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必要(大切)なものはひとつだけ?

ルカ伝・第10章38節~42節より エルサレムに向かう途中のイエスに、マルタという娘が家に招き入れ、マルタは献身的にもてなし歓迎しています。けれど、同居している無頓着な妹マリアは手伝うこともせず、イエスの話に聴きいって動きません。 それでマルタはイエスに「妹は私にだけ用事をさせています。イエス様からも手伝うようおっしゃってください」と懇願した。 イエスは「「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それを奪ってはならない」だった。 そんな返事を貰ったマルタに女としても同情しちゃいます。家を守って晩御飯の用意をして待っている奥さんよりも、キャバクラの女の子に癒されていたいんだよって聞こえます。でも仮にもイエス様ですよ!? 慈愛の人です。 マリアが良い選択をしただ一つの必要なものを選んでいるとはどういうことなのでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.13

「悪魔ですら聖書を用いて自分を正当化できる」 聖書は多くの思想を含んでいます。よって単文、短い節だけ切り取って用いればどんな思想も導き出せます。差別を否定する事も肯定することもできるのです。愛の名の下にどれだけの虐殺がなされたかは説明するまでもありません。 ですから、聖書を自分勝手に解釈する行為は大変危険だと思います。(だからと言って既存の宗教家や小説家の解釈を鵜呑みにするのも同様に危険ですが・・・) マルタとマリアの話でもマリアを褒めてはいますが、マルタに「止めろ」とは言ってませんね。 私はむしろ、マルタに対しての深い思いやりを感じます。 このエピソードを見る・聞く・読む度に私は今自分が最も大切なものを見失っていないか?と反省させられます。 身の下スキャンダルは多くの場合クリーンなイメージを損ないますので、宗教家には致命的でしょう。もし、過去の回答者さんたちがお書きのような関係があったなら、(私がエヴァンゲリオンなら)それをにおわすような事は一切書かないですがね。(初期キリスト教はユダヤ人向けの宣教を考えていました。そして、当時も今もユダヤ人は純潔を重んじる民族なのですから、弟子の中に娼婦もいた、なんて書いたら布教のマイナスになるのは明白です・・・でも書いた、しかも重要な役割を果たしています)その解釈の一つとしてダビンチコードもある訳で、あれを真実だと本気で思うのは(真実だと断言するのは)私には賛成できません。(無かったとも言い切れませんがね) 何だか回答になってないかも知れませんが、何かの考えるヒントになるかも知れないと思い、回答してみました。 この質問の締め切りはまだ先だと書いてありましたので・・・ ♪この質問が多くの人の目に触れますように。 ♪多くの人が自分にとっての「ただ一つの必要なもの」に気付きますように。 ♪そして、それを見失いませんように。 これらの願いが「あなたが信じる方の名」によって叶いますように。(←もし何も/誰も信じていないならあなたの知性が益々増しますように) P.S.プロフィール欄の質問No.が入れ替わってますよ

noname#31063
質問者

お礼

frisk_blue_loveさんぐらい理知的な方の「反省」と「大切なもの」って何かちょっと気になって、質問ではありませんよ。全然回答と違う見解のお礼したら失礼とか、馬鹿がバレたら嫌だな~と、もうすっかり遅いですが(苦笑)あの、本当にわざとは間違えてません。天然でした。 謙虚にならなければということなのかもと思いました。はい、謙虚を理解出来ても行動に表すことは至難なのです(汗)感情に流されやすい私と比べられたら迷惑だと思うけれど、マルタは謙虚を失っていたのかな?  「全ての人がそれぞれの能力で与え、そして受け取る」という言葉が浮かびました(出所不明)。 「せっかく人間という素晴らしい創造の喜びを知れる生き物に生まれたのだから、恨んでばかりいるのは勿体無い」これはニーチェの言葉でした。 ニーチェは「神は死んだ」とアンチクリストでしたが、イエスの言葉ではなく、当時の神の名を利用した世相に対して(弱者にも富者にも)言ったのですよね、きっと。 下ネタには気をつけますっっ(←これも遅かった)。自分を見失わないように♪色々助かりました。回答ありがとうございます♪

noname#31063
質問者

補足

frisk_blue_loveさん。ようこそ!ありがとうございます。一番重要参考になったのがプロフィールの件で(苦笑)今から訂正します。恥性も増しつつ…数少ないのですが「あなたにありがとう」と言って私を救ってくれた人がいたことは忘れないでいたいのです。 エールをありがとうございます♪ 後に改めてお礼を入れます。

その他の回答 (15)

noname#96295
noname#96295
回答No.16

これもまだ開いているんですね。 miko-desiさんの放置質問を訪問中なのです。 みなさん面白いことを書いておられるから、もういいような気がするんですけれど。 みなさん盛り上がっていたのは、難しく考えずに創作抜きに答えるとつまんないからなのかな? 彼女は他人の感謝を求めてもてなすことはしない。 彼はもてなされたからといって感謝しない。 彼女は自分がしたいことをする。 彼も自分がしたいことをする。 腰掛けたいからそこに腰掛け、ご飯を食べたいから食べる。 他者の影響で決定されないことはとても稀有なことではありませぬか。 マリアは「良いほう」を選んだということは、これは選択肢なので、 「ただ一つだけ」の「必要なこと」を指しているにしちゃ変です。 これ、信仰と解釈されがちだけど、ほんとに信仰かなあ。 話を聞きたいけどおもてなししなきゃ、なんてのは、心が乱れているわけでしょう。したいことをガマンして家事なんてしている主婦は、心が乱れていて、しかも妹の意思も動かそうとしているとなおさら乱れているってことじゃないんですかね。家事を放棄してでも、すべきと思うことをすればよかったか、あるいは家事が本当に自分の望みなら、それをまっとうするだけで良くて、他人に不満を持つのは邪念で余計だってことじゃないのかな。よくあるでしょう、こういう状況。 愛の話じゃなくてすみません。

