当は肉体なんてないのに、あるように思わされていたとしてもかまわない。 究極的には脳なんて物質があろうがなかろうが、どうでもよい。 それでも、もし私が考えてるなら私の精神は存在する。 そんな感じだと思います。
その他の回答 (7)
- ojizou-sam
- ベストアンサー率30% (12/39)
たとえば「ヘソを切り出してください」という宿題をもらったとします。 腹の真ん中にある”おへそ”です。 「ヘソ」をよくみてみてください。 皮膚に「此処から、此処までがヘソだ」と断言できる境界ってあるでしょうか? 皮膚がそうなら、内側の肉とか脂肪の部分なんて、もっと境界がないと想います。 よく探してみると(懐疑的)、ヘソなんて何処にも無いと気がつくんです。 でも、確かにへそはあります。 同様に、人差し指も探してみてください。 皮膚は全身に繋がっているし、血管も、筋肉も、骨も・・・全てが繋がっていて「此処から、此処までが人差し指だ」と断言できる境界なんてありませんよね。 でも、確かに人差し指はあります。 他にも「日本」を探してみてください。 日本中歩き回っても「これが日本だ」と断言できるものは、何処にもありません。 でも、確実に「日本」はあります。 「私」も探してみると、何処にも「これが私だ」と断言できる「私」なんて存在しません。 鼻が私でしょうか。 眼が私でしょうか。 それら全てが私でしょうか。 じゃあ「ご飯」を食べなかったら私は死んでしまうから、「ご飯」も私の一部と考えられないでしょうか。 「水」もそうです。 「気温」が100度になったら、私は死んでしまうから、太陽と地球の距離も「私」を構成している一部分と考えられないでしょうか・・・。 ・・と、「私」なんて何処にもいないんです。 でも、私は、確かに存在します。 その唯一の存在証明が「我思う、故に我あり」です。 これ以外には、「私」は見つからなかったのです。 「ヘソ」も「人差し指」も「日本」も・・・この世の全てのものに、この理屈が当てはまります。 仏教では、これを「縁起」と言います。 私というのは、いろんなものが縁(よ)って起こっているという意味です。 難しくいうと、この世の全てのものは相互依存関係にあるのであって、それ自体が単独で存在している実体を持っているのではないという意味です。 「想う」・・・つまり「認識」が私の存在証明であったというデカルトの結論です。 仏教では認識する働きのことを「心」と言います。
お礼
回答ありがとうございます。 9割ぐらい分かって1割ぐらい分かんない感じです。
- vincero
- ベストアンサー率35% (28/80)
自分と自我は同じ意味のものではありません。ですが、それを一つの言葉で「我」と表したことで、「我思う、ゆえに我あり」となり、意味がわかりずらくなったのだとわかります。本来の書き方としては、「自分を思う、ゆえに自我あり」となります。 意識において自分を認識することにより、自我は存在します。ですが、そのことを意識しなければ、自分がどこにいるかもはっきりせず、自我は存在しないに等しいものとなります。 「我思う、ゆえに我あり」とは、自分を客観的に見ることにもなります。 自分とは肉体ではなく、意識することで自分の存在がわかるのです。意識とは脳の働きでもありますが、脳自体が意識を持つのではありません。生命そのものが自分を存在させるのです。 「自分を思う、ゆえに自我あり」の「自分」とは生命としての自分であり、「自我」とは肉体としての自分といえます。
お礼
回答ありがとうございます。 伝統的なデカルト解釈からは外れているようですが、参考になりました。
- NCU
- ベストアンサー率10% (32/318)
さらに突き詰めれば、 「思う」という脳の機能が「自分」そのものなんですね。 「機能」なので局在しないし、脳の中にすら発見できない筈です。 デカルトがそこまで言っているのかどうかはわかりませんが。
お礼
思うこと自体が自分なんですね。 回答ありがとうございました。
- qyon
- ベストアンサー率22% (5/22)
たまに、 『自分ってなんなんだろう。本当にいるのかな?』 って、思うことありません? 私はあります。 そんなとときにこの言葉を聞くと 『ああ、そんなこと考えること自体、私が思っていることなのだから存在する証拠だ!』 と、思うのです。 夢の中でも夢ではなくても そう思うことがそうなのです。 たぶん、そういうことだと思うのです。
お礼
回答ありがとうございます。 たしかに考えることありますね。というか小学6年生の頃から考え始めてました。思えば、あれから性格も暗くなっていってしまったんだな~・・・。 そんなことを考えているということは存在しているということ・・・なんとなく分かってきた気がします。
- oxbridge1985
- ベストアンサー率16% (26/161)
「疑っていると思っていることも夢かもしれない」と考えているもの(主体)が紛れもなく存在しているということです。単純に言えば、あなたの精神が存在しているということを指している言葉です。 自分の存在は疑えないので、他の要素を排除して思考することから全てを発展させていくべきだということだと思います。
お礼
回答ありがとうございます。 考えている=精神が存在している、ということでしょうか。
- cliomaxi
- ベストアンサー率33% (2921/8736)
俺ってもしかして誰かの夢や想像の中の登場人物なのか? いやいや、俺が俺のことを考えているんだから俺は存在している筈だ。 確かこんな感じだったと思うのですが。
お礼
回答ありがとうございます。 俺が俺のことを考えている→俺は存在している という論理が良く分からないんですよね~・・・。
- pastorius
- ベストアンサー率48% (538/1110)
大前提として問題意識を共有できないテーマというのはその人にとって必要のないことですから、実感としてダカラドウヨというのが共感できなくてもいいのかなと思います。 # 疑っていると思っていることも夢かもしれないと思うのですが 夢を見ているあなたという主体は確かにいる、ということになるんでしょうね。 我夢見る故に我在り、でもいいです。 私という主体は存在しないかもしれないという不安感を抱く人がいっぱいいるんです。全知全能の絶対神なんてのを信仰している社会では特にそういう不安が出てくると思います。 しかし個性豊かな八百万の神様だとかオリュンポスやヴェーダの神々なんかを信仰している社会では、原始的に個性というものありきですからそんな不安自体が生じ得ないと思います。
お礼
回答ありがとうございます。 分かったような分からなかったような感じです。 せっかく回答していただいたのに申し訳ございません。
お礼
分かりやすい文章、ありがとうございます。 肉体と精神を思いっきり分けて考える・・・心身二元論ってやつですね! 最近、覚えた言葉なので使ってみたかったんです^^;