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夢の意識と現実の經驗について
- 夢は意識のない經驗なのか?現実との違いは何か?海の水面を現実とするなら、意識全体の境界はどうなっているのか。
- 潜在意識の役割とは?夢を見るのは潜在意識が働いているからなのかもしれない。
- 夢の經驗と現実の經驗の違いは何か?私たちはどうして夢と現実を区別できるのか?
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難しい質問ですね。僕もよく分かりませんが、少し思ったことを書いてみます。 まず、経験というのは、自分の記憶に残っているものだけを言うのではないでしょうか?何かを実際にやっても、それを全く覚えていないのであれば、それを経験とは呼ばないような気がします。 夢が、現実とどのような関係にあるのか、定かではありませんが、とりあえずそれが自分の記憶に何らかの足跡を残しているのであれば、それは現実の経験として認識されても良いように思います。自分の人生の中で、何らかの意味を有している可能性がある、ということです。 意識とは、何なのでしょうか?我々は、何かを「知覚」しているとき、自分には意識がある、と考えるのではないでしょうか?その内容が何であれ、何らかの刺激、何らかの情報を感受しているとき、自分には意識がある、と考えるのではないでしょうか? その意識(知覚)には、様々な層があるかもしれません。周囲の物音や、様々な光、色、匂い、触感だけでなく、様々な感情、思考、直感、あるいは共感といった、様々な状態が存在していると思います。あるいは、自身の身体状態、健康状態なども、意識の中に含まれていると思います。 どこまでが夢(潜在意識)で、どこまでが現実(顕在意識)なのでしょう?ここまでが夢で、ここまでは現実、といった風に、はっきりとした区切りをもうけることは、果たしてできるのでしょうか?それとも、そういった区切りというのは、あくまで一方の都合、現実の側からの、勝手な押しつけに過ぎないのでしょうか?…つまり、我々は現実が主役であり、夢は脇役にすぎない、とどこかで線引きしているのではないでしょうか。同等の価値を持つものとして、両者を扱うならば、そういった線引きは無意味なものになっていくのではないでしょうか?なぜなら、そのとき、夢と現実は、どちらも自分にとってのかけがえの無い真実として、とらえられるだろうと思うからです。
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- kurinal
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krya1998様、こんばんは。 なるほど。 「合理論(であるはずだ)と経験論(だった)」ということなら、 夢と現実かもしれないですね。 (どちらが不誠実ということでもなく、ただ、 (であるはずだ!)という決め付けが厳しい場合に、悲劇が起こりがち) →「経験から、フィードバックしましょう」ということに、なっているのでは?(規格)
お礼
ありがとうございました。
- Nakay702
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以下のとおりお答えします。 >1. 潜在意識と顕在意識とを分ける境界としての海の水面とは現実世界というのでしょうか。そうならば、意識全体としてはその境界はどうなっているんでしょう? ⇒2つの異なるものや状態が直接連続している場合、その接触部分ないし「渡りの部分」は多かれ少なかれ漸増漸減していくと思います。水の沸点や融点をはさんで隣接する各位相の接点部分は多かれ少なかれ過飽和状態を呈するのが普通です。 視点を180度変えて、短歌で高浜虚子が「白牡丹といふといへども紅ほのか」と詠んでいます。 一般に(物質の固体同士という場合を除いて)、例えばAから接触するBへ移っていく場面では、ABの混在する相が介在する、というのが自然のあり方でしょう。白と黒の間には無数のグレーがグラデーションを成している、「多値的」な存在形式ですね。 >2. 潜在意識は意識してない世界でしょうか? >そうならば夢は意識のない經驗なのでしょうか? >夢と現実とはどこが違うのでしょう。 >何かを經驗しているならば夢だって意識が働いているのではないでしょうか。 ⇒夢は、「意識のない経験」でなく、意識はある、少なくとも、「半意識」はあるが、「自覚のない経験」なのではないでしょうか。 「サブリミナル効果」という術語があります。