北京原人の化石の行方について
人類の進化史に関する本を読んでいて、下記のような文章が気になりました。
記
北京原人の化石についてもっとも残念なことは、日中戦争の最中に実物の化石が行方不明になってしまったことです。太平洋戦争がはじまる直前の1941年、安全のために化石をアメリカに一時保管することが決められ、港へ輸送しようとするその過程で、化石は消えてなくなってしまったのです。その後、多くの捜索活動が行なわれましたが、化石の行方は依然わかっていません。 以上
それで、2件ほど、ネットで調べてみました。該当の部分だけを抜き書きします。
【Wikipedia】
(研究史)
1940年ごろにはロックフェラー財団に支援を受け、北京に設立された北京協和医学院で保管されていたが、日米関係の悪化によりアメリカへの移送が計画された。1941年12月5日、秦皇島からプレジデント・ハリソンに乗せるためアメリカ海兵隊の警護を受けつつ港へ移動したが、真珠湾攻撃により戦争が始まったことでプレジデント・ハリソンが拿捕され計画は失敗した。北京原人の骨に関心を持っていた日本軍も捜索したが発見することは出来ず、この日以降行方不明となっている。
(骨の行方)
1941年以降に行方不明となった骨の化石については、「日本軍に押収されたが空襲で焼けた」「中国の何処かに隠されている」「不老長寿の薬として使われた」など多くの仮説を生み謎のままとなっている。
中国政府では、
・移送前の北京協和医学院での目撃例
・アメリカ軍が駐留していた天津市にある病院の地下室で頭蓋骨を詰めた可能性がある箱の目撃例
・皇居の地下室に保管されている
を有力情報として捜索を継続している。1977年には日本軍に押収され阿波丸で輸送中に撃沈されたという説を元に、潜水調査を行ったが発見には至らなかった。1970年代にはオーストラリアの実業家が情報提供者に15万ドルの懸賞金を出すと公表すると、骨らしきものがシドニー美術館に持ち込まれたが、本物と断定するには至らなかった。
【その他のネット資料・中国観察】
(経過)
1941年の暮れ、日中戦争の激化を受けて北京原人の化石を中国から持ち出し、米国内で一時保管することが決まった。米軍軍医の名前を記した2つの大きな箱に化石を詰め、北京から鉄道で河北省秦皇島の港に運び、そこから貨客船プレジデント・ハリソン号で米国へ向かう-という計画が立てられた。
そして41年12月5日早朝、2つの箱は米海兵隊員とともに北京を出発した。8日午前には計画通り秦皇島に到着したが、北京原人の化石を乗せるはずの貨客船が港に来ることはなかった。
おりしも12月7日(日本時間8日)、遠く離れた米ハワイ・オアフ島で真珠湾攻撃が起きたためだ。プレジデント・ハリソン号は上海付近の海域で日本軍が拿捕。化石の護送任務に当たっていた米海兵隊員も日本軍の捕虜になった。そうした混乱の中で、北京原人の頭蓋骨などの化石は行方が分からなくなってしまったのだ。
(取り沙汰された仮説の数々)
戦後、中国では北京原人の化石捜索が行われた。移送前に化石が保管されていた北京協和医学院、米国施設跡地、日本、果ては周口店の化石発見地まで探したという。だが、ようとして行方は分からなかった。これまでに取り沙汰された主な「仮説」には以下のようなものがある。
○化石の価値が分からない日本兵により捨てられた
○戦争による被害に巻き込まれて破壊された
○戦中に米軍により撃沈された日本の貨客船に財物などとともに積まれていた
○秦皇島か天津のどこかに今も隠されている
○北京市中心部の公園に密かに埋められた
○日本に運んで隠された。持ち主は東京帝国大学(現・東京大学)、元日本軍人…
○元米軍人の家族が保管している
これらはほんの一部だが、納得感のあるものもあれば、小説のような出来過ぎたものもある。いずれも現時点では真偽不明だ。
私は、日中戦争・太平洋戦争がはじまったころの事情には、まったく詳しくありません。教えていただきたい、あるいは推理していただきたいのは下記の2点です。どちらか一つでも構いません。
1 上記の「化石の行方に関する仮説」のうち、当時の事情からして、「これは、ないだろう」とか、「これは考えられない」という仮説を挙げてください。
2 現在も行方不明であることは承知のうえで、当時の状況なども推理のうえ、「北京原人の化石の行方」について、私見を披露していただければありがたいです。