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客観的な歴史資料は存在するのか?

現在、文学部に在籍している者です。 「史学概論」という授業を受けていますが、 歴史というものは歴史家の思想が絶対に入ってしまいますよね。 また、当時の政権によって恣意的に作られることもあるでしょう。 では、客観的な歴史資料とは、 やはり存在しないのでしょうか? 写真や映像が存在しない時代においては、 歴史家が書いた「歴史」を読んでその時代を感じることしか出来ません。 それならば、人は何を基準として 物語のように作られた「歴史」を 過去に起こった事実として受け入れているのでしょうか? そこに客観性を求めるにはどうしたら良いのでしょうか。

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  • caesar-x2
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回答No.2

客観的歴史資料は、統計、証言、DNA、 遺物・遺跡・物的証拠などいっぱいあります。 歴史家は当時あつめたこららの客観証拠から 独自の見解に達したわけです。 ただ歴史家が書いたものはおおむね文学作品ですから 完全に主観を排除するのは困難でしょう。 しかし必ずしも「客観」=「正義・善」で 「主観」=「不正・悪」であるというわけではありません。 例えば、先日は終戦記念日でしたが 戦争被害、沖縄戦や被爆者の証言を 100%の冷徹な客観でだけで見つめたら それは何の価値も無駄なものとしか判断できないでしょう。 歴史的に不必要な情報として歴史に残さないことは はたしてどうなのか。 客観的ではあるけれでも、 学問としての意義を損なう行為とむしろ言えるでしょう。 我々はただの歴史を学んでいるわけではなく ”人間”の歴史を学んでいるわけです。 歴史の中に人間が存在しなくては無意味です。 よって主観は時に重要な意味を持つのです。 また物語のような形式をもって書かれているのは 人間の記憶のパターンの関係があります。 通常の人間の記憶というのは、 出来事を物語として把握しないと記憶できないのです。 自閉症など特殊なタイプの頭脳なら 脈絡のない数字や図形の羅列を完璧記憶することも可能ですが 通常の人間にはできません。 編年体や紀伝体、物語式など歴史家が書き方を工夫するのは そもそもそれが後世の読者に受け入れられ 理解してもらうための方策です。 噛み砕いて整理、方向性をもって編集してあるのも、 必ずしも自分の考えを押し付けるためではなくて 後進のためのガイドラインが必要だからです。 逆に、客観だけを重視すれば情報は氾濫し無秩序のままで あなたのような人は今度は理解不能という問題を抱えるでしょう。 何事もそうですが、客観的であろうとするならば 異なる意見や異なる立場の主張それぞれに耳を傾け 相互に検証していくしかありません。 ただ何が客観かはあなたの理性に任されるわけで それは主観です。 歴史家の主観とは主にそういう主観なのです。 だからあなたの求めるものは歴史家が一回通った道を もう一度進もうということです。 高名な歴史家たちと同様の知識を手に入れないと 彼らの高みにはたどり着けませんから それは相当な険しい道です。 「史学概論」なんかで収まる話じゃないでしょうね。 たぶん残りの一生かかけても終わらないでしょう。

gatetsu38
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 私も主観=悪、客観=善と思ってはおりません。 教義としての歴史、という側面であれば、 少なからず何者かの主観(~を伝えたい)が入ることも 当然許されると思います。 それがあまりに事実と異なると問題ですが・・・ >>何事もそうですが、客観的であろうとするならば 異なる意見や異なる立場の主張それぞれに耳を傾け 相互に検証していくしかありません そうですね。 たくさんの残された資料に触れ、 「事実らしきもの」を各々が抽出していくことで、 客観性は高まるのでしょうね。

