• ベストアンサー

関が原の戦い

の裏話や、有名な話でもいいので、関が原の戦いに関しての話を聞かせてください。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • phantom1
  • ベストアンサー率24% (184/748)
回答No.1

当時の話ではなく、後日談なのですが、明治の初めに日本に近代兵学を教えに来た、ドイツのメッケル少佐と言う人が関が原の布陣図を見せられて、即座に「西軍の勝ちだ」と言ったそうです。彼はその時、小早川の寝返り(これは知ってますよね?)の事は知らなかったのですが、純粋に兵力と配置のみなら、それ位西軍が有利な状況だったのです。 では何故西軍は敗れたのか、例えば、企業において命令系統が部長>重役のプロジェクトチームがスムーズに仕事を出来るか、考えればお解かりになると思いますが、西軍の大将、石田三成は会社の役職で言ったら部長位の地位であり、彼の指揮する諸大名、毛利、宇喜田、小早川、と言った主力を構成する諸大名は重役クラスです。これが政治的な思惑で結びついた集団でしたので、逆に政情によって簡単に分解してしまう性質を持っていました。土台、指揮権の確立に無理があったのです。それに気付かなかった石田三成は、負けるべくして負けた、と言えるでしょう。

その他の回答 (7)

  • marines_i
  • ベストアンサー率51% (40/77)
回答No.8

出所は忘れましたが、関ヶ原が終わった後、家康は家臣たちに「わが徳川家には、三成ほどの忠臣がいるか?」と問うたといいます。 たしかに秀吉の死後から江戸幕府ができるまでのシナリオを書いたのは、家康とその参謀の本多正信ですが、豊臣家恩顧の大名たちがあまりにもあっけなく、シナリオどおりに自分になびいたことに、家康も「明日は我が身」とゾッとしたことでしょう。 中国の三国時代の終わり、呉の国が滅亡するときに、呉のある将軍が、投降を勧める同僚に「この国難にひとりも死ぬ者がいなければ、恥ではないか」と言い残して戦場に向かったそうですが、そういう意味では、三成のおかげで豊臣家は滅亡しながらもメンツは保った、という見方もできるかもしれません。

  • hitoshi_k
  • ベストアンサー率20% (2/10)
回答No.7

みなさんが、三成の無能ぶりを書いていますので、 一応補足程度に、三成をヨイショしてみましょう。 まず、三成は「武将」ではありません。本業は、内政官です。結論から云いますと、三成が軍事指揮官として動くこと自体問題だったといえます。 (ですから名目上とはいえ、西軍の総大将は毛利です)  特に、三成は物資の管理や確保に秀でており「太閤検地」の実質的な総監督を行ったとされます。 日本人の民族性なのか、土地柄なのかは不明ですが、日本人は、物資の確保/補給を低く見ております。 (実際、日本国内なら現地補給がある程度可能であった為)  豊臣軍が、兵糧攻め等の戦火を交えない政治的な攻撃を得意とした背後には、三成の経営眼があったともいわれます。  実際、物資兵士の輸送を計画的に組織して軍を動かしたのは、武田信玄と石田三成、他少数だけといわれております。 三成自身の人格ですが、彼は直江兼続と親好が深く、いくつかの書状が残っております。  それによりますと、三成は清廉潔白で、秀吉への忠義も厚く、理想主義者であったといわれております。 (実際、大谷善継や嶋左近が東軍に対し謀略や武将の暗殺を進言した際に、脚下をしております)  また、物欲も薄く佐和山城での生活もかなり質素な物であったとされます。  そのため、武力と欲でのし上がってきた、戦国の武将達とは、折り合いが悪かったとされます。 私見ではありますが、西軍の発起は「秀頼を守る為に」やみにやられぬ悲壮感がただよっている感があります。 関ヶ原開戦当時、三成は心労の為に神経性の下痢を患っており、用便が原因で逃亡中に発見されたと云われています。(生米を食して腹をこわしたという説もありますが、大将が生米を食すという状況は、いくら戦中でもありえないと私は考えてます) (佐和山に逃げる際に、下痢を我慢できず用便をし、紙で尻を拭いた為。  当時、紙で尻をふけるのはある程度の身分の者に限られていた為、便の暖かさから近くに身分の高い者が居ると気付かれた)