noname#31063
質問者

お礼

amaguappaさん本当に鋭い!、直球ー。今の私が回答者だったら(←何の為に引き伸ばしてる質問か?とツッコミは困ります)「欲しいものを欲しいと言う、したいことをする、あげたいものは唯あげる(不満を言わない)」という言葉なのだったのです。(枝廣淳子さんという翻訳者の言葉からの引用です)。 ストレートですよね、シンプルですよね、でもこのストレートシンプルを考えると、出来ることを証明してみせることが難しくなってしまったり。整理解剖学や発達心理学的ににどうして子供は優しさとか言葉も動きも勉強しないでやってのけるのか解釈付け出したらきっと何冊でも本書けちゃいます。でももっと深い言葉にも思える。 これが正解となるかは、各人に正解が見付かるのかもしれませんね。信仰を進める為だとしても当時としては、生きる神様イエスの言葉は実在論なのですよね。 マルタは助けて欲しかったのかとも思います。誰にも助けて貰えないという場合、服従か反撃するの選択しかなかったりします。私も質問者ながら色んな見解を知るうち勝手に3人のことを熟成させていたのです。だから決して締めきりが面倒で放置していたのではなかったのです!?。 愛の前では固まった心も、望みに背いて(従ってとも言えますね)乱れます~~。 お世話になりっぱなしです。回答ありがとうございますー。 いつ締め切きろう・・・;;。

noname#32370
noname#32370
回答No.15

miko-desiさん、こんばんは!w 明日始業式で夜遅いですが(笑)、書かせてもらいます^^ 私もキリスト教等については無知なので、どうしても簡単な文面になってしまいますが、お許し下さい;; No.5さんの回答に書いている限り、イエスとマリアは恋人同士、ということで答えさせてもらいます。 お母さんの妹とお父さんをマリアとイエスに例え、お母さん(姉なので)をマルタとして考えました。 うーん…。。 結論を言うと、どちらが良い、悪いは無いような気がします。 マリアとイエスの愛の歴史(笑)によって話も変わってきますしね。 でも、イエス様ももう少し優しい言い方できなかったのかなって思います。 マルタ様の性格にもまた変わってきますがね。 多分…予想ですけど、イエスが家に来てもてなすってことは二人を祝福したいって気持ちだと思うんですね。(反対にマルタはいつもは働かなくって、イエスに媚びてるだけっていうのも考えられますが。笑) そうだとしたら、書かれているマルタの言葉も、一種の冷やかし(?)だったように聞こえます。 よく息子持ちのお母さんがドラマなんかで彼女さんに「うちの息子いっつもお母さんに協力してくれないのよ!でもこの子の大好きな貴女から言われたら変わるんじゃないかしらww」って(笑) 多分1つのコミュニケーションとして話しただけだと思います。 でもマリアもマリアですよねー、普通好きな人がいるなら、良いとこ見せたい!って思うのが普通なのに。 で、それで真剣にかばいだすキリストもどうかと。 ギャグが通じない人なのかなぁ?(ぇ でもまあやっぱその時と場合によりますからね; マルタがその言葉を意地悪そうに言っていたら、怒ったキリストは立派だと思うし、(普通は恋人の兄、姉になんて怒れないし!) それか、いかにも冷やかしって感じだったらやっぱり冗談が分からない人なのかな~って思っちゃいます。 どっちにしても、その場を見ていない限り分からないってことですね;;(すみません;;) しかもこれを書いていたのはキリスト自身ではないとのこと!! そしたら尚更分かんないですよ! その人の受け方次第ではどんな風にでも書けますしね。1つの言葉でも感じ方は人それぞれですからね。 マルタとイエスのどこかが食い違っていたのかも。 そうだとしたら、やっぱりマルタ様が可哀想;; 回答は…私の作り話から想像すると。(笑) (1) イエスとマリアは遠距離恋愛(笑)で、久々の再会で感動し合っているのを見て、知っていたのなら、その言葉はやはり嫌味にしか聞こえないのでマルタが悪い。 (2) イエスとマリアは何の障害も無い恋をしているのなら、マルタの言葉は二人を盛り上げようとする1つのコミュニケーションだと思うので、そうだとしたら、そのギャグが通じないキリストが悪い。 …ですかね^^; ふー、頑張った!(ぇ なんせ内容が難しいので、私の小さい頭に上手いこと収めるのは至難の業でしたよ(苦笑) まぁなんとか上手く書くことができたので、私はこれからお風呂に入って、寝ることに専念でもしようかな、とw(笑) 明日テストだしー!!!(←私立中生のくせにヤバイ子) でわでわ、おやすみなさーい^^w

noname#31063
質問者

お礼

ayana9さんありがとう。 >(2) イエスとマリアは何の障害も無い恋をしているのなら、マルタの言葉は二人を盛り上げようとする1つのコミュニケーションだと思うので、そうだとしたら、そのギャグが通じないキリストが悪い。 【ギャグが通じないキリストが悪い】に清き一票です(笑) そこで イエス「あ、ごめん、気が付きませんで;」(といってイエスが手伝いだす) このオチだったら大丈夫かな? そういう問題でないな(笑) 東大レベルの人なら何て答えるでしょう? 簡単なようで難易度の高い質問でしょ? 実は簡単な答えがあるような気がするのですよ。 私の先生が出した宿題なんだ。 天才バカボンレベルだから難易度?すごいでしょ? 睡眠をおしてまでありがとう~。 しっかり昼寝してね(笑)。 テスト頑張れた? 人生は一生が勉強ですたい!

noname#174511
noname#174511
回答No.14

すみません、まったくキリスト教の知識がない者ですが・・・ 質問者さまのご質問を読んだ限りの判断ですが、私もマリアは良い方を選んだと思います。 だって時のヒーロー「イエス様」が家にいるのに、それを横目に料理の準備片手間にイエスとちょこちょこ世間話するより、じっくりお話してみたいし、一分でも無駄にしたくないですよ。すっごい夢見ていたプチ対談が今叶う!みたいな。自分の疑問に答えてくれる人はこの人だけなのよー!みたいな。マリアのその気迫がイエスにも伝わったんでしょうかね。イエス的にはマルタに対しては「オレの話を聞きたいって言ってんだから、まーまーそんなに怒らずに」ってところでしょうか。マリアにとって一番必要なこと=イエスの話を聞くこと、だと言いたいのでしょう。 まぁ、「おいおいーあなたも女でしょーに!少しは動きなさいよっ!」と言いたくなるマルタの気持ちも分かりますけどね。ちなみにイエス様もマルタに対してもう少し言葉を選んでやって欲しかった・・・。せめて「ありがとう」と一言ぐらい。。。(笑) ちなみに私ももしその現場にいたら間違いなく「マリア派」ですね。お姉さんとの喧嘩は後でどうにでも修復できるけど、イエス様の言葉は間近で聞ける機会なんてないかもしれないし。 すみません、ミーハーは回答でした! (下の回答者の方々のご意見、スバラシイですね!見習いたいものです!)