その他の回答 (10)

noname#113190
noname#113190
回答No.11

多分無いと思います。 当事者は自分に有利なように書きますから、自分が活躍したことは大きく、戦争に負けて逃げるときなどはいかにも奮戦したが、多勢に無勢で致し方なかったような書き方をします。 それでは利害関係のない第三者はどうかというと、本質がつかめないので、間違った伝聞推測で書くことが多いからあてにならないということです。 川中島の合戦や姉川の戦い、山崎の合戦など有名な戦も、大将や幹部は自分に有利なようなことを話したり書いたりしますし、参加したその他大勢は自分が眼にした範囲しか分からず、大きな範囲は噂話を誇張して書き、周辺の一般庶民や見物の公家はどちらが勝ったかという結果程度しか判らないものです。 仕方ないですから、複数の資料から合致した点を見つけるしかないような気がします。 それも元ネタが同じではいけませんし。 昔「太平記」を読んで、楠木正成が弟と「七世報国」を誓い合って刺し違えたという場面がありますが、太平記では主従全滅してますから 「オイオイ、誰が彼らの最後を見てきたんだよ?」と突っ込みを入れたくなりました。

gatetsu38
質問者

お礼

ありがとうございます。 そうですね。 出来るだけ多くの資料に触れて、 共通するもの、そうでないもの、を眺め、 過去の事実を求めていくしかないのでしょうね。 太平記なんかは、ほとんど「物語」なので、 誰が見てるんですか? と思いますよね・・・

  • luune21
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回答No.10

#4です。 >観察者(後世では歴史家と呼ばれるかも知れない人間)の主観によって >どうにでも描くことが出来るでしょう。 >この点につき、 >客観性を求めるにはどうする? >と思ったのです。 ええ、多分、そういうご質問だとは思いました。それが部分であるにもかかわらず、本質であるかのような書き方だったので、イヤミな回答をしてしまいました。申しわけありません。   * 歴史学や考古学、古生物学などは、どれだけ資料を集めて分析したとしても空白や不明の箇所ができてしまうのは仕方のないことだと思います。ですので、その場合はどうしても帰納法を使わざるをえません。質問者さんのご懸念のとおり、帰納法では真の【客観性は得られません】。他の科学と同じように、確実な証拠がない場合は「仮説」にとどまってしまいます。 しかしながら、仮説を組み立てたり、その確からしさを検証するのも学問の一つでしょう。恐竜のティラノザウルスは、私が小学生時代に学んだものから、新証拠の発見などもあって、すでに3回くらい姿形(想像図)が転回しています。なにせ骨や足跡の化石しかないのですから、しょうがありません。しかし、あいかわらず仮説であり真実ではないものの「客観的なプロセス」であるとはいえます。 「アヘン戦争におけるイギリスの狙い」も実はいろんな証拠と帰納法による考察を重ねた客観的なプロセスの結果なのだと思います。概論や教科書では、その結果だけが書いてあったりしますが、実際は、書簡や日記、命令書などの多くの資料が存在しているでしょう。また、それが教科書に載っているということは、いろんな人が検証した結果、「もっともらしい仮説」だという支持を受けたものだといえるでしょう。ただの主観的な「お話し」は採用されないと思います。 他方、「ナスカ平原に宇宙人が来ていた」とか「聖徳太子は超能力者だった」というような仮説もたくさんあります。しかし、それらの仮説は教科書に載りません。なぜなら、それらの仮説をまともに支持する人がいないからです。客観的な証拠や学問の言葉で書かれた帰納法的な考察よりも「お話し」の要素が多すぎるというのがその理由でしょう。 くり返しになりますが、空白を埋める際の歴史学や考古学、古生物学などというのは、できるだけ「お話し」の部分を削って、より客観に近づける、そしてそれを検証する、という学問なのだと思います。 ま、時代をさかのぼればさかのぼるほど、帰納法の危うさと客観性に対する曖昧さが増えていくのことは、間違いないところなのでしょうけど。

gatetsu38
質問者

お礼

再度のご回答、ありがとうございます。 以前、別の方の回答にお礼しました際、 書かせて頂きましたが、 客観性は普遍性なのかも知れません。 「歴史」とは多くの人が「そうであった」と認めたことの 集まりなのでしょうね。 それが客観性だと・・・ もちろん、悪いことだとは思いません。

