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仏教の無我説、非我説について

 私は長年仏教を勉強していますが、どうしても無我説というものが理解出来ません。  「無我説」というのは「『私』などというものは幻想であり、存在しない」という意味だと思いますが、そうすると子供のころから今まで一貫して続いている「意識の主体」というのは存在しないのでしょうか?子供の頃の自分は今の自分とは全く別の存在であるということでしょうか?(それならば、例えば、高校生の頃にやった犯罪に対して、今の自分は全く責任がない?)  最近読んだ本の中で、「無我説」ではなく「非我説」というものがあることを聞きました。これは「無我(我はない)」ではなく、「非我(我は・・・にあらず)」だそうです。つまり、我(私の主体)というのは定義できないものであり、「私の主体は私の肉体ではない。」、「私の主体は私の脳でもない」と「私の主体はタケル(私の名前)でもない(ただ単にそう呼ばれているに過ぎない)」というように、「・・・ではない」という言葉でしか表せないものだとか。  要するに我という主体はあるけどそれは定義できないというのが非我説のようです。  このような理解でよろしいのでしょうか?

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  • yoyos
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回答No.1

個人的には、我という主体はあるけどそれは定義できないという意味だと思います。仏教については専門外ですが・・・ 『私』などというものは幻想(マーヤ)であり、本当は実在していないというのは、仏教以前のヴェダーンタの教えにも見られます。 聞いた話では、非我説というのは、仏教より以前からあり、古代ヴェーダの時代からネーティ(否定)という言葉で、自己の本質を弟子に伝えてきたということのようです。 つまり自己は○○であるといい現すことは不可能である。否定を通してしか、自己の本質を言い表すことが出来ないという事です。(このあたりウパニシャッド文献などに書かれており、日本語訳も数冊出ています。) ブッダはよく、知識について当時主流派だったバラモン(知識階級)との議論をしていたと聞いています。バラモンはアートマンが永遠不変の真我であると説いていたのですが、仏陀はアートマン(我)というものは無いと言ったのだと思います。 形骸化した権威としてのバラモンを否定して、仮説を立てずに、人々が分かるように真理を伝える教えとして生まれたものなのではないでしょうか。 それは子供の頃の自分は今の自分とは全く別の存在であるという意味ではありませんよね。そういう卑近な相対的な世界の話をしているのではなく、根本的な原理について話しているのかなと思います。 自己に関する無知があり、無知であるが故に輪廻している。(昔の犯罪は今の自分に責任がないという訳ではない。それはカルマとして自分に返ってくるという思想もありますし・・) それが苦しみの原因である。 少なくとも私たちが「私だ」と思っているものは、実は見当違いである、というのが教えの説くところでしょう。無知無明ってことなのかもれしれません。 仏教が始まる頃の時代背景というか教えや宗教について理解がないと、意外と誤解したり理解できない事が出てきてしまうこともあるかもしれませんよね。

takeru123
質問者

お礼

yoyosさん、  大変分かりやすいご説明ありがとうございました。  「無我説」や「非我説」が仏陀以前からあったというのは驚きました。「仏教が始まる頃の時代背景というか教えや宗教について理解がないと、意外と誤解したり理解できない事が出てきてしまうこともあるかもしれませんよね。」というのは本当にその通りですよね。  バラモンのいうアートマンはキリスト教の自我に似ていますね。キリスト教ではあくまで私は私であって、死んで、復活した後もずっと同じ「私」が存続し続けます。しかし、多重人格に見られる通り、一人の人間の中にいくつもの自我が出来るところを見ると、自我というのは私の本質ではなく、その後ろに自我を作り出している主体があるということですね(唯識論でいう阿頼耶識でしょうか?)。  ところで、古代ヴェーダやウパニシャドで無我や非我が説明されているのに、なぜバラモンはアートマン(真我)という考えに到ったのでしょうか?  追加説明をいただけたら、幸であります。