noname#31063
質問者

お礼

masa-fireさん自信なし回答ありがとうございます。 私もボケ回答以外はいつも自信なしで回答なのよさ。 ミーハーから始まった疑問だったので率直な意見は大歓迎♪ この逸話を知ってからキリスト教の歴史や人物像なども調べたり親切で博識な方から教わったりしながらです。 こんなに見習うべき人が身近にいてくれたり機会のないことが本当に寂しい残念です気付いてないだけなのかな~、いや本当滅多に居ないですよ。 イエスは感情論ではなく、どんな人にも優しく諭そうとしたのだと思いますが、マルタは女性らしくてしっかり者、マリアは女を忘れたり?マリアの方が女らしのかな? 女らしさとはが私自身で正直解らないので、取り敢えずイエスは人間の営みは行動だけでなく精神の活動も推し量れたのだと思います。 それぞれ各人に必要なことが速やかに、そして期待以上の感謝と感動に包まれていけるといいんだな。 神様は快感かも。「人に触れる時、神に触れている」と誰かが言った。マザーテレサだったかも。 マリアは神に触れた、神も男になって触れたらしい?? ミーハーは辞められん。ありがとう。

  • tokytime
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回答No.12

随分遅い回答になってしまいましたが、読んで頂ければ、幸いです。 イエスは当時の「物質中心主義」に陥っていた「ユダヤ教」に霊性を吹き込むため、降臨されたのだと思います。 当時のユダヤ教には「死後の世界観」といったはっきりしたものが無く、ましてや霊魂の不滅に対する考えもありませんでした。 イエスの使命は「霊魂の不滅」を説き、ドグマ主義に陥っていた当時のユダヤ教に対し、霊魂にとって最も大切なシンプルな普遍的な教え、 「霊魂は不滅であり、死後も存在し続ける」 「他者に対して己が欲するごとく為せ」 「隣人を己を愛するごとく愛せ」 を説いたのだと思います。 霊魂は不滅で常に向上を求め、他者に尽くすことにより限りなく「神」に近づけるよう成長していくものだ、という教えだと思います。 イエスの言葉は「霊的に準備が出来ている人の魂」に土に浸み込む水のように吸収され魂の糧となっていきます。 「霊的準備が出来ている」とは常に魂が霊性の向上を願い、次にもたらされるであろう霊的な言葉、文字、インスピレーションを待っている状態のことです。 さて、マルタとマリアですが、 マルタは心よりイエスをもてなそうとしました。その為に心を配り、献身的に働きました。 マルタにとっては歓待することがイエスに対する最高の心尽くしだったのでしょう。 ところが妹のマリアは手伝うどころか、イエスの話に聞き入るばかりで動こうともしません。 マルタにとっては、マリアの、イエスのために何もせず、ただ話しを聞いているだけという行為がとても怠慢で身勝手に感じられたのではないでしょうか。 イエスにはこの世に霊的真理を広め、少しでも多くの人々を悩み、苦しみ、迷いから救い出すという大きな使命がありました。 でも、この真理は誰が語ろうと、霊的に準備の出来た人にしか伝わらないのです。 魂に準備が出来ていて、いつでも受け入れられる状態のときに、初めて霊的真理は降り注ぐ太陽の光のように魂の中に注ぎ込まれるのだと思います。 マリアの状態がまさにそのような状態だったのではないでしょうか。 霊的真理を欲しているときには魂の底からそれを希求しているので、その他の物質的欲求や願望は二の次になってしまいます。 イエスの言葉は普通の言葉ではなく「霊的真理」を語っているのであり、マリアにとってはまさに何にも代え難い「魂の糧」であり、心底求めていた「霊的向上の鍵」となるものであり、「全身全霊の喜び」となるものだったのでしょう。 姉のマルタはこの事を理解していません。 マルタにはまだそこまでの魂の準備が出来ていなかったのかもしれません。でも、彼女は自分に出来る最高の方法でイエスに真心を尽くしたのですからそれはそれで素晴らしいことなのです。 イエスもきっと喜ばれていたでしょう。 ただ、マリアのようにイエスによって霊性が開かれ霊的向上を遂げるほうをもっと喜ばれるでしょう。 なぜなら、それがイエスの使命であり、喜びだからです。 イエスがマリアによって癒されたのではなく、マリアの魂がイエスの尊い言葉によって癒されたのです。 そしてそのことをイエスは何より喜ばれているのです。 だから、「奪ってはならない」といったのです。 マルタには霊的真理に触れたときの例えようもない喜びが理解できず、邪魔するようなことを言ってしまい、イエスに諭されてしまったのです。 マルタが思い悩み、心を乱している多くのこととは「この世的」な「物質的」な悩みです。 「ただひとつの必要なこと」とは「霊的真理を求める心」です。 そしてマリアはそのただひとつの真理を選んでいるのです。 イエスは決してマルタを責めているのではありません。 やさしく諭しているだけです。 マルタに悪気はないのですから。 この一説は人の魂にとってなにが一番大切なのかを例え話的に語っているのでしょうね。 この世で生活していると、ついつい世間的なことや、本当は大したことではない日常的なことばかりに気がとられ心が一杯になりがちです。 きっとイエスはそのことを諌め、人が自分自身は霊的存在であり、常に霊性の向上を求めるものだということを忘れないようにと教え諭したんだと思います。

noname#31063
質問者

お礼

tokytimeさん。綺麗な詩を読むようで、霊的に納得させられました。回答ありがとうございます。質問者として回答を貰うのは嬉しい限り、愛の告白でも(ない、ない)叱咤激励、誹謗中傷であろうが弟子として師に光を注がれるように嬉しいです。師匠は回答を下さる方全て。霊的に自分の投稿の確認を怠らず(暇だから)態度が無礼で無謀で無知~という変な奴です。 >霊魂にとって最も大切なシンプルな普遍的な教え、 真理よりも、現実の苦悩を作り出すのが人は得意・嗜好傾向があるせいかもしれないからでしょうか。マリアのように素直になれたら幸せに感じることの方が多く、そして幸せを無意識に太陽の光のように振り注いでいるようなですね。 素直に信じれるのも、良い師、良い協力者があってこそ、今のご時世では必ずしも霊性を高めてくれるのが宗教家ではないように思えるのですが、 >「他者に対して己が欲するごとく為せ」 「隣人を己を愛するごとく愛せ」 これは真理!ですよね。立場が変わったら主張も変えるズルの滅し方、嫉妬や恨み辛み、諸悪の根源(そこまで言えないかな)であるのに、人類は依然変えません。変えられません。私も自己中が治せません。 マルタもイエスを癒そうとしているのに、マリアと、イエスにまでも嫉妬したから「取り上げてはならない」と諭されたのでしょうね。 マリアが身勝手に思えても霊性が高いと癒された魂が、次の可能性をもっと引き出すことまで考えることが出来るなら、そうなればマルタもきっと嫉妬せずとも楽しめるのになぁ。やはりそこまでの想像力って感情だけでは難しいですね。いつも冷静で霊性が高いイエスは物質よりも精神の豊かさって喜び多いものなのしょうね。 >「ただひとつの必要なこと」とは「霊的真理を求める心」です。 マルタよりもマリアの方が器が大きいような、大人にも見えてきました。マルタのように献身を惜しみなくしっかりした大人がいなくては物質世界も秩序がなくなりそうなのも判るのですが。 まだまだある事情から(気分で)この質問を引き伸ばしてますけれど、回答者様全ての真心の弟子になります。だからといって何の特典もないです(爆)に立ち寄って頂き勉強になりました。ありがとうございます。