回答No.6

関が原は、豊臣家の奸臣(負ければ賊軍)石田光成を、豊臣家の武闘派の武将たちを家康が助けて成敗したという、豊臣家の内紛です。 国を分けての東軍西軍なら、西軍無傷の毛利軍が大阪城に入って勇将立花宗茂を先頭に戦えば、西軍の勝利は間違いなかったのですが、逆臣の石田光成の仲間とそれ以外という当時の意識から、私は逆賊の一味じゃございませんと、西軍は先を争って武闘派に参加したり、引き揚げてたりしてしまいます。 内紛の鎮圧に中心的な存在になった家康が、その後じわじわと勢力を伸ばして、結果的に幕府開くまでにいったので、その始まりはどこかと遡ると、関が原の戦いがその始まりだったということです。 家康が巧みというより、秀吉の後をついだ淀君がひどすぎたというほうがあたっているでしょう。淀君は、がちがちの護憲派以外はついていけない旧社会党のおタカさんのような存在だったと思われます。 関が原は、自民党改革派の小泉に同じ自民党反改革派の亀井さんが、小沢さんの協力を得て勝った様な戦いです。

  • gonzokun
  • ベストアンサー率34% (14/41)
回答No.5

こん○○わ。 ただの歴史好きです。関が原での合戦とは時を同じくしてなのですが 西軍と東軍が東北でもぶつかっていたのでこんなエピソードを・・・。 関が原のきっかけになったことに上杉征伐という事件がありました。 発端は上杉氏に難癖をつけた徳川氏から始まりました。この難癖に対し上杉重臣・直江兼続が「来るもんなら来いよ!」と喧嘩ごしな書状を送りつけた「直江状」という話があります。 単なる難癖であり謝れば済むことなのに、上杉謙信以来武士としての誇りを明確に持ち続けた上杉氏の潔さに周りの大名たちは驚いたというそうです。 ・・・と、そんな上杉氏ですが関が原で戦闘が終結したというニュースを聞くのは戦闘終了9月15日より二週間後の9月29日だったそうです。 それまでは勝つと予測していたため東軍側の最上氏とドンパチし続けていたため退却戦は熾烈を極めたそうです。 あと関が原でのエピソードというと・・・ ・徳川四天王といわれた井伊直政(井伊直弼のご先祖様)が取り決めで決めていた先陣順に不満を持ち、濃霧の中、先に攻撃を仕掛けたことから開戦したと言われます。 そんな中、戦闘中直政は銃弾に被弾し、これが元で数年後亡くなったと聞きます。 ・西軍内部でも亀裂があったようで島津氏は西軍首脳に憤りを感じ、開戦しても陣を一歩も出なかったというそうです。しかも陣に入ってきた者は敵味方関係なく切り捨てたそうです。 西軍壊滅の兆しが出てきた中、孤軍奮闘した島津氏手勢1500人は敵中突破を敢行。 残存部隊は本国薩摩まで退却成功を果たしたそうです。 ・また小早川軍の裏切りを見抜いていたといわれる西軍の大谷吉継は結局防ぎきることができず壊滅。しかし吉継の首は見つからなかっとか。 裏切りついでの話しですが、小早川の他にも寝返った大名がいます。朽木、脇坂、赤座、小川氏という約4万石クラスの大名たちです。 しかし前者朽木、脇坂氏は本領安堵でしたが、赤座、小川氏は本領没収と差が出た結末となったようです。何があったのでしょうか・・・? スイマセン。長くなってしまいましたが私の知っているエピソードはこんな感じです。 参考になれば幸いです。では失礼いたします。

回答No.4

東軍主力は合戦に遅刻をした 東軍で活躍した部隊は豊臣恩顧であった 石田三成は秀才だが人徳が無かった 毛利元就3本の矢は、まとまって裏切ったので、3本とも家康に騙された

回答No.3
  • mii-japan
  • ベストアンサー率30% (874/2820)
回答No.2

#1に関して 秀吉が晩年、石田三成に「百万石やろう」と言った話があるそうです 秀吉は #1のことを十分承知していたからですが、三成は固辞したそうです 三成が百万石の大名になっていれば話は変わってきたかもしれません(三成の器ではたとえ百万石でも・・・)