その他の回答 (17)

noname#20467
noname#20467
回答No.8

無我と非我と言った哲学的問題を、それだけで論じると私の手に余るし、また議論だけのドつぼにははまりますので、ちょっと周縁部について考えてみたいと思います。 質問は釈尊の仏教における無我(非我)が中心だと思いますので、それを中心とします。 1,禅定との関連に於いて。 四禅定、八背捨などはご存じでしょう。思うということもなく思わないということもない、とか一般人にはよく分からない禅定の境地の初段階ですね(笑)。こういう座禅の実行の結果として、無我を悟るわけですから、座禅の初段階の説明からある程度無我の意図することも考えることは出来ると思います。これを見てみると、「あるかないか?」という通常の言語・思考体系下にはそもそもなじまないということだと思われます。 だから、断・常の二見は、両方談じられるのではないでしょうか? 断は輪廻もないとする説、常は魂などの永遠を信じる説、これは両方否定されていますね。ここで書かれている人のいくらかは、ブッダの霊界思想として理解していますが、そういうことを説くことにブッダは厳しい制限を設けていますね。でも、ブッダも輪廻を説きます。通常の思考体系の中で、それをある・ないと論ずることが無意味な世界のことと思っていたので、言葉遊びとして、ある時には否定してるのではないでしょうか。 2,無常と苦との連関。 無我だけを取り出して論じてしまいがちですが、原始経典では、無常と苦とセットになって説かれることが多いですよね? これは弟子や信者へのメッセージですから、無我という覚りそのものを表したわけではないですが、無常なるもの、変化するものは苦しみであると繰り返されますね。もともとは、こういうわかりやすい道徳というか、実行とつながっていたという面も見落としてはいけないと思いますね。 3,>そうすると子供のころから今まで一貫して続いている「意識の主体」というのは存在しないのでしょうか? ですから、この点については、釈迦的には、1の項目とも合わせて考える必要があると思いますが、禅定もない普通の意識で生きている人にとって哲学的にしか意味がないことは退けたと思います。一般的な人にとって、「自分がない」などとまともに信じられないことであるのは、明らかです。後代、「二諦」という思想が出てきますね。真諦というのは仏の境地、世俗諦とは凡夫の見方。視点の違いに着目した話です。凡夫にとっては、無我だから意識の主体がない、などという議論は意味がないというところだと思います。あえていうと、我見にしたがって、輪廻していく存在でしかないのではないかと思います。

takeru123
質問者

お礼

chuu-bunさん、 すいません。ちょっとこちらは専門的過ぎて、良く分からないかな。出来たら、もうちょっと噛み砕いてご説明いただきたいです。

noname#20467
noname#20467
回答No.7

こんにちは。 無我説のことは、こちらのカテでたくさんあります。かなり専門的知識を持つ方も書かれているので、ごらんになってください。ウイキペディアなどにも参照すべき記述は多いです。 重複させても疲れるので、いくつか関連を散発的に書きたいと思います。 質問者様もかなりご存じのようですので、既知でしたらご容赦ください。 >それならば、例えば、高校生の頃にやった犯罪に対して、今の自分は全く責任がない?)「 これについては、仏教側からの説明では、みりんだ王経の説明が有名ですね。ただし、子供の時と大人の時の対比ではなくて、前世と今生とのつながりです。 喩えをもって説明されてますね。ロウソクの火は、燃え始めと、燃えおわりとその火は確かに違う火だが、たしかにつながっている、そのように無我ではあっても、つながっているという説明です。だから高校生の時にやったことには、責任があることになります。ご存じかもしれませんね。 それと、非我と無我とが話題になっていますが、原始仏教のとくに釈迦仏教の実態を考え出すと、確かに話は複雑になるようですね。ご存じのように、仏教の発展自体は、 >「無我説」というのは「『私』などというものは幻想であり、存在しない」という意味だと思いますが、 と発展したことは、歴史的なこととしてはそうなると思います。ですので、「仏教」とひとまとめに論ずることは本当はできない問題だと思います。お釈迦様がどう言ったかになると非我という考えを立てる人もいるわけです。無我の意味の理解については、たぶんあなたの理解でよいと思います。また、1さんの言われた釈迦以前に無我説があったというのは、少し厳密性を欠いていて、これは釈迦の位置づけとも関わる問題ですが、周知のように釈迦の思想はインド正統思想からは異端的、革新的と評価されますね。それが、インド伝統のアートマン説に対してのアナートマン説であると。ところが、これは仏教の正しい理解ではないとする評価があって、釈迦はインドアーリヤンの伝統をただしく解釈し直したという評価があり、その評価では、「ブッダの根本教説とされる「無我」の教えは、無主体とか、無霊魂とかいうことではなかった。無我の我とはウパニシャッドに説く絶対原理であるアートマン(自我・我)のことである。ブッダはアートマンの絶対性を自己自身のものとして誤認してはいけないとして、とらわれの自己を捨て、我執を捨てて本来の自己を実現すべきであると説いた。つまり真の主体性の確立ということが無我であった」(早島鏡正『ゴータマブッダ』)とされていて、これはどちらかというと非我に近い解釈のようにも思えますが、インド正統説に反対したものではないという学説です。この理解に立つと、ブッダ以前から無我説はあり、ブッダはそれを正しく敷衍したということになります。おそらくそのことを言ったのではないかと思いますが、無我説や非我説自体が、ブッダの前からそういう形ではないと思います。 引用の早島さんは、ブッダの本来の思想は、無霊魂ではないということですが、後世仏教が非我ではなく、無我で発展したことはご存じの通りですね。 また涅槃経自体にもそれそのもの、そういう箇所はないと思います。 ブッダ自身がどう考えていたかについては、結論的には、質問者様とたぶん同じかと思いますが、私もよく分かりませんので、もう少し別の方面を書いてみたいと思います。いったん切ります