  • kobarero
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回答No.11

#10です。 こんばんは。 「マルタとマリア」、まだ、途中ですが、回答させていただきます。実は、少し読んでいると、わからないことにぶつかり、調べていると、関連したおもしろい本が見つかって、そちらを読んで、また、戻って、調べていると、また、おもしろい本が見つかって、また、それを読んで......なんてことをやっていまして、いつまでたっても終わりませーん。でも、お陰で、色々本が読めたので、まずは、miko-desiさんに感謝感謝です。 「マルタとマリア」を読むと、2人ともイエスに愛された重要な弟子だったことがわかります。例えば、新約聖書に登場するイエスの「晩餐」は、有名な「最後の晩餐」とベタニアでマルタやマリアの家で行った晩餐(ヨハ12:2)の2回だけです。また、マルタはお兄さんのラザロをイエスが生き返らせる前に、イエスの力を信じて信仰告白をします(ヨハ11:27)。これに対し、弟子のトマスは、イエスが死んで蘇った後でも、指の釘跡やわき腹の穴を確認するまでは信じないと言った(ヨハ20:25)ので、「見てから信じるトマス。見ないで信じるマルタ。」と言われ、マルタの信仰心の厚さが高く評価されています。さらに、miko-desiさんが引用した「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している(ルカ10:41)」については、「マルタ、マルタ」と2度続けて名前を呼ぶのは、聖書の中では限られた用法で、イエスが、特に信頼して宣教奉仕を行うことを指示するときの言い方だそうです。ここまで来ると、「うーん、そういうもんですか」としか言いようがないのですが、とにかく、マルタはイエスから信頼された重要な弟子だったようです。一方、マリアも、イエス復活後、イエスが最初に会ったほどですから、当然大切な人でした。 ところが、ここから段々話がおかしくなるのですが、それほど重要視されていたマルタとマリアが、その後の初期キリスト教共同体の中で、段々と地位を落とされてしまうのです。聖書自体はイエスが直接書いたわけではなく、イエスの死後一番早くて20年後、一番遅くて150年くらい後に書かれたので、その間に、初期キリスト教共同体の考え方や宗派の影響を強く受けたと思われます。そして、最終的に正統派キリスト教が、たくさんあったその他の宗派を異端として排除することで、内容が一本化されます。最初期キリスト教の時代には、男女の差別はなく、女性でも、宣教活動をしたり、司祭になったり、洗礼を施す人もいましたが、段々、女性は人の前で教えたりせずに静かにしていることを求められるようになりました(テモ2:11)。また、最初期に伝承されていたイエスの教えについても、異端と断定されたものに関しては、徹底的に排除し、その関連文書も処分されました。ところが、その一方で、正統派キリスト教の中でも、100%考えが統一されていたわけではなく、現在の新約聖書の中にも、考え方が統一仕切れなくて、異なった見方が混在していると見られています。例えば、miko-desiさんが引用した部分(ルカ10:40)も、そのおもしろい例として挙げられています。この部分は、マルタを評価している面を残しながら、一方で、女性蔑視の著者が、女性を軽蔑するために脚色しているというのです。どういうことかと言うと、ここでは、女は所詮つまらないことでけんかばかりしていて、しかも、自分では問題解決できず、イエスに頼っているというのです。どうでしょう? なかなか複雑な見方ですけどね。 「マルタとマリア」を読んでいて思ったんですが、イエスは人を差別しないんですね。まず、男女差別も全然していません。それから、miko-desiさんが引用したマルタとマリアの箇所の直前に「善いサマリア人」というのがあります(ルカ10:25-37)。ここに出てくるサマリア人というのは、ユダヤ人と仲が悪く、ユダヤ人は敵視していたようです。でも、ユダヤ人が追いはぎに遭って困っているとき、助けてくれたのは、同じ仲間のユダヤの祭司でもレビ人でもなく、サマリア人だったわけです。イエスが隣人愛の例として示したものです。イエスは、敵味方で差別しないし、人種でも差別しないです。イエスは、男女愛も大切だと思っていたとは思いますが、新約聖書の全体とトーンとしては、miko-desiさんには、申し訳ないですが、やはり、隣人愛ではないでしょうか? 隣人愛の中には、当然、男女愛も含まれると思いますから、悲観することはないと思いますが......。 要するに、イエスは、人と人の間に線を引いて差別するということがないように思います。誰に対しても区別せず愛することを説いているように思います。 ところが非常に不思議なことに、キリスト教の伝統的な行動を見ると、人と人の間に線を引いてひどい差別をすることがあるんですね。男と女の間に線を引く。正統派と異端の間に線を引く。キリスト教徒と異教徒の間に線を引く。そして、教会の指導者層から女性を排除したり、異端を殺したり、魔女を殺したり、十字軍でイスラム教徒を殺したりします。そういう側面が、かなり目立つので、とても不思議なことだと思っていました。そんなことを考えていたとき、寄り道して、「キリスト教を問い直す」というのを読みました。その中で、同じような問題が議論されていました。答えは、「キリスト教とキリスト教徒は違う」という話でした。「えー? そんなのずるくない?」と思ったのですが、後で考えると、結構説得力があるように思えてきました。 で、さらに、寄り道して、エレーヌ・ペイゲレスの「ナグ・ハマディ写本」を読んでみました。「えー!初期のキリスト教にそんな近代的な考え方もあったのか」とびっくりです。なにしろ、イエスが処女から生まれたとか、磔刑後に復活したとかいうのは、譬えであって事実ではないと初めから認めているのです。一番、感心したのは、人は神の似姿に造られているのだから、一人一人の人間には、「罪」ではなく、「神の光」が宿っているという考え方です。どんな人間でも、敵であっても、「神の光」が宿っているからこそ、愛する意味があり、愛する必要があるのだという考えです。これだと、たとえ異端でも、イスラム教徒でも、殺して良いという発想は生まれなくなるので、妙に納得です。もう少し、異端を研究してみたくなりました。 ということで、寄り道ばかりしてしまいましたが、ご質問のマルタとマリアの件の答えは、「ルカ福音書の著者によって、ちょっと馬鹿にされたマルタとマリアですが、イエスの気持ちとしては、マリアには、これからさらに神の教えを学んで欲しいし、マルタには、つまらないことに気を煩わせずに、宣教に励んで欲しいと思ったのではないでしょうか?

