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関が原の戦いと、戊辰戦争の共通性に付いて研究した人はいますか

関が原の戦いと、戊辰戦争の共通性に付いて研究した人はいますか どちらも、外国の影響が日本に及んだ時代の内乱ですが、皆さんどのような認識を持っていますか また戦略的に大阪はどのような意味を持つのでしょう 橋下と言う人が、現在大阪の知事をしていますが、外資に近い人なのでしょうか

みんなの回答

回答No.4

あなたは根本的な勘違いをしていませんか? 戊辰戦争中ですが、徳川家は新政府側ですよ。幕府歩兵も仏式伝習隊も新政府軍として出兵しています。大鳥圭介たちは脱走幕府軍(逃亡兵)です。 また、幕府はフランスからの外資導入を計画していました(北海道を担保)。英国寄りは薩摩です。 大阪は商業都市で、京都に物資を搬入するには大阪から淀川を使って京都に行くしか物資輸送の手段がありませんでした。京都での揚陸場所が淀(稲葉家の所領)です。

  • at9_am
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回答No.3

> 関が原の戦いと、戊辰戦争の共通性に付いて研究した人はいますか > また戦略的に大阪はどのような意味を持つのでしょう 比較を考えてみましょう。 期間 関ヶ原の戦い・・・一日 戊辰戦争・・・半年程の散発的な戦闘 意義 関ヶ原の戦い・・・枠組みとしては豊臣家の内部での徳川家康と石田三成の覇権争い。徳川家が豊臣家から実質的に覇権を奪取する。 戊辰戦争・・・薩長を中心とした勢力による旧幕軍+東北諸藩など反薩長勢力の掃討。 外国勢力 関ヶ原の戦い・・・徳川側・石田側双方に、顕著な影響は認められない。 戊辰戦争・・・薩長側をイギリス、幕府側をフランスがそれぞれ後押しする 大阪の意義 関ヶ原の戦い・・・豊臣家の本拠として、毛利輝元が総大将として籠っていた 戊辰戦争・・・鳥羽・伏見の戦いで幕府側の本拠が置かれていただけであり、概ね戦略的にも政治的にも重要な役割を果たさない となります。比較の意味では、この両者は共通項がありません。戊辰戦争が起こったときには既に大政奉還後であり、勢力争いとしての意義は、ごく初期を除きありません。 > 橋下と言う人が、現在大阪の知事をしていますが、外資に近い人なのでしょうか 橋下・大阪府知事は、外資と特に近いということはないようです。

townsx7
質問者

お礼

大阪は日本最悪の貧困都市で、欧米並みに失業率高い都市として有名です 橋下知事の政策は、貧困を拡大する政策に見えますし、外国人の投資を歓迎するような発言もしています (ちなみに投資とは貧困を拡大することです) 呆れませんか。

回答No.2

 大阪の事は良くわかりませんので、「関が原の戦いと、戊辰戦争」だけ自分の意見を書きます。 質問に対する回答にはならないかも知れませんが、参考にしていただければと思います。  どちらも外国の影響が及んだものとは云えないと思います。  関ヶ原の戦いは、豊臣秀吉没後の権力闘争、戊辰戦争は王政復古後、新政府軍の旧徳川勢に対する 報復征伐。共通するところといえば、「非情なまでの報復心」だけではないでしょうか?  徳川家康は幼少の頃から人質として織田信長勢力に囚われて永きに渡り第三の男として、天下取り の時期を待った。緒田・豊臣勢力に対しては、他人には量りしれない怨念があったのかもしれない。 それが、「関ヶ原の戦い」「大阪夏の陣・冬の陣」に繋がっていったにでしょう。  戊辰戦争もまた、薩摩・長州の旧幕府軍に対する、非情なまでの報復戦争に過ぎない。 特に、徳川家から京都守護職を命ぜられていた、会津藩主松平容保にたいする報復心は常軌を逸する ものだった。もし、高杉晋作・坂本竜馬がこの時生きていたら、このような愚かな内戦は起きなかっ たに違いない。  「大阪夏の陣・冬の陣」での真田幸村、「戊辰戦争」での松平容保。ここに共通するものは愚直 なまでの忠誠心と正義感。古き日本文化に於ける最大の美学をもって時代に対抗しても、そこには 敗北と罪人の汚名しか待っていないとは、運命の悪戯と言い切ってしまうにはあまりにも悲しすぎ ないか?

townsx7
質問者

お礼

日本と植民地化しようとした外国勢力に組した薩長、それに抗った旧幕軍 善悪を超越して、争いを避けた徳川将軍、ここに日本文化は滅びた自分はそう思ってます 今でさえ、外国資本に忠誠を誓うしるしとして長州閥の人間を賛美すると言うものがあるそうです この人達が使う国とか愛国と言う言葉は己を飾る虚言なんじゃないでしょうか 明治の元勲と呼ばれる人達も、勲章を外してひげをそったらかなり貧相に見えると思います 橋下と変わらんのでは 外国人がどのような知識を持ち、かつ実践していたのかは足跡を調べれば分るんじゃないかと思います

回答No.1

関ヶ原も戊辰もさる一家が戦局の帰趨を決めた 関ヶ原では小早川秀秋ですが、東軍に付く決断させたのは稲葉正成と言われてます。 鳥羽・伏見の戦いでは、緒戦に破れた幕府・会津連合軍が立て直しのため淀城へ向かいます。ですが、淀城側は新政府に味方をして城門を閉ざしました。そこからは大坂への敗走行になります。淀城の城主は稲葉正邦で、稲葉正成の末裔です。

townsx7
質問者

お礼

自分は稲葉と言う人が、どのような理由で東軍に組し、新政府軍に相槌をうったかに興味が有ります 歴史の中には、目的は同じでも、現状の認識と実現の為の方法に付いて違いが有り それを知らないもの同士が誤解し戦かあってしまうそんなことも有るんじゃないかと思ってます これはそうあって欲しいと願う、自分の妄想かなw 「真田日本一の兵」徳川家康が相手にしていたのは、豊臣家ではなく外国資本だと思うと 家康に対する見方が大分違ってきます