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関が原

関が原では、秀忠率いる徳川本隊の遅延が有名です。では家康はなぜ岐阜あたりで秀忠を待たず、関が原の真っ只中によそ者を引き連れ飛び込んだのでしょうか?別に1週間くらい待てばよかったと思うのですが?

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  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.7

なぜ秀忠を待たなかったのか? 戦機が熟したから。 としか言いようがないです。 一週間も秀忠を待っていたら、 あ)毛利輝元が大坂城から美濃表に出張るかの可能性がある。 この場合、吉川広家も西軍に立つ可能性でる。圧倒的な兵力差が生じ、小早川の返り忠も無くなる可能性が出てくる。 い)秀頼が美濃表に出張る この場合、豊臣恩顧は、西軍に立つか、中立に回る可能性が高い。 う)分散している西軍が美濃表に集結 田辺城(9月18日落城)大津城(9月14日落城)など、9月15日の関ヶ原の戦いの段階で落城のカウントダウンであった。これらの兵力はおのおの1万5千であり、東軍側に対して、一度は実戦を行った点で、東軍への寝返りの可能性の低い部隊である。それがそのまま3万で美濃表に進出した場合秀忠軍3万8千に量的に相当してしまう。 等々、戦力的に待つより、今と家康が歴戦の武将として感じたのではないかと考えます。

yakyutuku
質問者

お礼

総大将輝元に当主秀頼の出馬ですか。確かにそれが成功しては家康の戦況不利になりますね。秀頼出馬は考えづらいですがそれも後知恵、輝元などいつ安国寺にそそのかされるかわかりませんもんね。予備戦力があるのは徳川だけでは有りませんでしたね。そうなると家康としても死地に飛び込む覚悟で短期決戦を挑むしかなかったのかもしれません。ご解答ありがとうございました。

その他の回答 (9)

noname#25898
noname#25898
回答No.10

#8です。 #9様のご指摘にもありますが、自分が寝返らせた、加藤、福島、黒田勢などののさらなる、裏切りを畏れたのだと、思います。 「やっぱり、徳川殿につくのは、やーめた」です。 大雨による、遅延は、存じませんでした。 #9様のご指摘は、とても優れていると思います。

yakyutuku
質問者

お礼

ご解答ありがとうございました。

  • yp-mittu
  • ベストアンサー率35% (133/377)
回答No.9

家康は秀忠を待ちに待ちました。 しかしこれ以上待つと加藤・福島などの軍勢の動きも信じられませんし。 数的形勢だけを判断して他の大名が寝返ることも想定できます。 一番恐れたのは、秀頼の出陣です。 豊臣の旗が三成の陣に立てば、豊臣恩顧の大名がジタバタするのは目に見えてます。 そして家康は、徳川主力を秀忠に与えています。 これは上杉攻めと称して徳川主力を越後へ向けたことを公然とさせ、 三成の謀反を煽ったからです。 そこから中山道で来れば、悠々秀忠軍は間にあうはずと言う計算です。 しかし、大雨や秀忠の若さが真田に手出しをし、遅参になりました。 徳川の一大決戦を主力なしで戦う家康はこれ以上の屈辱はありません。 従って以降も豊臣恩顧の大名には格別の待遇を与えています。 その背景からも 待ちたいけど、待てない状況だった、 と言うのが妥当でしょう。 一番は秀頼の出陣です。 士気の問題。兵糧の問題と長引かせられない状況であったことも確かです。

yakyutuku
質問者

お礼

やはり秀頼出陣が大きなプレッシャーとなっていたんでしょうね。ご回答ありがとうございました。

noname#25898
noname#25898
回答No.8

開戦前の唯一の誤算だと思います。 秀忠が、真田軍にとっつかまっているなんて。 開戦後の唯一の誤算は、小早川秀秋の寝返りに時間がかかったことくらいで、あとは、計算通りだと、思います。 自分が家康の立場と、置き換えてシュミレーションすると、秀忠軍が、いなくても、いけると判断したからだと、思います。 あとは、最善の計算をしたつもりでも、「裏切り」を味方のベースにしている以上、薄氷を踏む思いの不安があったのだと、思います。 裏切り者は、自分をもあっさりと、裏切るのではないか・・。と、いう不安です。 そして、裏切り者の心理は、自分自身、手にとるように、わかっているはずです。 自分が家康の心理になってみてください。 「もう、待てない」でしょう。

yakyutuku
質問者

補足

もっともなご意見です。で肝心の家康の心理ですが、なぜ「もう待てない」と思ったのでしょうか?やはり輝元、秀頼が気になったのでしょうか?