noname#31063
質問者

お礼

こんにちは、(挨拶忘れてました)。 >助けてくれたのは、同じ仲間のユダヤの祭司でもレビ人でもなく、サマリア人だったわけです。イエスが隣人愛の例として示したものです。 似た例はいくらでもありそうですね。北朝鮮では日米を非難する教育と報道が強制的になされてますが、本当に戦うべきはそっちの内政なんですけど!!って。日本への内政干渉より、自国の教育と汚染報道改善が先だろっ!韓国や中国もしかり。でもそれで特する日本人がいるので益々煽ってますよね。この日本政府はどこの政府なのかと…。こんなに親切な味方を仮想敵国にして何の訓練・試練なのでしょ?本当に戦うべきは悪意を咎めることも出来ない人が良いだけ同情をするだけの味方だった。それなら触発して色々気付かせる異色な敵の存在を、実はこっそり大事に愛玩愛人のように格別なものにしておきたいのかもしれませぬ。マリアとマルタ…どんどん関係なくなってしまったようで、実は正妻と愛人の心理と重なるかもしれない。かもしれない。マルタは世間体を気にする潔癖な正妻で、マリアは自由奔放な愛人て感じもします。 >人は神の似姿に造られているのだから、一人一人の人間には、「罪」ではなく、「神の光」が宿っているという考え方です。 う~ん。神って人間の素晴らしい想像力・英知が生んだのだと確実に思うのですが、「神の光」というのは判ります。それは「誇り」ではなかろうかと。悪いことをすれば罰を受けるのはしょうがないことで当然というか、そうなって欲しいのが人情なんで、それでも善いことをしても罰を受けることが少なくないのに人を生かしたいが為にそうすることが美談であり、悲劇であり、でもそれでその人がつまらない死に方と、誇りを知っている人なら馬鹿にしない。人にだけにある(神もある)「誇り」が肉体の死を超えても精神の存在を確信していれるからですよね。 復活したイエスも誇りの精神の存在を顕著に表した例だと思います。でも実際に食事したりもしたらしい。 精神だけで食事が出来るものなのかどうか?(意味不明)

noname#31063
質問者

補足

ありがとうございます♪本は興味が連鎖してカテゴリーを越えて、最後自分の中で一つの重要が見つかり、その時間も有意義だったと満足出来たり、新たな掛け橋になる醍醐味ってありますね。kobareroさんはもうその辺のクリスチャンより博学ではないですかね。それだけイエスは魅力ある「人間」だったのですね。その光に敏感になることが出来るのもkobareroさんに同じ光があるからだと思います。信仰の種を播いても収穫出来るのはその人なりの土壌との相性があると思います。kobareroさんはどういう風貌をされているのかなと思いますよ。私は「仲間ゆきえか加納美香どちら似か?」と聞かれたら、加納美香です(笑) >イエスは人を差別しないんですね。 miko-desiも人を(全く)差別しませんよ~。嫉妬や人を恨むこともしません。出来ません。それは最初から偉くないからで~す。頭回らないからでーす。Oh、 my got!!(笑)で、kobareroさんにお礼飛ばしされたことも、何か?それだけkobareroさんに切迫した理由があるからに違いないと思って全然気にしてませんから本当大丈夫ですから。こうやって勉強になりお話楽しいです。もう、お礼飛ばしなれちゃってるしそれって相手の事情だけならいいのですが、私は何か?いけない事を回答してしまっているのかも少しは気にしようかな~頭カキカキ(笑)いやしろよ!?スマン(反省修了)。 本は積ん読です。通勤時間が短縮したので(←言い訳だぁ)兎に角それでは質問者様にも申し訳ないと思い、パッションを以前観ました、昨夜「ジーザス」を観てみけど全然マルタは出て来ません。それに女子供に対する差別、女性の貞操観念って凄くあった酷い時代ですね。今こうして平和なのが不思議なくらい過去の人類は淘汰されています。でも酷い時代を乗り越え生き延びた子孫の私達が、それほど弱いはずがもうありません! それは今の男性が一番実感しているかな?(笑) >「見てから信じるトマス。見ないで信じるマルタ。」 ですが、「信じる」ことが大事だとおっしゃるイエスにの「おごり」を感じます。そんな不粋な私なのでございます。「信じる」については後日述べます。

  • kobarero
  • ベストアンサー率29% (106/361)
回答No.10

#6です。 どうやら、マルタも隅におけない重要人物だったみたいです。 キリスト教について調べていると、マルタとマリアの話は、意外に多く取り上げられているので、びっくりしています。昨日も、街を歩いていると、偶然、その名もズバリ「マルタとマリア」という本を発見してしまいました。 この本によると、初期キリスト教時代には、マルタはマリアと並んで非常に重要な役割をしたようです。ローマ教会が正統派としての地位を確立すると、女性蔑視の思想が定着して、マルタとマリアは格下げされてしまいますが、それまでは、男性使徒と同等か、場合によってはそれ以上の役割をしていたと見られていたようです。この本の特徴は、そのあたりの事情を、異端の聖書を中心に分析するのではなく、できるだけ正統派の聖書の中から読み取ろうとしています。そのため、少ない証拠物件から必死になって推理している感じです。 例えば、「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」(ヨハネ11-5)という箇所から、イエスとマルタ&マリアへの特別な関係を読み取り、「マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。」(ヨハネ11-19)から、マルタ&マリアが、当時のユダヤ人から信望を集めていたことを読み取り、また、「ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベアタニア出身で、ラザロといった。」(ヨハネ11-1)では、女性の名によって男性ラザロを説明するという聖書ではまれな方法なので、このことから、如何にマルタ&マリアが当時重要な役割を担っていたかを逆に推測するといった具合です。 まだ、読み始めたばかりなので、全体像がつかめていませんが、#5で回答させていただいた内容とはかなり異なった結論になりそうなので、あらかじめご連絡させていただきました。読み終わった段階で、あらためて、補足回答させていただこうかと思っていますが、読み終わるのに1週間くらいはかかりそうです。 なお、「マルタとマリア」は、エンタメ度ゼロ、くそ真面目の硬い本なので、よっぽどのオタク精神がない人には、お勧めではありません。特に、男女の愛については、ほとんど関心を示していませんので、「乞うご期待」では全然ありませんので、あらかじめご了承ください。ただ、私自身は、以前に質問したキリスト教に関する疑問の回答にも繋がり、大変興味のあるところです。 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1482803 