takeru123
質問者

お礼

chuubu-nさま、  詳しい解説ありがとうございました。「釈迦の思想はインド正統思想からは異端的、革新的と評価されます」と「釈迦はインドアーリヤンの伝統をただしく解釈し直した」と二つの考え方あるのは知りませんでした。もっとも、今、ヒンズー教の神々の中に釈迦も加わっているそうですから、一部のヒンズー教徒は釈迦を後者のように解釈しているのかも知れませんね。  早島鏡正の本は興味深いですね。さっそく注文してみたいと思います。  それにしても、イエスと同じで、仏陀も時に矛盾していることを言っている。だから、統一の教義を作るのは難しいという感じですね。(キリスト教の場合は、それを無理やりやり、異端者は火あぶりにされました。)

  • truth77
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回答No.6

#2です。 >「我なるものはない」ということが理解できれば、煩悩から解放されるでしょうね。 お互いに、短い言葉でのやりとりですから、私の誤解等もあるかも知れませんが、私は「煩悩から解放される」ということはないものと思っております。 煩悩というものは、髪の毛が生えて来るがごとく、毎日毎日出て来るものです。 大事なことは、伸びっぱなしのボサボサ頭にならない様にすることなんです。 人に不快感を与えない様に、髪の毛を整えたり、伸び過ぎたら切ったりしますけど、それと同じ様に、煩悩に対しても気を配り、整え、時にはバッサリと切ることを心がけなさい、ということです。 お釈迦様は、私たちの「この世での生存」を否定したのではありません。 煩悩は、「この世での生存」には不可欠なものです。 もし煩悩を全否定するならば、私たちは生存出来なくなってしまいます。 (たとえば「お腹がすいた」という肉体煩悩を否定したら、餓死してしまいます。) お釈迦様は、「不可欠なものだから」と言っても、それを「野放し状態」にしていてはいけませんよ、と言っているのです。 煩悩と上手に付き合えないならば、それは「煩悩に翻弄されている」という状態ですよ、と言っているのです。 >釈迦の入滅の際の月の教えは、どのお経に出ている言葉でしょうか? これは「涅槃経」にあります。 >truth77さんは専門家とのことですが、ご僧侶さまですか? 私はプロの僧侶ではありません。 縁あって、仏教とキリスト教を一通り学ばせて頂きました。 >この件については難しいので、No.1とNo.2の回答者の方々の意見も聞いてみたいですね。 yoyosさんles-minさん共々、良くわかっていらっしゃると思います。 理解してもらえそうな説明を考えるのに苦慮されいるなぁ、という感じがします。 私も説明が上手ではないですね。。。 仏教での「無」というのは、「何もない」、「存在しない」という意味ではない様なのです。 「『無』とは言いつつも、実際には有るのですよ。でも・・・」の、「・・・」の部分が「無」の本当の意味らしいのです。 私は最初の回答に、 >>「『我(われ)なるものはない』と思いなさい」という教え と書きましたが、現実問題として「我(われ)」はありますよね? でも、その「我はある」という認識は、 >>私たちが日常的に認知出来るこの世での事象のみですから、こうした限られた認知力の世界で得られた知識・経験で持って・・・ ということがベースとなっている訳です。 つまりは、認知力を上げない限り、お釈迦様の言うところの「無我」は見えて来ないのでしょうね。

