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必要(大切)なものはひとつだけ?
ルカ伝・第10章38節~42節より エルサレムに向かう途中のイエスに、マルタという娘が家に招き入れ、マルタは献身的にもてなし歓迎しています。けれど、同居している無頓着な妹マリアは手伝うこともせず、イエスの話に聴きいって動きません。 それでマルタはイエスに「妹は私にだけ用事をさせています。イエス様からも手伝うようおっしゃってください」と懇願した。 イエスは「「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それを奪ってはならない」だった。 そんな返事を貰ったマルタに女としても同情しちゃいます。家を守って晩御飯の用意をして待っている奥さんよりも、キャバクラの女の子に癒されていたいんだよって聞こえます。でも仮にもイエス様ですよ!? 慈愛の人です。 マリアが良い選択をしただ一つの必要なものを選んでいるとはどういうことなのでしょうか?
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「悪魔ですら聖書を用いて自分を正当化できる」 聖書は多くの思想を含んでいます。よって単文、短い節だけ切り取って用いればどんな思想も導き出せます。差別を否定する事も肯定することもできるのです。愛の名の下にどれだけの虐殺がなされたかは説明するまでもありません。 ですから、聖書を自分勝手に解釈する行為は大変危険だと思います。(だからと言って既存の宗教家や小説家の解釈を鵜呑みにするのも同様に危険ですが・・・) マルタとマリアの話でもマリアを褒めてはいますが、マルタに「止めろ」とは言ってませんね。 私はむしろ、マルタに対しての深い思いやりを感じます。 このエピソードを見る・聞く・読む度に私は今自分が最も大切なものを見失っていないか?と反省させられます。 身の下スキャンダルは多くの場合クリーンなイメージを損ないますので、宗教家には致命的でしょう。もし、過去の回答者さんたちがお書きのような関係があったなら、(私がエヴァンゲリオンなら)それをにおわすような事は一切書かないですがね。(初期キリスト教はユダヤ人向けの宣教を考えていました。そして、当時も今もユダヤ人は純潔を重んじる民族なのですから、弟子の中に娼婦もいた、なんて書いたら布教のマイナスになるのは明白です・・・でも書いた、しかも重要な役割を果たしています)その解釈の一つとしてダビンチコードもある訳で、あれを真実だと本気で思うのは(真実だと断言するのは)私には賛成できません。(無かったとも言い切れませんがね) 何だか回答になってないかも知れませんが、何かの考えるヒントになるかも知れないと思い、回答してみました。 この質問の締め切りはまだ先だと書いてありましたので・・・ ♪この質問が多くの人の目に触れますように。 ♪多くの人が自分にとっての「ただ一つの必要なもの」に気付きますように。 ♪そして、それを見失いませんように。 これらの願いが「あなたが信じる方の名」によって叶いますように。(←もし何も/誰も信じていないならあなたの知性が益々増しますように) P.S.プロフィール欄の質問No.が入れ替わってますよ
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- kobarero
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やはり、マルタが悪いと思います。 イエスとマリアは恋人同士だったわけですから、「人の恋路を邪魔するものは、ブタに蹴られて地獄に落ちろ」のことわざ通り、あまりほめられた行為ではなかったと思います。イエスは復活のとき、使徒に会うより先に、先ずマリアに会ったのです。イエスは、「マリア」と声をかけます。マリアは、大喜びで「先生」と言って、イエスに抱きつこうとします(ヨハ20-16)。イエスは、それをにたしなめますが、2人の愛の深さが伺われます。 このベタニアのマリアは、マグダラのマリアと同一人物です。そして、このマリアは娼婦ではありません。それどころか、ベニヤミン族の娘で王家の血筋ですから、ダビデ王の子孫のイエスとは、王族同士になります。