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動機と功利主義
「科学者が生物兵器の開発を引き受けようと、良心から拒否しようと、違いはまったくない(副次的効果を無視する前提付で)。なぜならばその科学者が開発を引き受けなかったとしても、他の科学者がやるからだ」、という類の理論は功利主義の立場では論破できません。ならば動機によって道徳の価値を評価する立場からはこの理論はどう議論されるのでしょうか。また、道徳を動機もしくは結果で評価することの問題点はありますか。倫理学や道徳哲学の勉強をし始めたばかりでほとんど初心者レベルです。(すいません)。助言をお願いします。また、倫理学についてお勧めのHPがありましたら教えてください。
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- ghostbuster
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>「科学者が生物兵器の開発を引き受けようと、良心から拒否しようと、違いはまったくない(副次的効果を無視する前提付で)。なぜならばその科学者が開発を引き受けなかったとしても、他の科学者がやるからだ」 功利主義の問題の立て方はこうなります。 「いかなる行動を取れば、関係する全員にとって(将来の影響も含む)幸福マイナス不幸の差は最大になれるのか?」 科学者Aの能力と科学者Bの能力に優劣がないとして、しかも、科学者Aが拒否した場合科学者Bが開発を引き受けることが百%確実である、と仮定すると、科学者Aの拒否は「関係者全員にとって、幸福マイナス不幸の差」はまったく同じ、ということになります。 (ただし、この設問が功利主義のひとつの側面をあきらかにするために人為的に設定されたものですから、具体的事例に関しては、功利主義はこれとは異なる問題の立て方をするでしょう) > 動機によって道徳の価値を評価する立場 結果ではなく、「動機」について考察したのがカントです。 カントは、行動の結果というものは、偶然の状況に左右されるものである。したがって行為の善し悪しは、その結果ではなく、その動機によってはかられるべきである、と考えました。 カントは『人倫の形而上学の基礎づけ』のなかで、すべての人が受け入れなければならない原理を、このような格率とします。 「あなたは、普遍的法則となることを同時に意志できるような格率によってのみ行動しなさい」 「この原理は、ある行動が道徳的に許容できるかどうか決定する手続きを要約している」と、ジェームズ・レイチェルズは『現実を見つめる道徳哲学―安楽死からフェミニズムまで―』(古牧徳生・次田憲和訳 晃洋書房)のなかで以下のように説明します。 ----(p.123よりの引用)------ あなたがある特定の行動をしようと思い描くとき、あなたは、仮にあなたがその行動を取るとするなら、あなたはいかなる規則に従うことになるのか問うべきである(…)。 それからあなたは、すべての人がいつでも従うべきであるその規則をあなたが進んで欲するかどうか問うべきである(…)。 もし進んで欲することができるなら、その規則には従ってもよく、その行動は許容できるものなのである。 しかし、もしすべての人がその規則に従うことをあなたが進んで欲しないならば、その場合、あなたはその規則に従ってはならず、そうした行動は道徳的に許容できないものである。 ----------- つまり、冒頭の「問い」を「行動の格率」(彼が従う規則)とすると、「あなたは生物兵器の開発を依頼されるときはいつでも開発すべきである」というものになるでしょう。さらにさかのぼって考えると、「あらゆる依頼にはつねに応じるべきである」という命題になっていきます。 この規則は普遍的法則になりうるものなのでしょうか? そうはなりません。なぜなら、これは自己論駁的(主張が主張自身を反駁している、つまり一種の自己矛盾に陥っている)からです。 依頼Aにまったく相反する依頼Bの両方を、わたしたちは受けることはできません。 ひとたび「あらゆる依頼につねに応じる」ことが普遍的慣例となると、もはや依頼は依頼としての意味を持たなくなってきます。 このように、普遍的法則になることを意志できない規則には、わたしたちは従ってはならない、という考え方が義務論の考え方です。 > また、道徳を動機もしくは結果で評価することの問題点はありますか。 もちろん、いろいろあります(笑)。 でも、それは倫理思想史そのものになっていくので、本を読んでください。 上に書いた『現実…』は、具体的な問題について、倫理学はどのようにアプローチしていくのか、わかりやすく書かれています。
- tokytime
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私は倫理学、道徳哲学なるものが余りよく分からないのですが、個人的意見として述べてみます。 まず、「生物兵器」なるものは、どう考えても、どう転んでも、人類にとってプラスになるとは思えません。 「生物兵器」という言葉そのものにも非常にネガティブな響きが染みついています。 それを敢えて開発するという目的には「人類全体の進歩や発展に寄与する」という一般的な研究者の研究開発の理念、倫理観というものが全く欠けており、一般人の良識、良心からも逸脱したものだと思います。 良心とは人類の誰もが持っている共通の秤だと思います。 邪悪なことをする人にもこの「良心」は微かに生き続けており、敢えてそれに目をつぶって、屁理屈で自分の行為に正当性を与えているのだと思います。 多分心の隅では分かっている・・本当は自分は悪いことをしているのだと・・。 生物兵器を作る目的にあるのは・・利己主義、覇権主義、唯物主義、・・つまり思い通りにならない他者を押しのけてでも、抹殺してでも自分の願望を達成したいという執念です。 例え、それが国家のため、民族のためといわれようと、自分の良心、研究者としての誇りを捨てない限り、出来るものではありません。 ある研究者がその開発を拒否すればそのことは他の研究者にも少なからず影響を与えると思います。 特に、良心に・・研究者としての誇りに・・人の感情は伝播していくものです。(それについての研究もいろいろ発表されているようです。)ですから一人目の研究者が勇気を出して拒否することは決して無駄ではなく、必ずそれなりの成果があるものです。 もし、良心を捨てた、或いは欲に目が眩んだ研究者が開発しようと、拒否した研究者の動機と行為は後々生き続け、末代まで人類に良い影響を与え続けることと思います。