takeru123
質問者

お礼

truth77さん、 お返事ありがとうございました。  涅槃経というのは小乗と大乗とあるそうですが、上記の月の例えは大乗の方でしょうか?(小乗は「法を依りどころとし、自らを依りどころとせよ」という言葉が有名で、私はこれが釈迦の入滅時の言葉だと思っておりました。)  全体的におっしゃることは良く分かるし、また納得できるのですが、ただしこれはtruth77さんの解釈ということでよろしいでしょうか?

  • les-min
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回答No.5

#4です。  コメント拝見いたしました。拙文を読んでいただいて有り難うございました。  体と自己との関係に関してですが・・・  あまりはっきり区別して考えていない、というところでしょうか。    また個人的な雑感のようなものになるので、申し訳ないですが・・・  仏教にしろ他のインド哲学にしろ、とにかく分析的で精緻で、圧倒されます。  他方、とくに輪廻の主体に関して、自分には常に一つの疑問がついて回っています。  「自己(輪廻の主体)」は確固とした実体でなければならなのか?ということです。  確かに、不変の輪廻の主体を想定すれば、因果応報を説明しやすいし、来世への相続も説明でき、倫理的・道徳的な観点から教えを説くには非常に都合がよくなります。  しかしながら、個人的には、縁によって形作られた仮の体や主体を、とりあえずの自己としたとして、そんなに都合が悪いとは思っていないのですが。(単に自分がいいかげんなだけかも。)  この場合、輪廻の主体はない(無我)ということになりますし、来世に相続されるものがないことになりますが、どちらかと言えば、プドガラや種子といった(実体のあるなし、性質のあるなしに関わらず)「主体」を想定するより自然ではないか?と考えています。  ですから、分析・分別したその先に、自己に相当するものがあるとは考えていません。  体も性格も心も「仮の主体」に含まれるもの、というイメージでしょうか。  また、仮ではあっても、実体のないものであっても、一つの自己の一生に関わる膨大な縁の連鎖やその広がりは、たとえ実体の相続が無くても「輪廻」と言ってもよいのでは?と考えています。  そして、それが閉じた内的世界で完結している(完結可能)と考える(外界を想定しない)のが仏教の際立った特色かな、と感じています。  まとまりのない文章で申し訳ないですが、とりあえず感じたことは、こういうことです。では。  

takeru123
質問者

お礼

les-minさん、 たびたびのご説明ありがとうございます。 まあ、仏教の中には輪廻すら否定する人もいますね。こういう人は本当の無我論者ですね。 しかし、たとえば少なくとも大人の我々は子供の頃の我々と共有する意識を持っている。両者は連続しており、ここで無我を貫くのは難しいのではないかということで、とりあえず大人と子供との間に共通している主体はあるけど、それは定義出来ない(非我)と考えるのが、私としては合点が行きます。 この件については難しいので、No.1とNo.2の回答者の方々の意見も聞いてみたいですね。

