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関が原の合戦の疑問
関が原の合戦で東軍に参加した武将たち、彼らは戦後勝ったとしても牙を抜かれることは予想しなかったのでしょうか?
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確か、加藤清正が熊本城を建てたのは、1607年です。 これは、豊臣家衰亡がいよいよ明らかになり、徳川家康が豊臣家を滅ぼす実力行使に出た場合は、最後の手段として熊本に秀頼を連れて行って籠城するつもりだったため、徳川幕府が開かれて(1603年)のちにも関わらず、あのような本格的な城を建てたと言われています。 加藤清正と福島正成は、徳川幕府が開かれてからも豊臣秀頼が自分の主人であるという立場を崩しませんでした。 ですから、関ヶ原の合戦の段階でも、実際の権力者は徳川家康だということを受け入れつつも、傀儡政権として豊臣家が徳川家の上に存続することは信じていたのではないでしょうか? 既出コメントにもありますが、徳川家康自身は高齢でしたので、時間の問題で家康が死ねば、徳川家も弱体化するという希望的観測もあったでしょう。 ところが、そこは老獪は家康でしたので、関ヶ原の合戦に勝利後は国替えや朝廷工作を矢継ぎ早に行い、征夷大将軍にまでなってしまいました。 この過程の中で、黒田や藤堂など、もともと家康と近かった外様大名は、織田から豊臣に政権が移ったのと同じことだ、くらいの感覚で受け止め、逆に豊臣家に忠義を感じていた加藤や福島は複雑な思いでその時期を過ごしていたのではないかと思います。
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- ben1151
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一族の滅亡そのものも、見聞きし、目のあたりにしてきた、彼らです。 滅亡か、自国の主として君臨できるかと、問われたら、後者でしょう。
- to9311mu
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関ヶ原の合戦当時、徳川家康は(当時としては)かなりの高齢でした。多くの大名は「家康が死ぬまでの我慢だ・・・」と思っていたのでしょう。
- eroero1919
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郵政解散で刺客となった小泉チルドレンもまさか使い捨てにされた上その小泉氏があっさり引退を表明して骨も拾ってくれなくなるだなんて思ってもみなかったでしょう。 家康はあの信長や武田信玄ともやりあって生き残ってきた老獪な政治家です。そういう意味では秀吉の庇護の下出世してきた武門一辺倒超体育会系の福島正則や加藤清正なんかをたぶらかすのは赤子の手をひねるより簡単だったでしょうね。
- tanuki4u
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天下は持ち回り。 信長が死んだ。で、秀吉が後継者競争で勝ち残った。 では、秀吉が死んだら? 後継者競争が始まって、誰かが勝ち残る。と、考えるのが当たり前。 それが家康。 家康が死んだら後継者競争が始まって、誰かが勝ち残る。 そういう、天下は持ち回りというのが、当時の武将の共通認識。 1605年に二代将軍に秀忠が・・・ と、言われても、1576年に信忠は織田家の家督を継いでいます。 また、1591年に秀次が関白に就任しています。 しかし、だれも最高権力者、天下人が変わったとは思わなかった。 やっぱ、1600年に家康が最高権力者になってから、15年も生き残ったというのが、徳川家最大の成功原因だろうな。
- caesar-x2
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東軍に参加した武将の面々を良く見てください。 天下を狙うような大器は一人もいません。 西軍にしてもそうですが、戦国の世はもう終わっていたということですよ。
- denden321
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三成とともに家康と戦い、討ち死にするよりは牙を抜かれても 家の存続を図るのも一つの考え方だと思います。 結果として、関が原の戦い以降 徳川家が主導権を握っていくことになりましたが、 関が原の合戦の頃、家康は60近くで 病気などで跡目相続の争いが起こらないとは限らなかったわけで (秀康が早逝した為、相続はすんなり進みましたが) 二転三転すると思っていた武将も多かったように思います。