そうでないと、「ダヴィンチ・コード」が、あんなに売れまくらなかったと思います。また、レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」は、このマリアを描いたものだという説が有力になっています。以前は、ダ・ヴィンチ自身の自画像だという説が有力でしたが、それでは、あまりにも夢がないじゃありませんか。我々がじいさんの絵を見て感動したなんて! でも、もし、マリアがイエスの言葉を聴かずに、マルタの手伝いをしていたとしたら、もっと、とんでもない恐ろしいことが起こっていたと思います。それは、人ごとではないのです。マリアのような人たちが、一所懸命イエスの言葉を聴き、信じ、イエスの福音を世界に広めたからこそ、今のキリスト教があるのです。もし、キリスト教が世界に伝わり発展していなかったらどうなっていたでしょうか? キリスト教がなかったら、清教徒が創ったアメリカもなかったでしょう。アメリカがなかったら、ペリーは日本に来なかったでしょう。ペリーが日本へ来なかったら、日本は今でも江戸時代だったでしょう。そうなると、我々は、水洗便所もウォシュレットもない、ましてやお尻を拭く新聞紙もない、そんな藁葺きの家で、ヒエとアワに、おしんこ、メザシの生活をしていたはずです。ケイタイやgooなど夢のまた夢。だから、やっぱり、マリアは偉かったのだと思います。 従って、「マリアが良い選択をしただ一つの必要なものを選んでいるとはどういうことなのでしょうか?」において、「ただ一つの必要なもの」とは、「神とイエスを信じ、福音を世界に伝えること」だったのです。その結果、我々はおいしいご飯が食べられ、選挙に行って郵政民営化賛成・反対の意思表示もでき、キャバクラにも行こうと思えば行けるようになったのです。感謝、感謝なのです。 最後に、マルタの名誉のために付け加えると、マルタもキリスト教の福音を広めることに貢献し、お兄さんのラザロや、妹のマリアと共に、ラザロの日、マリアの日、マルタの日が決められ、祝われています。
お礼
お待たせたしました。ダヴィンチ・コード読破しました。私は信仰を持たないものですが、宗教には興味があるのですね~。でもkobareroさんのお話がイエス・キリストが神であり伝道者、聖職者、禁欲者、俗を離れた存在のイメージと違っていたので、ちょっと…喜んでます(笑) 簡単に感想は、「嘘は大きい程信じれる/ヒットラー」という感じです。 聖書には聖母マリアを含めてマリアは5人ぐらいいるとか?いたってポピュラーな名前なのですね。その中でも「マグラダのマリア」は要所に出てきます。それだけ愛が深かったのですね。 「最後の晩餐」や「モナリザ」の謎は面白かったですが、私の視点は薀蓄や暗号ではなく、【愛】なので(笑)いつ二人が出会い、どんな会話をし、性儀をし(笑)、今後の取り決めをしたんだろう。と欲求不満が残る訳です。そこんとこもっと詳しく!って不粋ですが、映画化もされるようですし楽しみにしています。 しかしレオナルドも不思議です。ネットサーフしてあちこちネタを探ってみました。レオナルドは少年愛者だった?。モナリザの顔も半分が男性っぽいようです。そしてモナリザのバックや最後の晩餐の中にも男女のそれが描かれているとか? パソコン画像に目を見開き凝らしました(笑)。 釈迦にも末裔がいるはず?楽しみが増えます(謎) 釈迦やイエスの偉大な教えを知った末端の日本や多くの国は死刑を廃止しようとか尊厳死とか臓器移植、平和だから少子高齢化問題も浮上、すくすく育っています。 でも発祥の地のエルサレムやネパール・チベットはまだ競い合い奪い合い血生臭い。これってどういうことなんだ? そうだ日本には偉大な神の生まれ変わりがいらしゃいます!○川隆法さんに行って納めてもらおう!(冗談です神でも無理です) きっとストレスです。「ストレス度が上昇するとモラルは正比例して下降する」…ミコ ストレスを貯めない生活をしましょうってことで! kobareroさん楽しい勉強になりました。本当にありがとうございました。 何気に読んだ方も、「この質問は役に立った」をマークしてくれてありがとうございました。
補足