  • les-min
  • ベストアンサー率41% (269/644)
回答No.4

こんにちは。。  すでに詳細なご回答が上がっているので、おっかなびっくりですが・・・お呼びでないかもしれない。 (世の中には物事にお詳しい方がおられるものだと、敬意を表しつつ)お邪魔します。  専門的に学んだわけでないので、現在の仏教界で主流なのかどうかわかりませんが、釈尊の教えは無我というより「非我」というべきものという見解は、以前から見かけました。  非我説は、我というものを「存在を想定しているが諒解は不能」なものとする考え方だと思うので、ご質問文にあるようなご理解でよいのではないかと思います。  釈尊の教説が非我か無我かという点ですが、「非我説の形をとった無我説」かなぁーと思っています。  後の仏教者たち(主に大乗仏教徒)が「非我」を「無我」に意図的に読み替えて教義を構築したという見方もできなくはないですし、もしそうだとするなら、その読み替えを是とするか非とするかでも見解は分かれるでしょう。    ただ、個人的には素直に、釈尊は「無我」を悟り、人々にわかりやすいように「非我」として説いたと考えて差し支えないのではないかと思います。  誰しも、いきなり「無我」だと言われて理解などできないですし、釈尊はそういう説法の仕方はしなかったわけですから。  ここから本題らしき?事柄ですが・・・既に考察されている事柄でしたら、無視してください。  釈尊が「自己を拠りどころとせよ」と語ったように、また、筋金入りの空思想の論客ナーガールジュナが一方で菩薩の修行についての著作を残しているように、そして弘法大師空海が即身成仏を説いたように、仏教は無我説を説きながら「身体」そのものを否定しているわけではない、という点は、重要なのではないかと思っています。  拠りどころとなる自己、発心する自己、修行する自己、悟りを得る主体としての自己。  真理として到達する無我。世界を見る一視点としての無我(=縁起=無自性=空)。識の内証としての無我。  この場合の自己と無我は矛盾する関係でしょうか。少なくとも自分はそうではないだろうと思っています。  仏教は無我を真理とし、その真理体得を目指しますが、その主体(真理を求める者)は当然、「身体を有する自己」以外にないわけです。  仏教ではその「身体を有する自己」は、縁起によって「仮に形作られた主体」であり、永遠不変の「我」を持たない「無自性」なものであるとしている。それが無我説の構図かな、と思います。  「無自性な自己」というのは、なかなか理解しづらいところでしょうし、自分も理解しているとは言い難いですが、自分・自己・自己の身体というものは、そういうものなのだろうな、とは思っています。  仏教では、不変の自我は想定しないものの、自己や身体は、悟りを得る主体として、たとえそれが仮のものであっても重要視していると思います。  その主体が誤った考えの積み重なりによって悪事を成せば、それはその主体の行いであり罪となるでしょうし、継続して修行を成せば(その長短はともかく)悟りへの階梯を登っていくことでしょう。    無我は、修行の結果得られるものの見方であって、世俗の物事にいきなり当てはめられるものではないのだろうな、と思いました。  なんとも言葉足らずで申し訳ないのですが、自分の思ったところはこういうところです。  個人的見解ですが、唯識の説く阿頼耶識も恒常不変でなく最終的には転変しますから、結局は無我説のバリエーションなのかなと思っています。    仏教(とくに大乗仏教)は、方便を重視していますし、世俗諦・勝義諦というようなある種の二重基準(?)を使い分けます。そういうこともあってか、輪廻や無我、縁起などの説き方がさまざまで、簡潔な文章にまとめづらいですね。まだまだ足りないような気もしますが。(自分の行と文才が足りないのだろう) では。

takeru123
質問者

お礼

les-minさん、  お返事ありがとうございました。  ちょっと質問なのですが、les-minさんは体と自己(主体)の関係はどう思われますか?最近の心理学では体だけではなく性格も遺伝的要素が強いと言われています(遺伝情報を共有する一卵性双生児は体だけでなく性格もそっくりです)。だから、自分から体と性格を取り除いたものが、本来の自己(主体)と考えた方が良いかも知れません。そうすると、もうほとんど何も残らない。だからこれを無我と呼ぶのでしょうか?  ここでいう本来の自己(主体)というのは輪廻する主体と考えていただいても良いです。仏教ではプドガラと呼ぶそうですが、たとえば私のプドガラがある日突然他の人の肉体に入ったら、もう私はその人になってしまいますね。肉体はその人の肉体だし、性格もその人の性格になってしまうのだから。  よく仏教は「心身不二」と呼びますが、これが良く分からない。もし心というのがプドガラを指しているのならば、それは別のものだと思います。しかし、性格を指しているのであれば、性格も体も遺伝によるものであり、同類ですけど。