noname#31063
質問者

お礼

kobareroさん。再来ありがとうございます。お世話になります。嫌いにならないで欲しいのですが…まだダヴィンチコードの真実を3/4ぐらい読んだだけです。あ~情けない。 搭乗人物の名前がややこしくて(←外人は皆同じに見えるという人)苦心してます。もっとお待ち下さい(大汗)。 イエスがユダヤ人であったことや初期キリスト教はユダヤ教に近かったこと、って兄弟ケンカって感じですね。知の最高峰だった宗教も科学が発展すると異端化していくとは親子ケンカ。ついでに、個人的に別カテで質問出してます。現代の日本十字軍(医界)にも謎なんですが。「医師と患者の権限」 閉鎖的な社会では周囲からの評価認識が優位で、開放的な社会では注目認識が優位になるということを人類は猿の時から相互にやってきてるそう。それがもう価値観が多様化して収束不全になるとケンカ。 その「マルタとマリア」の感じで行くとマルタの方が強かなような~、女心は永遠に謎ですたい!(誰やねん) 話題が膨らんで面白いです。ありがとうございます。

  • flashprim
  • ベストアンサー率23% (51/218)
回答No.9

信仰>異性愛>師弟愛となります。イエスは異性愛や師弟愛を伝えていません。 ナザレのイエスは「福音」の言葉を発するために降臨されたのです。死ぬことも知っています。 恋愛は彼の計画に入っていません。 何よりも神を愛す信仰をもつ人間は大変少ないです。理解も出来ません。ですからこの部類は意識的に省いて話します。すなわち恋愛に結び付けて考えたいようですので恋愛の話をします。 この世で一番美しいのは恋愛愛です。すなわち結婚愛です。人に惹かれるというのはどういうことでしょうか。自己の心が打たれることです。自己の心が打たれ、その人の心に入りたい、融合したいという希求のもとでその人を求めます。その人の心には誇りと謙遜と畏れと、共に立つ夢と歓びがあふれます。万難(条件と低次的なプライドが傷つく恐れ)を排してその人に近づきます。 愛する人が傷つく振る舞いを大変畏れます。針先ほどでもゆるせません。かといって卑屈にはならず誇りが高いです。自己が相手を愛しているのかと疑ったり、確かめたりすることもありません。愛しているからです。男女の性差は関係ありません。相手を守ることが筆頭の思いです。二人の関係が周りの人々から与えられる祝福が似合うために社会性を大変重んじます。合う回数や距離は関係ありません。まず社会的責務を果たし、条件が合えば二人の時間を取ります。目に見える愛情表現はあまりしません。それより二人して家族、友人、知人対しての親切を心がけます。それらの共同あるいは単独の役立ちから二人の関係を確かめます。二人は愛で結ばれているため、プライドが高いのです。"男女愛のプライド"イコール"徳"です。それぞれ他の異性とも仲良く付き合います。ただ恋愛的に「良い」とは思わないだけです。片方が異性の友人を持たないと片方は心配します。自分が、二人の愛が、その人の人生を縛っているのではないかと。二人が「合わない」ことが分かれば潔く別れます。早いです。思い出しても心がゆれることないように忘れます。いつしかあるいは初めから人生を共に過ごしたいという欲求が生まれます。独りで生きていくほうが楽だと分かっています。しかし、双方が相手の苦労を余計に背負ってでも二人で暮らしたいと願うようになります。片方が納得できなければよく話し合います。子供は二人の愛の結実です。愛から生まれたものです。子供に溺愛はしません。子供が出来ると社会の子として、二人の子として育てます。ですから二人の愛的関係は変わりません。ですから子供は至上の愛を目の当たりにして育つのでまっとうな精神をはぐみつつ育ちます。 二人の心には片方の姿が常に存在します。どちらが自分でどれが相手なのかわからなくなります。愛する人が傷つく振る舞いを畏れる気持ちから自分の思いに大変気をつけるようになります。 他人が彼氏、彼女を持っているから、恋人を持ってないと罰が悪いから、かっこ悪いから、楽しくないから、性に興味があるから、食べさせて欲しいから、身の回りの世話をして欲しいから、社会人として認められないから、お金が欲しいから、寂しいから、電流が走ったから(性欲)、かっこいいから、かわいいから、困らせてやりたいから、子供が欲しいから、結婚するのが当然だから、無意識に異性を求めてしまうから、相手のいいところを学びたいから、これらは恋愛(結婚愛)ではありません。破綻します。目に見えての破綻がなくとも、時につれてこころは離れて相手を憎むようになります。表面は普通でも心の奥底で憎むというたぐいです。一番美しいもののはずが最下等の醜い部類に陥りる可能性があります。 恋愛は双方の心の属性によりその質が決定されます。後天的なものもありますが、先天的な属性がより決定します。金持ちが金を持たない者を相手にしないように、人間性に魅力あるものは無い者に興味を持ちません。恋愛を形成するのが困難だとも知っているからです。年頃になると恋愛に備えます。すなわち、男らしくなること、女らしくなることです。 普通の恋愛像をこれより導き出したわけではありませんが、トルストイの「アンナ・カレーニナ」を読むことをお薦めします。そしてキティーとレーヴィンを見てください。「マグダラのマリアと聖杯」と「ダ・ヴィンチ・コードの真実」というのを信じるよりは、小説ですが「このような恋愛像もありうるかもしれない」と信じるほうが、ずっと有益です。

