- ベストアンサー
初期仏教での自己とは?
初期仏教の無我論、無所有という考え方では、自己すら自己のものではなく、個人の存在は五蘊の集合にすぎないということ。というふうに理解しているのですがこれは正しいですか?その通りだとして、一体自己とは何なのでしょう?自分のものではないのに「自己より愛しいものは存在しない」とか「善を行う人々にとっては、自己は愛しいものである」とかの意味が分かりません。
- みんなの回答 (4)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
参考に 哲学的考えに正反合という考え方があります、 釈尊の教えでは、 正は、我有り 反は、我無し 合は、我を一度無しとして、我の存在を考えた時 の我は何ぞやになるのですね。 それから肉体は本来の自分ではなく、霊(仏性)こそ本質と見えてくる。という教えですね。つまり、反で考えを止めたのが五蘊の仮和合ですね。釈尊ほどの方が反で終わりということは、無いですね。後世の方々の明らかな間違いということですね。表現だけでは、理解できなかったということでしょう。 自己は、仏性ですから、自己は愛すべきものです。他も同じように仏性ですから愛すべき存在なのですね。仏性を通じて自他が一体となるのですね。
その他の回答 (3)
- zenzenzen
- ベストアンサー率1% (1/67)
この時空に両親から生まれ,その地域で育ち生きる個性.それが自己だと思います. お釈迦様が”天上天下唯我独尊”と言われたそうですが その意味は 天上天下に我独りが尊い. ではなくて 天上天下においてこの私という個はただ独りだけである.だからこそ尊い存在である. という意味だと思います. 自己を大切に. そしてそれぞれがそう思いながら存在している. 無我,中庸,無所有なる立場においてそのことを理解する時 全存在の調和する在り方も観えてくる. 幸福なる社会の創造はそうやってなされていくものだと思う. 人々がそれに気付くとき すべてが幸福のうちに存在するということは決して絵に描いた餅ではなく実現可能なものであるということが解るだろう.
- Syo-ya
- ベストアンサー率31% (558/1780)
例えば「自動車という構造」が「走るという機能」を生み出すように、 私達の「肉体というも構造」も「心という機能」を生み出すんです。 ですから、前者の「自己」は「成り立ち(構造)」という意味で、 後者の「自己」は、構造が生み出す「機能(心)」という解釈も出来ると想います。 まあ、あまり深く追求しないことです。。。。^^;
- kaitaradou
- ベストアンサー率8% (102/1147)
仏教のことは何も知らない素人ですが,「自己とは何か」については少し考えています。私は,自己というのは暗闇のようなものと考えています。存在することはわかるのですが,それでは暗闇とは何だろうと灯りをつけて調べてもどこにも見つからないというようなものなのではないかということです。もちろん自信はあまりありません。しかし灯りを消しているときには確かにあります。
お礼
確かに自己はありますよね。不思議です・・・
お礼
ありがとうございます。自己を仏性と考えると、だいぶすっきりしました。