kobareroさん。本当にこうしてのんびりネット出来るのも西洋文明が日本に来てくれて、上手くとり入れ調和できたお陰ですね。楽しいお話ありがとうございます。今無い頭でお礼を考えていますが、色々考えさせられ未だまとめられそうにありません。 >イエスとマリアは恋人同士だったわけです(ドッヒャー) >ベタニアのマリアは、マグダラのマリアと同一人物です。そして、このマリアは娼婦ではありません。(エエエー) >イエスは復活のとき、(死んどったんかいー)使徒に会うより先に、先ずマリアに会ったのです。(この色男ー) 疲れ・・・(笑)ダヴィンチコードは読んでいませんでした。衝撃的なお話です。でも私は愛の為に(?)復活して説法をしに来てくれたイエスと、マリア(モナリザ?)がイエスの子を身篭って(いつの間に・・)微笑みを浮かべているという話をテレビで観ました。ダヴィンチはなぜそれを知っていて描いて措きながら、隠し生涯大事に手元に置いていたのか。独身を通したのか?実はお宅?マリアに萌え?(笑)早速本屋に走る!読み終えてから改めて感想を含めてお礼をします。 数日の余地をご了解願います。
- ceelee-boy
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イエスがいったのは「俺の話を聞け」だったのでしょう。 普通のお客様にはおもてなしするのは大切ですが、イエスは普通のお客様ではありません。布教にこられたのです。その方がお話しているのに話を聞かないで料理の用意をしているマルタに、そんなことはいいから話を聞きなさいって、キレたんだとおもいます。 イエスはお話を聞いてもらうために来たのであって、饗応してもらいにきたのではないって意味だと思います。 マルタのいけないところは、イエスの話を聞かないところです。家事はイエスがお帰りになってから片付けましょう。 日曜日はたまった洗濯があるから教会には行けないというのは、よくない信者ですよね。
お礼
ceelee-boyさん。ご回答ありがとうございます。 >マルタのいけないところは、イエスの話を聞かないところです。―簡潔にして、疑い様がありません。目の前に青空が広がりました。 ふと思いついたのですが、マルタは、自分が尊ばれる存在でありたかったし、無言で自分の器量を主張していた。悪いことは一切していないのだけれど、イエスが共感を持ってくれているのか心配になり、マリアのぐうたらさが気に食わないからマリアは悪い娘だとイエスに同意して欲しかった。イエスに忠告されればマリアも従うはずと思っていた。それがイエスは… 「そんなことぐらい自分で本人に言って」と思ったでしょうね。 洗濯は貯めないよう心掛けてます(笑)
- souziki
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ごめんなさい、質問文が面白くって……! 例えが、例えが楽しすぎる! 凡人ですの。 えーっと、「イエスの言葉を聞く」というコトが「良い選択にして、人にとって唯一必要なもの」かな、って。 というか、幼い頃からそうだと思ってきました; それでイエス様が嫌いに(何 間違ってたらどうしようw 信者にとっては食事よりもイエスなんでしょう、たぶん。 この後、確かマリアは信者になっていますが、姉さんの記述はありません。 だから、聖書で言う所の「最後の審判においてキリストの下たる天国に行く、という選択をした」とも取れます。 ほら、キリストに着いていった信者は、確か世界の終わりにある最後の審判で天国に生かせて貰える、はず。 それが良い選択、とか。 何にしても、面白い例え話を聞かせてくれて、ありがとうございましたw
お礼
souzikiさん。ご回答とお褒めのお言葉(なのだろうか)ありがとうございます。例えは場末のスナックでも、カラオケ大会でも焼肉大会でも良かったんですねどね(良くない?)当時そんなものある訳がなく、現代風刺で例えるなんてバカですね~。 ま、しかしマルタは裏方に徹しイエスをもてなす。マリアもあれはあれでイエスをもてなしてます。美食や快適さを追求するのは人間らしさであり、知識情報を欲するのも人間らしさですからね。 天国と極楽は違う場所なのだろうか? 宗教は人生の第二ステージを与えてくれる。出来れば現世でステップアップして死んだら無になりたいのだけれどな。 喜んで頂きありがとうございまし。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