noname#31063
質問者

お礼

flashprimさん。ありがとうございます。凄いです!大変学ぶところがありました。これは以外な(?)豊作でした。何度も読み直ししました。 私も平然と存在している訳ですが、flashprimさんや他の英知溢れる回答者の方々が平然と存在していて、縁があったということは奇跡なのでしょうか? 【神の愛は最高の知性】であることが理解できました。 私は愛について一日に何度となく考えるのです。愛は趣味なんです(笑)でもそれは私が愛を実践しているのではなく、愛を眺めて楽しんでいるのが好きなだけなんですけどね。愛された経験は少ないですし(号泣)。 >  信仰>異性愛>師弟愛となります。 これについては信仰のない私にはまだ実感ができません。 私が現時点で思う 人間の完全性から出来る唯一の愛は【母子愛】 だと思っていますので、神は性を超越した存在なのでしょうけれど、イエスはブッダに比べても男性的に見えます。そういうところの思慮が欠落しているのではないかと思えます。つまり男性は異性をどんなに愛しても完全体に帰属出来ない寂しい性があり、その羨望を父に向けるのかな?って想像しています。 遺伝には優性と劣勢がありますが、優性ばかりが役に立つのではなく、害がある有用でないとされていた遺伝子でも全体(種族~自然)にとっては一つの可能性として団体戦で存在しうるのであり、乗り合わせが良ければ無能者でもゴールするし、いくら全知全能の神であっても乗り合わせが良くなければ途中で挫折しうる。ということを神は身をもって知って証明したのだと思います。 >この世で一番美しいのは恋愛愛です。すなわち結婚愛です 太古では、恋愛=結婚で通用することに思いますが、情報が溢れ選択肢が無数に用意された現代に置いてはどうでしょう?結婚という概念も神が用意し人間に与えたものとは思いません。いや、何なら 結婚という契約をなくしてもらっても構わん! と思ってたりします。男女の徳と理想が重なり、社会の子を慈しみ立派に育てられ、みんなを守れるなら…遊牧民的発想ですが真剣に思ってます。 >トルストイの「アンナ・カレーニナ」の紹介ありがとうございます。是非拝読いたします。愛を知る為に…(←本当しつこい)読後感想も補足に入れますので、機会を見て覗いて下さいね。 ありがとうございました。

  • flashprim
  • ベストアンサー率23% (51/218)
回答No.8

マリアがイエスに香油をかけたということは主(神)を信じ、認証したこと、すなわち信仰を告白したことと同一なのです。「なによりも神を愛さなければならない」とイエスはうるさいほどに教えています。難しく考えてはいけません。そういうことです。

noname#31063
質問者

お礼

flashprimさん。ご回答ありがとうございます。難しく考えないのもありですね。 男女の愛よりも信仰(師弟愛)は深遠なものがあるかもしれません。なにより嫉妬や生活の心配もおこりません。信仰は愛よりも強く便利な(というのは適切でないようですが)絆のような気がしております。 イエスが罪を背負われた時、それを見守る二人のマリアや弟子達の気持ちってどうだったのかな~、想像も出来ないくらいです。 今夜中に「マグダラのマリアと聖杯」と「ダ・ヴィンチ・コードの真実」を読んでみますが、今信じていたいのは「イエスはマリアを寵愛した」であって欲しいな(ハーレクイーンロマンスっぽいですね)。

  • bender
  • ベストアンサー率45% (108/236)
回答No.7

『マリア は 良い 方を 選んだ』というイエスの言葉についていえば、質問された方の書いておられること(「家を守って…癒されていたいんだよ」)を読むと、「マリアは自分(イエス)にとって良い方を選んだ」とイエスが言ったように解釈されたということでしょうか。 イエスは先の言葉に続けて、『彼女からそれを取り上げてはいけません』(日本聖書刊行会新改訳聖書より)と言っているわけですから、イエスが意図した意味は、「マリアはマリアにとって良い方を選んだ」と考えた方が自然ではないかと感じました。というのも、仮にイエスが「癒されたい」のであったならば、「私からそれを取り上げてはいけません」と言うのではないかと考えたからです。 またイエスは、マリアは「良い方」を選んだとは言っていますが、マルタがしたことを「悪い」と言ったとは聖書に書いてありません。因みにマルタは聖書の他の箇所にもでてくるのですが(マルタとマリアの兄弟であるラザロが亡くなった場面(ヨハネによる福音書11章))、このときマルタは、イエスが神の子メシヤ(救世主)であると言った、と聖書に書いてあるので、マルタの家での出来事が、特に、誰が天国にいくかといった問題を扱っているようには私は感じませんでした。 ところでイエスは、例えば、水をぶどう酒に変えて(ヨハネによる福音書2章1-12節)、いくつかのパンや魚で数千人を満腹にした(ヨハネによる福音書6章1-15節、ルカによる福音書9章12-17節)と聖書にあるので、(それらの奇跡を個人的に信じるかどうかは別にして、聖書に一貫性があるとするならば)イエスがマルタの家で言った言葉の意味を考える上で彼が空腹であるかどうかが問題になるとは、むしろ考え難いように私は思います。 「ダ・ヴィンチ・コード」に関して言えば、アメリカではその内容の誤りについて指摘した本が何冊か出版され(例、参考URL。私はこの本を読んでいませんが、参考URLページでカスタマーレビューを読みました)、またその内容を検証するようなテレビ番組も放映されたようですが、これらの本の邦訳が日本で出版されることはないのではないでしょうか、日本では「ダ・ヴィンチ・コード」的に面白くないと売れないのかもしれないし。いずれにせよ、片一方の情報しか日本に伝わってこない状況というのは残念なことだと思います。 以下のサイトにも「ダ・ヴィンチ・コード」の内容を検証する本がリストアップされているようです。 http://www.greek-language.com/davinci/bibliography.html 私は、以上のリストの一番目の本の著者である大学教授がインタビューに答えている記事を以下のサイトで斜めに読みました。 http://www.beliefnet.com/story/167/story_16783_1.html

参考URL:
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/1586170341/249-7444510-4972361
noname#31063
質問者

お礼

benderさん。ありがとうございます。流石gooです!色んな方向性・見解が知れて、改めて質問を出して良かったと思いました。普段は自分で調べることが好きですし、検索すれば聖書もザクザク出てくるのですが(失笑)個人では興味の範囲を越えれなく、人的協力で色んな見解が知れたことは参考以上な可能性の模索に浮かれてしまうのですが、感謝感謝でございます。しかし、本当に紹介して頂いた本の翻訳を心から待たれます・・。 私としてはイエスとマリアが愛で(←しつこい)結ばれていて欲しいです!でもその後の世界を大きく変える一つのきっかけとして自然な選択をしたマリアと意識的に親しみを訴えたマルタのどちらもその時は、イエスは平等な接し方をしてくれていたと思います。

