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なぜ好む?

不思議に思うことなのですが、なぜセカチュウのように自分の身に起きたら自殺でもしたくなるような不幸なストーリーや、失恋話、戦争もののドラマ、映画、歌が流行ったりするのは人間のどういった心理の働きなのでしょう? また、そういったバッドストーリーに触れたとき流す涙は一人称的涙なのか、三人称的涙のどちらなのでしょう? 一人称的涙と言うのはその不幸に陥っている役の人間に感情移入してなりきっている状態の涙で。三人称的涙は第三者としてかわいそうだから流す涙のつもりです。

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回答No.3

人間が一生に体験できることは限られています。 ところが、世の中には信じられないほどたくさんの出来事が起きています。さらに歴史を紐解くと、その数は天文学的になります。 文学や演劇は「体験の移植作用」があるのです。 自分の身には起きなかった事を目の前に引っ張り出して、恰もその場に居合わせているかのごとき場面・情景を演出します。 人は小説を読み、演劇・映画を観て、その場に居るような疑似体験が出来るのです。 その疑似体験の中でも特に実際に体験できない、体験したくないものが、あなたの言う「バッドストーリー」ではないでしょうか。 さらに人間は「怖いもの観たさ」「他人の不幸は蜜の味」という言葉で表される妙な特性を有しています。 恐ろしいこと、怖いもの、残酷な事件、悲惨な体験などは、実体験は嫌だけど覗いて見たいのです。 小説の中、演劇の中だけででも体験してみたいのです。 他人が不幸になる姿は、第三者的な覗き見的な心境もあり興味が湧くのでしょう。 そこで流される涙は、主人公になりきって流すものというより、主人公に同情して流す「第三者の目で見ている」人間としての涙なのではないでしょうか。 主人公の感情を十分に理解し、主人公と同じ感情で流す涙もあるかもしれませんが、主人公が涙する時の、その「こころの動き」「感情の揺れ」「相手に対する思い」などを想像し、その思いに同感、同情して泣くのではないかと思います。

その他の回答 (2)

  • 18531891
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回答No.2

私の意見なのですが 人間の一生は短くて、色んな人生を生きることはできないじゃないですか。 だから、波乱万丈のストーリーを見て、その主人公の人生を疑似体験することができるから、そういうお話が好まれるのかと思います。 そういう話に触れて「私だったらこうするな」とか 「こういう考え方があるんだ」とか 色々と学ぶところは多いですよ。 悲惨な話でも、「こんな悲しいことがあったのだ」という知識ができるし 他人にもやさしくなれる気がします。 涙は、どっちもあると思いますよ。 要は、そのストーリーを通じて自分が何を考えたかということでしょう。

  • galluda
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回答No.1

がると申します。ただ只管に私見ではあるのですが。 恐らく、人間が持つといわれているタナトス(死への要求)が擬似的に満たせるから、なのではないかなぁと個人的には思っております。 ですので、基本的には一人称的な涙なのかなぁと。 ただ「他人の低い位置を見て相対的に自分の位置が高いことを感じる」方向性もあると思いますので(ほとんどの「幸せ」はこういった「相対的感覚」によるものだと思います)。 その場合「三人称的涙」なんだと思います。

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