  • yoyos
  • ベストアンサー率20% (76/372)
回答No.3

>バラモンはアートマン(真我)という考えに到ったのでしょうか? 私の至らない理解では、アートマンという考えに至ったというよりは、自己の本質をそのように単に「名づけた」ということなのではないかと 思います。日本語ではそれを訳者によっては、自己とか自我とか真我とか色々に訳しているようで、アートマンの定義も文献によって微妙に違うみたいです。 私はアートマンとブラフマンが何を指しているのか理解していませんが、不可侵の絶対的な超越者としてのブラフマンや自己の本質アートマンというものがそもそも疑いなく存在している、という考えに立っているのがヴェーダです。そしてそれは実際に瞑想するなどして体験しないと本当には理解できないとインドの哲学者マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーは言っています。 ウパニシャッドに「恐れを知らず、老いを知らず、死から離れ、憂いなく、渇きを知らず、真実の願望と真実の思慮を持つ自我アートマン。これこそ探究すべき物であり、識得に励むべきである。この自己を見いだし識得する者は、あらゆる世界を得、あらゆる願望を成就する」と書かれています。それでインドではこぞって学んでいるのでしょう。 http://homepage2.nifty.com/seigakuan/letter01.htm しかしヴェーダの終わりと言われているヴェダーンタでは、すべては無限なる物ブラフマン(宇宙的な自己?)であってこの世(だと私たちが認識しているもの)は幻想に過ぎない。私たちが真我だと思っているのは個別性(個我)であって、あくまでもこの変化する世界の戯れに過ぎないと言っているようです。アートマンと思っていたものは、実はブラフマンである・・・しかしそれを学ぶには、それなりの見識と体験がある人でないと入門を許されないということらしいです。(未熟者には教えても無駄ということでしょうか!?) #2さんの言われる通り、ブッダは、私たちが日常的に認知出来るのは「この世」での事象のみですから、こうした限られた認知力の世界で得られた知識・経験で持って納得出来る回答を模索するしかないということで教えを説いているので、正に無知な私たちに相応しい教えだと思います。 インドでは仏教が生まれましたが、絶対者の存在を昔から信じているインド国内よりもむしろ東南アジアを始め諸外国で多く根付いたというのは当然と言えば当然なのかもしれません。 ヴェーダは絶対的な存在があるという見地から自己を説明しているという違いがありますが、絶対に関する認識の無い人間にとっては、ただの理論に過ぎないですが、しかし思うに、恐らく究極的に至る所は同じ理解になるのではないか・・と思えます。 先ほどのURLに 「ブラフマンについて知的理解を深めたとしても、ブラフマンそのものを理解したことにはなりません。ブラフマンを理解するということは、ブラフマンを直接知覚することであって、ブラフマンについての叙述を知的に理解するということとは違います。ウパニシャッドなどを研究し、ブラフマンについての知的理解を深めたとしても、ブラフマンを理解したことにはなりません。 ブラフマンのように自身にとって未知であることが明らかな場合は、まだブラフマンを理解することはできないと自覚できる。しかし気をつけなくてはならないのは、語られている内容が自身にとって未知であることがパッとは分からないような場合です。幸か不幸か、教えは私たちのなじみのある言葉で語られます。私たちが教えの言葉を少なくとも知的に理解することができるのは、言葉の意味を一応は理解することができるからです。しかし、私たちは、辞書にある意味を知っているというだけで、言葉が言及している物事自体を理解できたと錯覚しがちです。私たちは、自分の経験に照らし合わせたり、記憶として蓄えられた概念を駆使したりして教えの言葉を解釈するので、自身にとって未知の物事が語られているにもかかわらず、それを似て非なる既知の物事と取り違えてしまいます。」とありました。なかなか学ぶというのは難しいものですね。仏教はなじみがあるだけに、誤解しやすいのかもれませんから、takeru123さんのように探究し続けるという姿勢はとても大切なのではないかと思います。 >多重人格に見られる通り、一人の人間の中にいくつもの自我が出来るところを見ると、自我というのは私の本質ではなく、 ・・・私が思うに、それはある種の自己に関する単なる「記憶」なのかなと思います。つまり本質的なものではない。そもそも私たちが自己だと思っているものは何か?ってことですよね。私たちは自己を見誤っている(勘違いをしていて)、肉体など「外側の何か」を自己と思ったり、単なる記憶に過ぎないのかもしれません。その認識の誤りを正すのが教えなのでしょうね。 >その後ろに自我を作り出している主体があるということですね 多分そのことを指して、アートマンと呼んでいるのではと思います。 阿頼耶識のことはすみませんが分かりません。サンスクリット語から来ているみたいですね。仏教の用語は、インドの言葉を漢語に音訳したものが多いので、元を辿ると、ヴェーダの言葉によく行き当たるみたいです。

