※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:明治まで奈良にあった超昇寺)
明治まで奈良にあった超昇寺
このQ&Aのポイント
明治まで奈良にあった超昇寺は、平城上皇の第三皇子・高岳親王によって創建されました。
超昇寺は明治の排仏毀釈の際に取り壊され、現存していませんが、奈良市佐紀町に存在したとされています。
超昇寺の詳しい場所は不明ですが、奈良市二条町にある超昇寺の石碑は、廃寺となった際に歓喜寺に仏像と共に移されたものと考えられます。
平城上皇の第三皇子・高岳親王は平城天皇の皇太子であったが、「薬子の変」ののち皇太子を廃され、出家して眞如と称し、平城天皇の楊梅の宮を寺に改めた超昇寺を創建したそうです。
超昇寺は明治の排仏毀釈の際に取り壊され、現存していないのですが、奈良市佐紀町にあったようです。
奈良市二条町に超昇寺の石碑があるようですが、廃寺とする際に二条町の歓喜寺に仏像を移したそうです。
おそらく石碑があるのはそのためだと思いますので、超昇寺は二条町の石碑の場所にあったのではないと思います。
超昇寺が佐紀町にあったということまではわかったのですが、佐紀町は広いです。
超昇寺は佐紀町のどのあたりにあったのでしょうか?
光仁天皇の宮も揚梅宮といったようで、平城京東院址が揚梅宮だとされますが、平城天皇の揚梅宮と同じものでしょうか?
明治まであったということなので、古地図などに載っていないでしょうか?
お礼
佐紀幼稚園のあたりにあったんですね! ブログとても参考になりました。 近々平城天皇の陵を参拝し、ついでに超昇寺跡も見てきたいです。 >江戸時代に再興された後期超昇寺は もしかしたら、真如上人が建てた超昇寺は別の場所にあった可能性もあるんでしょうか?