  • komes
  • ベストアンサー率29% (147/494)
回答No.6

家康にとってもやや意外な展開ではなかったかと思います。 野戦といっても短時間で勝敗が決する例はあまりありません。 大軍を要しての野戦は大抵、にらみ合いで時間がかかるのが通例です。 ましてお互いに要地の城を背後に備えての野戦です。 小競り合いの戦闘はあってもまだ秀忠軍の到着は間に会うと見ていた可能性は否定出来ないと思います。 実際の戦闘では東軍の戦意と戦闘力は優勢でしたし、なにより予想外の松平忠吉と井伊直政の抜け駆けで戦端が開かれてしまい午前中は互角の戦況でした。 しかしその中で西軍の状況を観察していた家康は、このままの戦況で時間を経過して夜になるのを恐れ、また西軍の戦意の低い事、毛利一族の裏切りの可能性を確信するにおよび短期決戦を決意して石田三成本陣への集中攻撃を命じて本陣の前進をはじめたのです。 これがキッカケで歴史どうりの展開に成ったとかんがえます。

yakyutuku
質問者

お礼

確かに真っ向から両軍が西と東に分かれてにらみ合うような形なら、長期戦もありえます。ただ関が原は西軍がてぐすね引いて待つ方位陣形の真ん中に東軍が飛び込むような陣立てです。あれでは抜け駆けがあろうとなかろうと長期戦にはならないような気がするのですが。 ご解答ありがとうございました。

  • weber7009
  • ベストアンサー率29% (72/245)
回答No.5

勿論、真実は分かりません。以下状況から推論します。 家康が水口城(長束正家)に向かう途中の山中で、家康を襲う計画が失敗に終わった状況の下で、三成は家康との決戦を決意した。 下野小山で三成の挙兵を知って、家康は8月5日に江戸に戻ってくる。先遣隊の岐阜城攻略を受け、関が原に向かう。 家康の計画は大垣城攻めを避ける為に、佐和山城、大阪城の攻略する嘘の情報を西軍に流した。 三成は家康を大垣城に引きつれて挟撃する計画を立てた。 三成はまんまと家康の謀略に引っかかり、篭城していた兵を大垣城から動かしてしまった。三成の兵が動いた以上、野戦を得意とする家康が指をくわえて絶好の機会を逃すわけはありません。 秀忠の着陣を待っている余裕などありませんでした。 このように、戦況は時々刻々と変化します。家康はこの状況のもとで最善の判断を下しただけなのではないでしょうか。これが、その理由です。

yakyutuku
質問者

お礼

>家康の計画は大垣城攻めを避ける為に、佐和山城、大阪城の攻略する嘘の情報を西軍に流した。 三成は家康を大垣城に引きつれて挟撃する計画を立てた。 三成はまんまと家康の謀略に引っかかり、篭城していた兵を大垣城から動かしてしまった。三成の兵が動いた以上、野戦を得意とする家康が指をくわえて絶好の機会を逃すわけはありません。 ご解答ありがとうございます。ただすいません、この辺の話しの流れがよく見えません。特に家康の虚報により起きた野戦なら、撤退する三成軍とそれを追撃する徳川軍となり、あんな西軍がてぐすね引いて待ち構えるど真ん中へ東軍が飛び込むような野戦にはならないような気がするのですが?