takeru123
質問者

お礼

yoyosさん、  またまた詳しい解説ありがとうございました。  どうも釈迦が言いたかったのは、アートマンという究極の自我が存在しないというだけではなく、ブラフマンという究極的な宇宙的自我も存在しないということのような気がしますね。ヒンズー教だけではなく、キリストやイスラム教の神秘主義では神との合一を主張しています。これは神(ブラフマン?)が存在することを前提に自我(アートマン?)を合一させるということですね。  「それはある種の自己に関する単なる「記憶」なのかなと思います。つまり本質的なものではない。そもそも私たちが自己だと思っているものは何か?ってことですよね。私たちは自己を見誤っている(勘違いをしていて)、肉体など「外側の何か」を自己と思ったり、単なる記憶に過ぎないのかもしれません。その認識の誤りを正すのが教えなのでしょうね。」  その通りだと思います。我々が「自分」と思っているものは、実は自分ではないんですね。肉体も性格も刻々と変っていきます。また、死んで輪廻をしてしまえばそれらはなくなってしまいますし、記憶すらなくなります。しかし、その感覚、肉体、記憶等の後ろにそれを見守る定義出来ない何かがある。それが阿頼耶識(一切生種職)であるのでしょうね。  それでは、本当にどうもありがとうございました。

  • truth77
  • ベストアンサー率37% (85/225)
回答No.2

無我とは、簡単に言うと、「『我(われ)なるものはない』と思いなさい」という教えです。 仏教は哲学とは異なり、あの世とこの世を貫く教理を有しています。 私たちが日常的に認知出来るのは「この世」での事象のみですから、こうした限られた認知力の世界で得られた知識・経験で持って納得出来る回答を模索するしかありません。 仏陀は悟りを開いていますが、「悟る」ということは、この世に居ながらにして認知力が「あの世」にまで及ぶことにより、あの世とこの世を鳥瞰した世界観でもって判断し、語れるということですから、こうした観点では「我は存在していない」と見えたのだと思います。 ですが、釈迦が入滅する際に、「私はあの月の様な存在である。月というものは、雲に隠れれば、しばらく見えなくなるけれども、見えなくなったからといって、なくなりはしない。本当は、雲の裏では煌々と光っているのだ。風が吹いて雲が晴れてきたならば、また、そのまん丸い姿を現すのだ。ちょうど、その満月に次第に雲がかかって隠れて行くように、今、私の生命は、一時期あなたがたから見えなくなるけれども、それは、私がまったくいなくなるとか、消えてなくなるということではないのだ。あの月と同じ様に、本当は煌々と輝いているのだ。私は、あなた方の前から一時期、姿を隠すけれども、それは一時期の方便であるのだ。私がいつまでも光を灯していると、あなたがたが自ら灯を灯すということをしなくなるので、私は一時期、あなたがた弟子たちの前から姿を隠すが、これはほんとうは、私がいなくなったことではない。存在しなくなったことではないのだ。そのことをよくよく知りなさい」ということを言っていましたので、本来は「ずっと存在し続けている存在」というのが私たちであって、この世で肉体を持っている現在は、「一時の現れ方」に過ぎない、という視点もあるのではないかと思います。

takeru123
質問者

お礼

truth77さん、  お返事ありがとうございました。  「無我とは、簡単に言うと、「『我(われ)なるものはない』と思いなさい」という教えです。」というのは簡潔で的を射たお答えですね。「我なるものはない」ということが理解できれば、煩悩から解放されるでしょうね。  ところで、釈迦の入滅の際の月の教えは、どのお経に出ている言葉でしょうか?それから、truth77さんは専門家とのことですが、ご僧侶さまですか?

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