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精神と肉体のアンバランスさに苦しんでいます
肉体はどうしょうもなく存在してしまうのに精神は何故こんなに存在して無い物なのだろう・・・と、いつも考えていますが答えらしい答えが出ません。 精神とは何なのか、肉体とは何なのか、 肉体の死=精神の死 と単純にイコール化して良いものなのか。お知恵を貸していただけると嬉しいです。
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- odd-art
- ベストアンサー率9% (31/325)
この宇宙の森羅万象は、すべて、色法(姿、形として捉えられる面)と心法(形として捉えられない内面)との二面から成り立っており、しかも、この色心の二法が、それぞれ異なっておりながらも、同時に、切り離せない一体不可分の関係になっていることを「色心不二」といいます。 たとえば、人間でいいますと、精神面の働きは心法、肉体の活動(身体の動き、音声等)は色法で、心法の働きがあって色法の活動があり、また、色法の活動を通じて心法を知ることができる、すなわち色心不二なのであります。 この色心不二の理は、じつに唯物論、唯心論の二大哲学を止揚する、仏法の極理に他なりません。 かくのごとく、色心は不二である故に、私達が信心をしていく際にも、色法と心法のすべてを用いて修行していくことが本来の在り方であり、また、その果報としては、物心両面にわたって不安や行きづまりのない、真の幸福を獲得することができるのであります。 如何でしょうか?
- caballero
- ベストアンサー率17% (31/182)
僕はこう考えます。 肉体はすぐに、病気になったり、怪我したりして、崩れる。一時としておなじ状態がない!自分の気持ちはすぐに気が変わり、かわいい人がいたら目で追って、あの人が好きになったり、この人が好きになったりする(自分がない)。またそんな自分のミエや、意固地をまもるために、見たくないものを黙ってみようとしない。それを見るとすぐ難癖つけて、それを、それと違うものとして認識し、目殺(もくさつ)?する。(見て殺すって言う意味です) しかし、僕は間違いない存在を見つけました。それは、二度とおんなじ姿をとどめない(原型のない)肉体存在や、流れる世界、また、すぐ気が変わり、他者との関係の中でうろうろし、出たり消えたりする信用できない自分の精神存在とは、違います。そのような、確かでない存在は、存在しているとはいえません。 しかし、僕の意思で、僕でなくあろうとすることはできない。つまり、僕は僕を僕たらしめている僕の本質を、自分の中に見ました。それは見ようとして見れるものでもなく、その本質は、本質であるがゆえに僕より大きく、小さくて不安定な肉体の目や、精神の目でははるかにおさまりきらない。しかし、その、あらゆる存在よりも、存在しているというものに「気付く」のです。見えているのとは違います。考えている僕でもありません。それは、コギト(自我)ではありません。 「僕を僕たらしめているのは、『僕ではない』のです。」 そうしてやっと、僕や、その精神世界や肉体や世界が、実感できます。それが本来、無いものである事が分かります。 世界はあなたよりも小さいために、あなたは世界を見ることが出来ます。世界の本質はあなたであるからです。(独我論における結論)しかし、あなたの本質、あなたをあなたたらしめているものは、本質であるから、あなたより大きいのです(独我論を超えた所)。 そうなので、あなたはあなたの本質が見えません。他人(世界の目)が、あなたを理解できないように、あなたは、あなたの本質を理解できません。世界と、あなたとの関係は、あなたと、あなたの本質との関係のようです。 あなたが死ぬと、世界は消えますよね?無です。あなたが、世界を世界たらしめているからです。あなたは、あなた以外の世界では生きられないし、存在することも出来ません。なぜなら、他人の目で世界を見ることはかなわないという、世界的事実があるからです。しかし、世界で死ぬのは世界的なあなただけです。あなたの死は、世界の死であるが、世界の死は、あなたの死ではありません。あなたは世界の本質で、世界よりも大きいからです。あなたの肉体(脳みそ)の死は、世界の死です。つまり、あなたが死んでも、あなたの本質は死にません。と言う事は、あなたも死にません。なぜなら、あなたの本質は、あなたをあなたたらしめている確存在だからです。おかしなことをゆっているゾ?と思いますか? 哲学の限界(独我論)を超えるとこういう思考になります。世界主的な自分意識がなくなるのです。自分は自分の本質においてあるのであり、そして、世界で生きるのです。生きる者は死にますし、そこで生成、現れた者は消滅します(世界を見たとおりです) しかし、ある者は無くなりません。なぜなら、あるからです。「無」というものがないのです。無が無い。ないが無い。「ないものはないのだ」(byバカボンのパパ)冗談) つまり、「あり」です。 自分の本質を、世界に所以すると、自分が死ぬと死にます。無です。あなたの本質は、そこに認められず、世界が死ぬと同時に死にます。他者(世界)はいなくてもあなたはいるということに気がつかなければなりません。そうしてやっと他者(世界)を如実に感じることが出来ます。なぜなら、感じる主体の自分というものを確立しているからです。自分の確立は、社会どころか、他者(世界)との相対関係においてもなされません。じつに、あなたの本質においてなされるのです。 あなたは、世界にあるのでなく、あなたの本質においてあるのであり、また、あなたの本質は、あなたにおいて、世界で生きるのです。あなたという場所は、そのような場所です。そうして、マジに、世界で生きることになります。
お礼
真剣なお答え嬉しいです。有難うございました
補足
精神と肉体の定義は解りましたが、どうも精神とは何なのかが良く解りません、精神が手で掴めれば、こんなに不安になったりはしないだろうにな~、と常々 はい。 自分世界の終わりが世界の終わりなのは解りますが、これは宗教的な意味合いが強くなってしまうかもしれませんが、魂は存在するのかとかそう言った感じの答えが欲しいです、魂が存在してもしなくても良いのですが、自分自身の答えを出すのに重要な鍵になるような気がしてなりません。もしよろしければ教えてください、お願いします。
- tips
- ベストアンサー率14% (829/5762)
こんにちは。 肉体は目に見えるものですが、精神は目に見えるものではないです。 精神をつよくするために、自分がなにをかんがえ、 何を答えとしてみちびき、その結果どう思ったのか、などと いろんな角度から一度考えてみるといいと思います。 一度文字にして、ノートなどに書いてみるといいとおもいます。
お礼
有難うございました~^v^こんなつたない文章にお答えいただいて・・・もう、すいません 嬉しいです。
- t_n
- ベストアンサー率21% (28/132)
その前に、「精神が存在する」とはどういう事、状態でしょうか?
補足
えと、それが解らないので、ご質問してみたのですが・・・t_nさんはどうおもわれますか?
お礼
とても勉強になりました ありがとうございました。
補足
いえ、そういうことがお聞きしたいわけではなく、幸せが欲しいわけでもありませんし今現時点で不幸だと言うわけでもありません。 ただ、「精神は存在してしまうものなのになんと言う希薄さか!」と言った所に答えを見出したいのです。もし宜しければ適切なアドバイスよろしくおねがいいたします。 ・・・森羅万象は一念三千かな・・・とも思いますが・・・・・どうでしょう?