  • caesar-x2
  • ベストアンサー率46% (251/542)
回答No.4

簡単に言えば、吉川と小早川の調略に自信を深めたからでしょうね。 もともと東軍の方が兵力優勢ですが、彼らとその配下の大名の部隊を 加えれば、戦場では兵力差は圧倒的となります。 実際、西軍でまじめに戦ったのは、石田、宇喜多、小西、大谷などだけで 他は傍観していただけです。 西軍を大垣城で封鎖できれば、そのまま秀忠を待ってもよかったのですが、 もともと家康の狙いは得意の野戦決戦でした。 大垣城を出た石田三成も、もし秀忠軍まで合流した二倍近い敵に遭遇した場合、 佐和山城に一部を残して、大坂城まで後退した可能性はかなりあります。 そうなると非常にやっかいです。 全国に波及した戦乱を長期化させるのは好ましくないので、 行きがかり上、関ヶ原の一戦で雌雄を決することになったのは当然のことでしょう。 また石田三成が突然、大垣城から出たのは、小早川秀秋の態度を怪しんだためというのが定説です。 家康としても、小早川の裏切りが露見する前に、 これを利用するほうが効果的なわけで、 調略の成果を戦場で試す最後の機会だったといえます。 一週間待っても、これ以上のチャンスが来たかどうかはわかりません。 待つことは可能でしたが、そうしなかったのが家康の決断で、 そしてその正しさは歴史が証明するところです。 ↓ ちなみに関ヶ原は豊臣家の内紛の形をとった”家康の天下取り”です。 江戸時代からこの評価は変わってないので、教科書を書き換える必要もありませんよ。

yakyutuku
質問者

お礼

>もともと東軍の方が兵力優勢ですが、 これは定説と逆の答えですね。 >また石田三成が突然、大垣城から出たのは、小早川秀秋の態度を怪しんだためというのが定説です。 これも本当に怪しんでいたら一番後ろにあんな大軍を置けないと思うのですが?むしろ安国寺や吉川の位置に入れると思います。 >調略の成果を戦場で試す最後の機会だったといえます。 関が原は小早川を敵に回しては勝ち目ありませんよ。大坂城に後退されるのは厄介かと思いますが、関が原はそんなに楽勝ではないと思うのですが・・・ ご解答ありがとうございました。

  • gange
  • ベストアンサー率4% (5/101)
回答No.3

余談ですけど、天下分け目の戦いと聞いていましたが、これは、豊臣家の内紛だったんですねえ!教科書書き直してるんでしょうか?。

yakyutuku
質問者

お礼

ANo.4さまのご解答をご覧ください。天下を制した豊臣家の内紛ですから当然分け目の戦いになります。

  • char2nd
  • ベストアンサー率34% (2685/7757)
回答No.2

 そもそも、なぜ自分の軍勢を二手に分け、さらに別々の経路で向かわせたか、という点に注目する必要があるかと思います。  家康は最初から秀忠を待つつもりはなかった、という見方があります。つまり、自分の所の精鋭を参戦させず、後々のことを考えて温存させた、という考え方です。  小早川などに対する離反工作を行っていたことから、すでに勝利を確信していたのでしょう。ですから、できるだけ自分の軍勢は無傷の状態で残しておきたかったのかも知れません。  信州には籠城戦に強い真田が待ち受けていることは判っていました。つまり、そこで足止めされるであろう事は、家康にとっては織り込み済みのことだったと推察することもできます。

yakyutuku
質問者

お礼

確かに真田はゲリラが大得意ですが、街道を封鎖するほどの多数の正規兵は持っていません。あれはあくまで徳川軍が留まったから止まったので、上田城を無視すればそれでおしまいです。それに秀忠があわてて関が原に駆けつけそのことを叱責されるのは有名な逸話です。わざと留まったなら叱責されるような話ではないと思うのですが。 ご解答ありがとうございました。

  • Kon1701
  • ベストアンサー率24% (1445/5856)
回答No.1

秀忠の第2軍を待たなくても勝てる、と考えたからでしょう。 家康は野戦は得意だったけれど城攻めは得意ではなかった、といわれています。ここで1週間待つと、決戦場は関ヶ原ではなくなった可能性が高いです。もしどこかの城にこもられて攻めなくてはならない、とすると、攻める側は2倍程度の兵力差では非常に難しいです。このあたりのことも考え、今戦うのが有利、と思ったのでは?

yakyutuku
質問者

お礼

 あれだけの大軍が篭れる城は大坂城くらいしかありません。大坂城に逃げるのなら逃がして畿内をじっくり平定してから一軍を中国地方に向けるような姿勢を見せれば、向こうも折れるでしょう。とりあえず奉行勢力を一掃して、権勢を見せ付けるには問題ないと思いますが。リスクを背負って関が原に突っ込む理由にはちょっと弱いような気がします。ご解答ありがとうございました。

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