無意識と夢とを結びつけて考えるのは,精神分析またはその流れを汲む立場です.
精神分析は,ご存じかと思いますが,フロイトに始まる,治療理論であり,パーソナリティ理論でもある学派です.
フロイトによれば,心は,3つの心的装置と呼ばれる部分からなっており,その間の力のバランスでパーソナリティが決まると考えられています.
これを力動的人格理論といいます.
さて,その心的装置は,次の3つです:
1)エスまたはイド(Es,Id):無意識の代表的な部分で,本能的な衝動や,抑圧された欲求,記憶,イメージが貯留されています.この部分は,「快感原則」にしたがって,動き,「欲求が生じたら,即時に満足させたい」という働き方をします.エスは,生まれつきもっている部分で,赤ちゃんは,いわばエスのかたまりのような存在です.
2)超自我(super ego):超自我は,生後,両親などから承ける「しつけ」を自分の中に取り入れて(これを,内在化といいます),形作られます.超自我は,昔風の頑固親父のようなはたらきをします.つまり,良心の禁止,理想の追求です.具体的にいえば,「~しなければならない」「~してはならない」という作用をします.
3)自我(ego):自我も,生後,いろいろな人と出会ったり,社会的なルールに接する中で,次第に形成される部分です.自我のはたらきは,「現実原則」にしたがいます.つまり,エスと超自我の2つしかないと考えると,方や「欲求の即時満足」を追究し,方や「~してはいけない・~しなければならない」ということを主張しますから,現実の世界でうまくやっていけなくなります.自我の現実原則は,「現実の世界に適応していけるよう,エスと超自我の間等をうまく調整する役割」を果たしています.
自我・超自我とも,意識のレベルでいえば,前意識(ぜんいしき)~意識のレベルです.
先ほど書いたように,パーソナリティは,この3つの心的装置の間の力関係で決まるとされます.
1)エスが強い:我慢できない,わがままな,幼児的性格
2)自我が強い:現実的,理性的,合理的な性格
3)超自我が強い:生真面目,頑固,融通が利かない,抑圧的な性格
また,先ほどの意識のレベルとは,いわば自分で気づいているかどうかを分類するものです.これについても,簡潔に説明すれば,次のようになります.
1)無意識:エスがその代表的な存在です.通常は,無意識で何が起こっているかは,気づいていません.抑圧された衝動や記憶・イメージの貯留されている部分がエスですので,それがそのまま意識にのぼると,その人の自我の安定が脅かされるため,形を変えて(加工されて)意識にのぼります.その1つの形態が,夢なのです.夢で,たとえば,刀やピストルが男性器の象徴とされるのは,加工されているため,そう解釈されるのです.
2)前意識:普段は気づきませんが,何かの機会に,あるいは,努力すれば,意識にのぼる部分とされます.
3)意識:これは,私たちが普通に,気づいている部分です.
以上が,精神分析の考え方によるものです.
無意識は,したがって,昼夜に関係なく働いていますが,主に欲求(中でも,性欲,食欲,攻撃性など)の源であり,それらが抑圧(処理されないまま押し込められている)されている部分です.
昼間は何をしているかということ自体に,直接の回答になりませんが,このような仕組みを,精神分析では考えています.
通常の心理学で,「意識されない」「無意識的に」というときは,次のような考え方です:
何かをするときなど,かなり身についてしまっていることでは,ほぼ自動的にできてしまうことがたくさんあります.
たとえば,クルマの運転で,初心者のうちには,するべき動作を1つ1つ思い出して,かなり努力して(意識して)行う必要がありますが,慣れてしまえば,助手席の友人と話をしながらでも,音楽を聴きながらでも,とくに考えずに運転ができますね.
こういうように,学習が進み,自動的に行えるようなった場合に,通常の一般心理学では,「無意識的に行っている」ということがあります.
お礼
ご回答ありがとうございました。 フロイトの精神分析については、以前、多少聞きかじったことはあるのですが、エス、自我、超自我の関係がよくわからず混乱していました。でも、今回大変わかりやすくまとめていただいたので、なるほどと納得できました。ありがとうございました。 それで、色々考えてみたのですが、「無意識」について、私は勘違いしていたような気がします。というのは、そもそも「無意識」という「もの」があるわけではないんですね。「意識がない」とは言うけれど、「無意識がない」とは言わないですもんね。「無意識というもの」があるわけではないから、「無意識が何をするか」という問いもおかしいということになりそうですね。 では、何があるのかというと、ご説明にあった、エス、自我、超自我がある。すなわち、何かをするのは、「無意識」ではなく、エス、自我、超自我だということになりそうですね。そして、無意識は、あくまで、それら、エス、自我、超自我の働きに気付くか気付かないかの「状態」を表しているだけ。とりあえず、そんな理解になりました。