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授業用ノートの作成

4月から公立の高等学校で日本史を教える者です。 進学率がそれなりの高校です。自分なりにノートを作成してみました。そして、私の先輩にあたる教員(英語)にそのノートを見てもらったところ、指摘を様々に受けたのですが、その意見を素直にきいてよいものか考えているんです。私のノートはたとえば次のようです。 ■薬子の変(810年)  藤原薬子、仲成-平城上皇重祚を企図   ↑  <阻止>藤原冬嗣   その先生の教科は英語なのですが、次のようにしないとだめだ、といわれました。 ■薬子の変(810年)  藤原薬子、仲成が平城上皇重祚を企図   ↓  藤原冬嗣がこれを阻止  というかんじです。このようにしないと私のノートでは学力の低い生徒が理解できないし、「が」や「これを」などを入れたほうがわかりやすいというのです。私は、より多くの生徒が理解できる普遍性の高いノートがベストだと思っています。学力の低い生徒にだけ合わせて、めんどくさいノートができ、それを多数の生徒が「めんどくさいノートだなぁ」と思って復習してるというのは、本末転倒だと思うのですが。私も高校時代は偏差値42という、学力の低さでしたが、↑のようにつくっても理解できるノートだと思うんです。とくに高校で日本史、世界史をご教授なさっている先生方、どうかご意見をいただきたいです。

質問者が選んだベストアンサー

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  • OsieteG00
  • ベストアンサー率35% (777/2173)
回答No.1

ノートというよりはメモに近いですね。後からみて生徒がわかるかどうかがポイントだと思います。 >より多くの生徒が理解できる普遍性の高いノートがベスト には同意しますが、 >学力の低い生徒にだけ合わせて これはだめですね。「講義」と「授業」を取り違えているかもしれません。講義なら最大公約数的な教え方でも良いと思いますが、授業であるからには下のレベルを掬い上げるべきかと。ひいては、生徒から信頼されない先生になってしまい、それがクラス中に蔓延する可能性があるんです。そうなってしまうと、どのような良い授業をした所で拒否をされてしまいますからね。

その他の回答 (5)

  • TY79
  • ベストアンサー率40% (26/64)
回答No.6

板書としては記号の多用は問題ないと思います。その場で説明しているのだから意味がわからなくなることもないでしょう。 しかし、ノートとなると、文脈のわからないところから記述を見るわけで、わけのわからない記号の多用はさけるべきだと思います。歴史などは矢印が多用されますが、これさえ後で見るとわけのわからないものが多い。 記憶が薄れた頃に見るというノートの性質を思うと、説明的な記述になっている方がよいと思います。

  • pius
  • ベストアンサー率38% (73/191)
回答No.5

私立(下の上レベル)で2年間世界史を教えていました。 #2さんが的確にアドバイスされていますので、別な観点から。 ■薬子の変(810年)  藤原薬子、仲成-平城上皇重祚を企図   ↑  <阻止>藤原冬嗣   このノートは大変素晴らしいです。 ご自分だけが使うなら… ■薬子の変(810年)  藤原薬子、仲成が平城上皇重祚を企図   ↓  藤原冬嗣がこれを阻止  のほうがベターでしょう。学校ならこれに色チョークも使うでしょう。そうすると前者は要点だけなので、赤や黄色だけになって見にくくインパクトもありません。後者なら白色も多く使えるので赤や黄色が映えて見やすいノートが出来ます。 #2さんが >できる生徒は自分が分かりやすいように作り変えていくでしょうから、 結果的に質問者さんが紹介されたノートのような形になっていく可能性はありますが。 と書かれていますが、まさにその通りでしかも自分なりに情報を追加することもあります。 >より多くの生徒が理解できる普遍性の高いノートがベスト と思われるなら、仮に欠席した生徒が友達にノートを借りたとき、どちらが分かりやすいでしょうか?それとも欠席した生徒が悪いとでも言いますか? 普遍性のあるノートとはその場にいなかった人でも分かるノートではないでしょうか? 後者の板書例もまだまだです。おそらく歴史の先生ではないからでしょう。私からのアドバイスです。 ・色ペンを使った上で、インパクトがどのくらいあるノートになるか? ・第三者(特に知識があるわけでない人)がみて理解できるか? に注意してください。 また、口でどんなに説明しても忘れるものです。その時ノートを見て語句どうしの因果関係が分からなければいけません。 教師主体の授業(講義形式)ならば板書こそが授業の生命線です。

  • caesar-x2
  • ベストアンサー率46% (251/542)
回答No.4

失礼ですが、そんなのは基本中の基本でしょう。 普遍性云々の次元の話ではなく、 「誰が」、「何を」、「どうした」は コミュニケーションの大原則です。 さらに歴史のノートの場合、 さらに「どうして」という理由も(普通の授業用プリントには)これに加えます。 あなたのノート書きは、説明が欠落していて、内容を忘れてしまった時には全く役に立ちません。 そんな記述なら、教科書を書き写したほうが、ましですね。 歴史は頭が良い悪いは関係ない教科で 知ってるか、知らないか、だけが問われます。 知らないなら分からないし、知っていればわかる。 つまり教える場合も、どうやったら忘れないか、 どうやったら記憶しやすいか、を考えるのは 常識的なことでしょう。 字数が少なくても、普遍性?があろうがなかろうが、 忘れてしまったら無意味。 記憶とはそもそもめんどくさいことでしょう。 簡単な憶えたものは、簡単に忘れます。 それこそが本末転倒というものでしょう・・・。 もしあなたが私の授業の担任だったら、あなたのプリントは無視して、自分でノート作りますね、私なら。

  • dollar
  • ベストアンサー率33% (63/190)
回答No.3

私は少なくともこの「薬子の変」に関する記述については、英語の先生の意見に賛成です。 確かに質問者さんのおっしゃるように、「わかりやすい記述を心がけるあまりに、字数が増えて面倒くさくなる」という弊害はあると思います。しかしこの例においては、字数に大きな増加は見られません。 もちろん、他の例では「字数がかなり増えちゃうよ」というものもあるかもしれませんので、それは臨機応変に。 授業中に集中力が持たなくなって、「先生の言葉は聞かずに板書だけしてる生徒」って多いと思うんです。そういった生徒のために、「見直しだけで理解できるノート」を作ることは重要だと思います。 そのために字数をある程度犠牲にすることはやむを得ないのではないでしょうか。

noname#17928
noname#17928
回答No.2

>より多くの生徒が理解できる普遍性の高いノートがベスト という考えを反映するのであれば、 やはり先輩が指摘されたような形にするべきだと思います。 質問者さんのノートは(言葉は悪いですが) 「自分だけが分かればよい」ノートです。 できる生徒は自分が分かりやすいように作り変えていくでしょうから、 結果的に質問者さんが紹介されたノートのような形になっていく可能性はありますが。

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