  • kobarero
  • ベストアンサー率29% (106/361)
回答No.6

#5です。 『 私の視点は薀蓄や暗号ではなく、【愛】なので(笑)いつ二人が出会い、どんな会話をし、性儀をし(笑)、..... 』ということでしたら、ティービングの書棚の本を一冊借りてくれば良かったのにと思います。「ダ・ヴィンチ・コード(下)p26」で、ソフイーが首をひねって見た3冊の本の1冊に「マグダラのマリアと聖杯」というのがあります。もし、借りるのが無理でしたら、7月に英知出版から翻訳が出ましたよ(まだ、売れると踏んだようです)。 イエスとマリアの出会いのこと、マルタに食事の準備をさせたが、実は内心後ろめたかったこと、「その夜、イエスはマリアを抱いた」こと、妊娠したこと、イエスの死体を譲り受けたアリマタヤのヨセフに守られてアレキサンドリアに亡命し、そこで、イエスの子を出産したこと、そのあと、子供を抱いてフランス(昔のガリア)へ渡り、やがて、イエスの血脈がメロヴィング朝に伝えられたことなどが書かれています。 性儀については、残念ながら詳しく書かれていませんが、関連事項はあります。マリアはイエスの頭から香油をぶっかけた(マルコ14-3)のですが、この行為は、当時の宗教的背景では、イエスが王であることを示す意味があり、政治的にかなり危険な行為だったようです。それはそれとして、この行為には、もう一つ性愛関係上の意味があります。それは、香油を、わざわざ頭からかけるという行為は、花嫁と花婿の結合をスムースにするため、男根の頭にかけることを暗示していたそうです。だから、ルカ7-38にように足に香油をかけるのと、マルコ14-3のように頭からかけるのでは、意味が違う見たいですね。 それから、レオナルドの話は、恐ろしい恐ろしい「異端」の話を抜きには考えれないと思います。イスラム教のような他宗教なら、これは異教ですが、異端というのは、あくまで同じキリスト教の中で正統派と称するグループから認められなかった宗派のことです。異端審問所の存在によって、非常に多くの異端者がバーベキューにされたり、股裂かれたということは、如何に根強い異端宗派があったかの裏返しでもあります。レオナルドは異端の思想を持っていたと思われています。恐らく、マグダラのマリアによるイエスの血脈の伝承も承知していたと思います。しかし、決して決して口に出すわけにはいかなかったのです。口に出せないが、なんとか後世に伝えたい、ウーンウーンと悩み、よしっ、絵の中に暗号として入れてしまえと考えた。レオナルドが、「最後の晩餐」や「岩窟の聖母」などの中に如何に異端の思想を隠し込んだかなどについては、ご興味があれば、「ダ・ヴィンチ・コードの真実」(竹書房)に載ってます。それにしても、最近、モナリザの顔を見ると、おじ様の顔が彷彿としてきてしまい、真面目に味わえなくなってしまいました。余計な知識も考えものですね。 異端の話は、マリアによる福音書とか、マグハマディ文書(1)とかが出てきて、だんだん明らかになって来たみたいですが、やはり、マグダラのマリアの地位の問題が大きいみたいですね。これは、即女性の地位の問題でもあります。キリスト教が正式にローマ帝国の国教として認められる以前の初期キリスト教では、マグダラのマリアを初め多くの女性が自ら福音の伝道を行い、教会の中でも司祭などの高い地位についていました。また、性愛に関しても男女の共生を賛美する古代ギリシャのおおらかさがありました。ところが、いわゆる正統派がその力をつけると同時に、女性の先祖はイヴであり、男性を堕落させるものであるという考え方や、性愛は抑圧すべきものだという思想がはびこってきました。聖書の中でも1コリ9-5では、奥さんと一緒に伝道していましたが、1デモ2-11になると、「婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません、むしろ静かにしているべきです」などと言い出す始末です。こう考えると、初期キリスト教が、もし、正統派になっていれば、今頃は、livedoorの社長は、堀江貴子で、日本の首相も野田聖子さんだったかも知れません。 マグダラのギリシャ語は、マドレーヌだそうです(2)。お菓子のマドレーヌもマグダラのマリアにちなんで付けられたという言い伝えもあります。また、マグダラのマリアによるイエスの血脈を引き継いだというメロヴィング朝は、パリを初めて首都に決めました(3)。今、我々がルイ・ヴィトン、エルメス、シャンネルの商品を買えるのも、元はと言えば、マグダラのマリアのお陰と思うと、やはり感謝感謝じゃないですか? やはり、「嘘は大きい程信じれる/ヒットラー」かな? (1)ナグハマディ文書 http://www.alpha-net.ne.jp/users2/gzmgzm/article/02/03.html (2)マドレーヌ http://www.doctormana.com/e/e_text66.html (3)ダ・ヴィンチ・コードを読み解く その5:イエスの子孫=メロヴィング朝? http://www.actv.ne.jp/~yappi/new-baksisi/nb06-davinchcode.htm

noname#31063
質問者

補足

凄いです!(感嘆・驚愕)。多大な資料と貴重なお時間を割いて頂けたことに感謝します。紹介して頂いた図書も即急に入手しなければと思い、補足にしました。 こんなに歴史が深いものとは・・。今ある平和の尊さって、先人の苦悩苦戦の歴史と、楽な隷属社会を選択した上で成り立っていたのですね。 それに「哲学カテにピッタンコな見解でしょ、実は深い哲学なのよ。私カテいい質問していた」ってkobareroさんの詳しい(ネタバレ)解説のお陰で思えてます。 努力を重ね偉くなった方の学問を固定化・区別化しようとする技量が私にはありません。常識にも諸手をあげて従えません。高校すらまともに出てません。なのに良いとこ取りしたいのです。 モナリザを自由に鑑賞できなくなってしまった知識も残念ではありますが、芸術とは、つまり執着の証明の他何物にもなり得ない訳で、知識を得るのも、鑑賞する側からしたら迷惑なものかもですね。 そういった意味(意味不明)でドラクロアの「民衆を導く自由の女神」を彷彿させるのですが、あの絵も謎が・・もしかしてマダグラのマリアなのかもと勝手に思い始めているのですが。 知識は歴史・科学・宗教・芸術全て人間活動を示す手がかりではないでしょうか?それが統計・実験で証明され完結したものなら学問の進退はなくなります。思考錯誤する学問の体系から外れた哲学だと思うので哲学のカテに質問をしました。 「バカは都合の良いほうに解釈する異端な才能である/ミコ」(笑) 紹介された図書は一見の価値ありですね。【愛】を知るためなら惜しくないです。なぜ、私が愛に拘っているかは、愛というものが能力なのか目的なのか過程なのか、それとも物質主義なのかを人生のテーマにしているからです。 マリアの愛は、マルタの善より神に受け入れられた。愛か善か?能力と目的、どちらが世界を導くのか? これは哲学でしょ?

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