映画などを見ていて、突然コーラを飲みたくなったり、ポップコーンを食べたくなったりすることがあります。画面は全然関係ないシーンでも、おいしそうにコーラを飲んでいるような場面を「約20分の1秒(短か!)くらい」挟み込むと、そういう場面を目撃したという自覚はないのにコーラを飲みたくなるんですね。これが、「サブリミナル効果」で、今では、このようなCMの手法は禁じられているようですね。 >3. 夢經驗と現実經驗の違いってなんでしょうか。 >今みなさんも私も現実世界の現実經驗の最中ですよね。それは夢ではないというですね。>どうして夢ではないと認識することができますか? ⇒おもに、働いている脳の部位で分けることができるかも知れません。 現実経験では、主として前頭葉の「新しい皮質」が活動するときで、この部位は分析、推理、善悪の判断、批判などが得意ではあるが、記憶、それも特に昔の記憶を思い出す作業が苦手なんですね。それに対して、夢経験の際によく働く「古い皮質」は、そういう昔の記憶を思い出す作業などが得意らしいです。 これは催眠術をかけられた場合とよく似ていて、例えば、「あなたが小学5年だったときの夏休みには何をしましたか?」などという質問にスラスラ答えるそうです。つまり我々は、覚醒時には覚えていないと思っていることも、実は古い皮質には蓄えられているということを物語っています。それで、夢の中では時に昔のことがいやに鮮明に出てきたりするんですね。 ところが、この古い皮質は分析、推理、善悪の判断、批判などは苦手で、したがって、催眠術をかけられた場合などに「これをしゃべってはまずい」などという判断はできないらしいです。それで、昔の映画などで、スパイを見破ろうとするときなどにしばしば催眠術が利用される場面があったのは、こういう事情からだったんですね。 以上、ご回答まで。
お礼
ありがとうございました。 脳の皮質の違いについては、この文系頭の私にはちょいと理解が呑み込みがやさしくないですが、僧なのかもしれませんね ありがとうございました。
- zebura23
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私も基本的に、 潜在意識も顕在意識も一つの大きな意識であると考えています。 夢はその潜在意識に当る部分でもあり、 肉体意識が眠ると露わになる部分と考えます。 一般的に私たちは、肉体的意識を主なものと教えられ、またそう考えていることから 夢である潜在意識を軽んじる傾向にあります。 ゆえに容易に肉体的睡眠時に夢の世界に入ることができず、たとえ入っても その示唆されるものを読み解き、そこで生きて、受け取ることができません。 ご存知かもしれませんが、 辻 麻里子さんという方がいますが、彼女は睡眠を通してあちらの世界へ 行くことのできる稀な能力を持った方です。 彼女は夢であるあちらの世界で体験してきたことを本にしていますが、 それは非常に興味深く、真の世界はこの肉体的な世界ではなく、 向こうではないかと思わせるものです。 なぜならいわゆる肉体的顕在意識と我々が思っているものが、 実は潜在的夢の世界にその原因があり、コントロールされていると思えるからです。 質問の答えになっていないと感じますが、 夢と現実、顕在と潜在を分けているものが、 強烈な肉体的意識ではないかと思います。 つまり肉体意識を離れる時、 私たちは分裂のない統一された意識に入るのではないかと思うのです。 それを私たちは瞑想によって、無我の境地で、そして夢見の状態で 体験しようとしています。 ですが実際には、水面上と水面下と分けられているとは思いません。 すべては入り混じって意識に存在し、肉体的意識が薄れる時、 普段自覚されることのない意識が表面化します。 私の家族にずっと長年、夢を記録している者がいます。 その記述は非常に興味深く、最初はとりとめのないものでしたが、 今では一つのドラマとして進行しており、彼は睡眠を通して向こうへ行き、 別の人生を生きているかのようです。
お礼
ありがとうございました。 たいへん勉強できました。 いわゆる潜在意識での夢の世界もやはり肉体意識はあると存じます。 それは無論、覚醒してからの解釈編集でしょうが。 この潜在意識と顕在意識って境界はなさそうですね。 睡眠で夢を見るのでなく、覚醒して紡ぎ出しているんでしょうね。
お礼
ありがとうございました。 たいへん勉強になりました。 どこまでが夢(潜在意識)で、どこまでが現実(顕在意識)かの境界区切りはやはり不可能なんですね。 一人の人間のひとつの意識、その經驗なんですね。 しかし覚醒してからの夢なる認識の内容は意識内のことでしかなく、現実の対応がないんですね。ありがとうございました。