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意識と経験の関係についての質問
- 潜在意識と顕在意識の関係は海の水面と水面下の氷山という関係であり、潜在意識は常に機能しているが意識されない存在である。
- 夢は意識のない継続的な経験であり、現実とは異なる存在である。
- 夢継続と現実経験の違いは、夢は意識が働いていないが、現実は意識が働いていると認識できることによる。
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1つ訂正しなければならないのは、「夢は潜在意識で見る」 ものではなく、潜在意識とは、意識の下の働きの事であり、 夢を見ている状態の脳は、感覚器官と連動していないだけで、 覚醒状態にあるという事です。 その上で言うならば、意識とは無(=不確定的無限)の潜在 としての認識可能性の時系列化=自我仮説(記憶=過去=時間 の流れ)による、空間仮説(予測=未来=空間の広がり)との 相補分化によるもので、その1次的「相補分化」において、 自我成立のための必要としての環境=物理が成り立っている。 夢や空想は、そうした環境性とは縁の切れた二次的なものな ので、自由である分、その空想を可能にする肉体の持続性が、 新たな“物理”として先入化する。
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- urigadai2013
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この質問をしているkrya1998という男は、2011年に富山の精神病院に強制隔離され、医者に自分は精神病者ではないと抵抗し、その証拠に、こうやってヤフーの知恵袋に投稿しています、と言って、それを示したという。 だけど医者はそんなものは「フン」と言って相手にせず、精神病院に収容したという。 そして今は「派道会」というオカルト団体を自ら主宰し、霊媒者・霊能者を集めて、全国各地で会を催し、参加者を募っているという。 そのbaeniao56が今度はこのOKウエイブにお目見えして、OKウエイブの読者を自分の主催する「派道会」に勧誘しようとしているという訳。 みんな用心しなければいけないよ。 洗脳されるからね。 この人は哲学書など読まず、ヤフーの知恵袋では、単なるピエロとして嘲笑されている有名人です。 誰も相手にしません。 知っているとしたら、ユングのオカルトだけ。 そしてユングは集合的無意識があると言っています、だから集合的無意識も、フロイトの無意識も、潜在意識も、事実ありますと言っているけど、無意識だとか潜在意識だとか、そんなのは仮説なので、実証されたものではない。 その単なる仮説を事実存在するというところは、いかにもオカルトらしい。 「夢は潜在意識で見るらしいと言われております」というけれど、そんなことを信じているのはkrya1998だけ、今ではそんなことを言う人はいない。 意識には潜在意識も、顕在意識もない、ただ一つ意識があるだけ。 顕在意識があるから潜在意識もあると、対比して言っているだけ。 顕在・潜在という言葉の対比でしかない。 夢を潜在意識で見ていると言っているが、夢にはレム睡眠と、ノン・レム睡眠があり、深い睡眠と浅い睡眠がある。 そして夢を見るのは浅い睡眠の時だけ。 深い睡眠の時は意識はないので、夢も見ない。 夢を見るのは浅い睡眠の時だけ。 浅い睡眠の時はかすかな意識がある。 しかし、夢というのは夢を見ている時に夢を見ているのではなく、覚醒してから、ああ、夢を見たなあ、と後から作り上げるもの、制作されたものだ。 故・大森荘蔵は夢は覚醒して後から作為される、制作されると言っている。 昔から、bainiao56という人は哲学書を読まず、意識に関して文学的にそれを氷山にたとえ、海面の上に出ている部分を顕在意識、氷山の見えていない部分を潜在意識と言い、氷山が海面下のもの方が大きいように、顕在意識よりも潜在意識の方が大きいという。 哲学なんて知らないから、文学的な表現、比喩でしか表現できない。 そして潜在意識と顕在意識があることを一切、証明なんかしない。 ただ、あると言っているだけ。 いかにもオカルトらしい、面目躍如! したがって、 質問1、潜在意識なんてないのだから、顕在意識もない、だから潜在意識と顕在意識の境界線なんてない。 意識は全体なので、部分なんてないし、境界線もない。 国境線ならば、バリケードがあるかもしれないが、意識にはそんなバリケードはない。 質問2、夢と現実の違いは意識の度合いです。 意識が強い時はそれを現実と言い、意識が弱い時はそれを夢という。 もちろん、私たちは夢の中で疑似的な経験・体験をすることはある。 だけど、本格的には、覚醒時に後から構成する、作為する、その方がはるかに経験・体験の度合いとしては強い。 質問3、夢経験と現実経験に違いはない。 ただ、その現実感の強さの度合いはある。 夢は現実感が希薄、覚醒時には現実感が強い、その違いはある。 私たちはこうして生きていて、この世界が現実だという強い確信がある。 フッサールはそれを「存在信憑」と言っている。 いわば信念。 世界が存在している、私が存在している、という強い信念がある。 もし、その信念が崩壊すると、私たちは生きていられない。 確かに、もしかしたらこの世界は、そして私は存在しないのではないかと疑うことができる。 でも、人がそれを疑うということは一方では疑えないものがなければならない。 デカルトも「方法叙説」で、すべてを疑ったが、自分の存在と神の存在だけは疑うことができなかった。 胡蝶の夢とか、邯鄲の夢とか、それが夢として分かるのは覚醒時だ、もし永遠に覚醒しないと、それを夢ということは出来ない。 つまり夢は覚醒と対比してのみ言えることであって、夢しかなかったら、それを夢とは言えない。 bainiao56よ、ヤフーでみんなから嘲笑され、追放されたからと言って、このOKウエイブで、同じ質問をするのはよせ!
お礼
ほう私は富山に足を踏み入れたことのない浅草花川戸生まれ育ち。 浅草と蒲田戦災に罹災し、貧困の中で育った78. 出している男は私も違和感があって一応敵対している。 面白い書き込みですが的外れもいいところ。
お礼
ご解答ありがとうございました。 なるほど。夢とはそういうものですか。一つ勉強になりました。