回答No.9

#8です。 文体を、常体で書いたことについてはお詫び致します。失礼致しました。 「でも何故、それが「歴史」として人々に受け入れられたのか・・・」 答えは簡単です。発見当時、その史料以外出てこず発見者が「~である」と結論付けてしまった、更に、新しく別な史料が出てくるまでに長い時間がかかってしまったので、広く定着してしまった、からではないでしょうか?

gatetsu38
質問者

お礼

再びありがとうございます。 そうですね、一度「歴史」として認識されてしまうと、 覆すのは大変でしょうね。 つくづく歴史学に結論はないと思います。

回答No.8

君ねぇ、ひょっとして歴史研究を「犯罪捜査」と同じ様な感覚や認識では? 確かに君が言う通り、恣意的に書かれた史料もあるかもしれないが、そうではないものもあるかもしれない。しかし、映像や写真の無い時代の歴史を研究していく上で、はっきり「~だ」と線引きしては、そこから思考が停止し新たに史料が出てきても受け入れられないなんてことが起きかねない。 従って、今後歴史研究をしていくならばまず「事実であるか否か」という発想から離れなさい。そして、「より事実であろう」という程度にとどめ、研究や調査をしていくのが望ましいように思います。 「歴史を記述しようとした~」 この表現には、私個人として非常に違和感を感じます、というより不適切です。歴史とは、「1秒前」の出来事もれっきとした歴史です。言い換えるなら「過去の結果」です。書き記したものだけが「歴史」ではないのです。君がここに投稿した事も君のりっぱな「歴史」なのですよ。 ~物語のように作られた「歴史」を~ もしかして、「古事記」や「日本書紀」の事を言っているのかな?それならば、上のような表現となっても無理からぬ事と思います。 とにかく、歴史研究は犯罪捜査とは違い、はっきり「こうだ」と断じる事が出来ません。映像や写真が残っていれば別ですが、無理に客観性を求めようとはしないで「最有力説」という理解でいた方が良いと思います。 ちなみにですが、本件を君のゼミの先生にはしてみましたか?

gatetsu38
質問者

お礼

回答有難う御座います。 私はゼミには所属しておりません。 「歴史資料」には2種類あると思うのですが・・・ 貨幣や文書の形で残された法律、遺跡など。 一方、史記に分類される文書、書物。 私が疑っているのはまさに後者の方なのです。 事実そのものが映る訳ではないので、 もしかしたら、全くもって事実とかけ離れている資料があるかも知れない、 でも何故、それが「歴史」として人々に受け入れられたのか・・・ そういうことを考えると眠れなくなります。 回答して頂きまして、大変恐縮ですが、 仮に私の方が若輩者であっても、fe-shokugyou様とは 面識のない他人ですので、 常体でお話されることに違和感がございます。 その点、ご配慮頂けたら幸いです。

