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郡評論争後の歴史学について 教えてください

 さる質問への回答の中に、次のようなお言葉があり、私の体内に何か反応するものがありました。  「日本人のレベルは、邪馬台国の時代から何も変わっていない。日本にはいまだに学問が存在しない。」  もう遥か昔になりますが、学生のころは未解決だ、とされていた「郡評論争」がありました。  卒業後、藤原京出土木簡に「評」を含むものがあり、西暦698年に相当するものだとの判断で一致したのだったと思います。  その次の議論について寡聞にして知らないのですが、お判りの方教えてください。  「郡」としたのは、701年からである。それ以前は「評」である。  これはいいのですが、700年以前の「評」を制定したのはどういう政権でしょうか。広い範囲に「評」が行われていた形跡があります。「郡」というシステムを実施したのが「統一政権」であるなら、こちらも統一政権ではないでしょうか。  「郡評論争」は、日本書紀が「大化」元号制定という虚偽に結びつけたことからの混乱を訂正しましたが、日本書紀が消し去ろうとした「統一政権」の存在の影が「評」であるように思います。この統一政権の追求は行われているのでしょうか。  また、「日本書紀」から離れることが戦後史学の言わずもがなの前提だったのは過去のことでしょうか。これも不思議な点の一つです。今日、考古学的発見のたびに「日本書紀」の記述との対応をあまりに急ぎすぎている気がしてならないのです。  「古い統一政権」の探求についてのその後は、ほぼ「異端」として排除されたかに見える古田史学以外の「学問」の側においでの方たちの中での合意――または統一見解、統一がなっていなくても学問的見解、はどのようになっているのでしょうか。  よろしくご教示をお願いいたします。

みんなの回答

  • fumkum
  • ベストアンサー率66% (504/763)
回答No.1

評に関してはWikiがよく書けていると思います。その他は時間があったら回答してみたいと思います。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A9%95

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