私のような凡人には「良いほうを選んだ」の意味が良くわかりませんね。 「もてなした」ということですから、食事なんかも作ったような気がするのですが、食事よりも自分の言葉の方が大事だということでしょうか? イエスの言葉が尊いのはわかりますが、人間の組成成分として不可欠な食事と比較するのは見当違いだし、矛盾しているように思います。 イエスが本当に腹を空かせて、口を開くのもやっと、という状態でも同じ事を言うのでしょうか? このへんの強引さが引っかかります。 論理的に矛盾していると思うので、聖書を信じる人を減らす結果につながるように思います。 弟子が誤って彼の言葉を書き写したか、または誤訳であるよう、論理的信者の為に祈ります。 首をひねられる向きには、何も知らぬ煩悩だらけの俗人の戯言と聞き流していただければ幸いです。
お礼
hakobuluさん。ご回答ありがとうございます。煩悩の多さや欲深さなら自信を持ってます。そこは論点ではない?(笑) 確か聖書もイエス自身が書き残したのではないそうですね。仏法もそう。弟子達が死後記録したものばかり。時間が経ってから別人が書いたのだから背景や翻訳の矛盾はある程度出てしかり、そして主観で都合よく整理されてると思いますね。 マリアとマルタ。私はどっちだろう?取り柄もない。ぼーっとするの大好きなんですが、聞き上手ではないしな。イエスがなぜ「マリアは良い方を選んだ」とおっしゃるのか?ですね。マルタが心を痛める不平不満が良くないということかな…。 男心を掴むには胃袋を掴みなさいとよく言われますよ。その点の失敗はよくよく経験済み(笑)
- nazokun
- ベストアンサー率12% (14/109)
失礼なご回答かもしれませんが、ご了解いただければと思います。 そもそも、イエスのお言葉と、世俗的な存在(決してキャバクラで勤務する方を卑下しているわけではなく、すべての世俗です。)を同一視することが間違っているのではないでしょうか? 「マリアが選択したただ一つの必要なもの」とは、まさしく「そのときマリアが必要としていたもの」のことであり、それが「イエスのお言葉」だったのではないでしょうか? よしんばそれが「キャバクラ嬢の言葉」であったとしても、それは「そのとき」の「ただ一つの必要なもの」であったのではないかと思います。
お礼
nazokunさん。早々にご回答ありがとうございます。了解です。世俗に浸り甘える私としては、ついそういう発想が飛び出してしまいました。 イエス様、無礼をお許し下さいませ。申し訳ありません。 マリアは素直にイエスの言葉を求めての対応なのですね。それが自然で無理のないものだったのと思います。 でもそこにお金という媒体を欲する商売の対応とは自然に見えても動機が純粋ではないですものね。
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お礼
frisk_blue_loveさんぐらい理知的な方の「反省」と「大切なもの」って何かちょっと気になって、質問ではありませんよ。全然回答と違う見解のお礼したら失礼とか、馬鹿がバレたら嫌だな~と、もうすっかり遅いですが(苦笑)あの、本当にわざとは間違えてません。天然でした。 謙虚にならなければということなのかもと思いました。はい、謙虚を理解出来ても行動に表すことは至難なのです(汗)感情に流されやすい私と比べられたら迷惑だと思うけれど、マルタは謙虚を失っていたのかな? 「全ての人がそれぞれの能力で与え、そして受け取る」という言葉が浮かびました(出所不明)。 「せっかく人間という素晴らしい創造の喜びを知れる生き物に生まれたのだから、恨んでばかりいるのは勿体無い」これはニーチェの言葉でした。 ニーチェは「神は死んだ」とアンチクリストでしたが、イエスの言葉ではなく、当時の神の名を利用した世相に対して(弱者にも富者にも)言ったのですよね、きっと。 下ネタには気をつけますっっ(←これも遅かった)。自分を見失わないように♪色々助かりました。回答ありがとうございます♪
補足
frisk_blue_loveさん。ようこそ!ありがとうございます。一番重要参考になったのがプロフィールの件で(苦笑)今から訂正します。恥性も増しつつ…数少ないのですが「あなたにありがとう」と言って私を救ってくれた人がいたことは忘れないでいたいのです。 エールをありがとうございます♪ 後に改めてお礼を入れます。