  • musokunin
  • ベストアンサー率24% (62/257)
回答No.7

  物理學や化學のやうな實驗科學においても、「資料批判」が重要な作業になります。手元にある資料や數値が學問的な取り扱ひに耐へる客觀性を持つてゐるか否かです。同樣に、歴史學においても事情は同じです。但し、實驗科學の資料の多くは、專門家がその資料を扱ひ、作成に關與した場合が多いので、現代の學問的な手法を用ゐたり、精密科學としての資料製作をされたものが多くなります。一方、歴史學の場合は、古い時代の資料を扱ふことが多く、それらの資料の出來方が、現代歴史學の手法を前提とした物ではないために、實驗科學とは比較にならない、嚴密で精確な資料批判が必要になります。   一つの例として、我が國最古の歴史書である『古事記』を、古代と現代では世界觀や認識感覺が異なるので、その點を考慮すれば、一級の歴史文書であると評價する一方で、それは神についての傳承を書き留めた「お話」にすぎないので、歴史文書とはみなせないとの評價もあります。   近代の歴史事實に就いても、いはゆる「南京大虐殺」の問題では、資料批判が最大の決め手となり、歴史學上の決着がつきました。   歴史學で資料を扱ふ場合、その資料が、いつ、どこで、誰が、どんな状況で、どんな根據に基づいて、など、資料そのものの由來、現状、などを詳細に檢討することで、信頼性の限界や、資料としての性格、などを解明できますので、その資料が「どの程度の客觀性を持つか」を判斷できるでせう。   歴史的な事件となる現場で、當事者、もしくは身近な關係者が映畫、冩眞、ビデオなどで資料を作成したとしても、その資料は、制作者の眼、資料作成機械の制約、制作者の技能などに制約されたものであり、そのままでは完全な客觀資料とは言へません。かならず、歴史資料としての資料批判が必要になります。   私達は歴史事實の解明のために過去に遡り、自分の眼で確かめることが出來ませんし、與へられた資料は常に、事實の斷片しか語りませんから、その間隙を埋めて、自分なりに納得のできる歴史事實を認識するためには、自分の人生觀、世界觀、價値觀などが必要になります。出來るだけ自分の憶測を排除して、歴史資料に基づいて言明出來ることだけを使ひ、筋道立つた記述をしたのが、歴史學での説明であり、自由奔放に空想を働かせて、一定の思想や考へを興味深く物語にしたのが歴史小説だと言へます。   具體的な歴史事件についての解説を、「資料批判」といふ観點で注意深く讀むことで、歴史資料の客觀的な取り扱ひ方を知ることができます。

gatetsu38
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >>歴史資料に基づいて言明出來ることだけを使ひ、筋道立つた記述をしたのが、歴史學での説明であり、自由奔放に空想を働かせて、一定の思想や考へを興味深く物語にしたのが歴史小説だと言へます。 とても参考になります。 現代に近づけば近づくほど、 歴史学と歴史小説の境界線は濃くなりますが、 古代に遡れば遡るほど、 境界線は曖昧になり、混ざり合ってしまうようです。 常に「資料批判」をしていけば、 より真実に近づける・・・ 歴史学とはその積み重ねなのかも知れないですね。

  • nemosan
  • ベストアンサー率22% (582/2598)
回答No.6

>歴史家が書いた「歴史」を読んでその時代を感じることしか出来ません。 歴史「資料」なら歴史家の書でなくても良いわけで… 一般の武士が書き残した日記で『鸚鵡籠中記』はわりと有名。 http://www1.u-netsurf.ne.jp/~sirakawa/J033.htm ちなみにこの日記は、『元禄御畳奉行の日記』というタイトルで異色の歴史読み物として出版もされてます。 http://www.amazon.co.jp/gp/product/4121007409/

gatetsu38
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 私の説明不足ですが、「歴史家」は 職業として歴史を研究していた(いる)人に限らず、 歴史を記述しようとした人は全て、 本件において歴史家と同様だと思うのです。

回答No.5

カーの「歴史とは何か」(岩波新書)はもう読まれましたか。まさに、あなたの問題意識にぴったりの内容が書かれています。 もちろん、あなたの問いに対する「完全な正解」があると、あなた自身思ってはいますまい。 カーとて、全くの「正解」を語ってはいません。彼自身、それが不可能であることを述べています。 しかし、客観性とは何か、客観性はありえるのか、あるとすれば、どのように客観性は保証されるのか、という問題に関する思考の糸口を、カーはきっと与えてくれるでしょう。 そもそも「歴史における客観性」は、それだけで歴史研究・哲学研究の一分野をなすものです(ヘーゲルの「歴史哲学」はごぞんじですよね)。 お願いしたいのは、結論を急がないこと。じっくりこの大問題に取り組んでください。

gatetsu38
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 カーの「歴史とは何か」は、今ずっと探しておりますが、 どこの図書館にもなく(貸し出し中です) まだ読んでいません。 そろそろ購入しようかと思っています。 ヘーゲルの「歴史哲学」は存じています。 もう少し、色々な文献に触れてみようと思います。

  • luune21
  • ベストアンサー率45% (747/1633)
回答No.4

>では、客観的な歴史資料とは、 >やはり存在しないのでしょうか? ここのところがよくわからないのですが… 文学部ということは大学の学部生さんなのですよね? たとえば、いろんな書物とその年代測定から、万葉仮名、和漢混交体、片仮名、平仮名と発展してきた日本語文字の歴史は、客観的な資料に基づいていないとおっしゃっているのでしょうか? 律令などの法令や法令解説などの資料はたくさん残っていますし、日本各地の寺社には、その地域の古い家系図、戸籍、惣の規約、土木工事などの指示書、花押がたくさん押された契約書、等々がたくさんあります。 また、名家の古文書には刀狩や太閤検地を指示した文書が秀吉の朱印付きで残っていたりします。 また、物語であっても、【複数の資料!】から疑わしいもの、事実と断定できるものとある程度選別できます。 こんなものは、高校程度のサブテキストや参考書にいくらでもあると思いますが、こんなことではないのでしょうか? まさか、刀狩や秀吉、ピタゴラスの定理やピラミッド、整数の歴史といったものなどが物語りの中にしかない、と思っていらっしゃるとは思えませんし…

gatetsu38
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 文字や法律などは、まさに客観的な資料で、 捏造でない限り、それそのものに疑いの余地はありません。 しかし、例えば 「ローマ帝政下の人々の暮らし」 「アヘン戦争におけるイギリスの狙い」 などのテーマは、 観察者(後世では歴史家と呼ばれるかも知れない人間)の主観によって どうにでも描くことが出来るでしょう。 この点につき、 客観性を求めるにはどうする? と思ったのです。 私の質問が言葉足らずで申し訳ありませんでした。

noname#21327
noname#21327
回答No.3

面白い命題ですね。これは、まず議論の前に「客観」と「主観」を明確にしておく必要ありそうです。 (1)「客観的な自分」は存在するでしょうか? 次に、「事実」についても考慮が必要です。 (2)「主観的な事実」は存在しますか? 私は、(1)No(2)Yesと考えてます。なので、客観的歴史資料はないと思います。個人あるいは集団のコンセンサスが事実の基準であるということになります。数学的法則のような事実ではないですね。そうすると、より客観的な事象とは、より人間として共感できるもの、ということになります。

gatetsu38
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 私もden3den様と同じ意見です。 歴史は科学のように一つの答えが出せない学問だと痛感します。 「客観的」という概念は、「普遍的」という概念に 密接につながるのかも知れません。 多くの人が>>より人間として共感できるもの と感じればそれは客観性があると言えるのでしょうね。

  • a-koshino
  • ベストアンサー率23% (102/441)
回答No.1

客観とは、観察する側にのみ生じうる視点であり、記述する側に求めるのは無理です。 書き手の主観を客観する以外に、ないでしょうね。 それには、人間に関する理解を深める努力が必要で、なかなかしんどいですが。もちろん、おのれ自身の主観についても、観察が必要でしょう。 鵜呑みには、できないということです。 できるだけ事実を客観的に記述しようとした稀有な人物、太田牛一でさえ、なるべく負け戦は書かないなど、注意すべき点があります。 もしも200年ほど未来へ行けたなら、9・11やイラク戦争について、驚愕の真相を知ることができるのではないか、と思うことがあります。今でさえ、客観的な真実は記述されていないのではないか、と。

gatetsu38
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 「事実を客観的に記述しようと」する主観が入る訳で、 なかなか難しいですね。 歴史家でなくとも、我々一人一人が 残された記述をもとに過去を想わなければ 「客観的な歴史」は見えて来ないかも知れませんね。