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不可知論
知りえない わからない 想像もつかない 単語として流布してはいるものの、その単語が指し示す内容が、その存在を否定している単語について、不思議だとずっと思い悩んでます。 「共感」と言う言葉に共感できず、「不可知」という言葉に共感を覚えます。 しかしながら妙な感覚です。「不可知」の対象に対して「知」っているからこそ、「不可知」と判断しているわけですが、そもそも「不可知」と言う判断はありえないのではないのか?と思い悩んでおります。 知りえないものを認識、思考の対象とする「不可知論」はロジックエラーではないのか? もしくは、単純に、言語として準備されていない対象も数多くこの世には存在しているのだ、というのが「不可知論」の中軸なのでしょうか?
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- kigurumi
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>しかしながら妙な感覚です。 >「不可知」の対象に対して「知」っているからこそ、「不可知」と判断しているわけですが、 言葉のアヤみたいなもんです。 童話でこんな物語があった。 ある人はある地域にいってボコボコにされた。 ボコボコにした相手に名前を聞くと、相手は「俺はNobodyだ」って言ったんです。 で、自分の集団に戻り、まわりから「誰にやられた」って聞かれて、「Nobody did」って言ったんです。 nobodyがやった=誰にもやられてない。 ボコボコにした人は確かにいるのだが、名前が名前だけに、存在しないことになっちゃう。 で、不可知論者は、100%わからないとしてはいないんです。 最低限神とは全くの善だ と定義している。 だけど 人間が神というものはどんなものか、ほとんど知らないってしているんです。 存在はしていると信じるが、どんなものかはほとんどわからない そう考えるのが不可知論者。 ゲド戦記に「真の名」って概念が出てきます。 この世界で、人は通り名を使っている。 ゲドは真の名で、それを知っているのはわずかで、他の人は通り名のハイタカと彼を呼ぶ。 ゲドは魔法学校で名前をつけるってことを教わるわけです。 対象の本質を研究して見抜くことで、本質の名前をつけることができる。 ゲドに真の名を与えた大賢者は、ゲドの本質を見抜き、ゲドの本質を表すゲドって名前をつけたわけです。 で、魔法学校を卒業したゲドは、寂れた町で働くことになり、その町を竜が襲っているので、退治することになったわけです。 でも、竜の真の名がわからないので、魔法が効かない。 それで調べて竜の真の名を探り当て、その名前を言った途端、竜はおとなしくなる。 ゲドが竜の全てを知ったとわかったから。 日本も古代 そういう概念があった。 遠山金四郎は 真の名が景元、通り名が金四郎。 親と彼が信頼しきっている人しか、彼の本名が景元だとは知らない。 ユダヤ教・イスラム教・キリスト教の信者は神の真(まこと)の名を知らない。 古代ユダヤでは7年に一度、神の真の名を後継者に口伝で継承していたそうです。 エルサレム神殿がローマにより破壊されて、祭司がいなくなったので、その後も誰かによって継承され続けているのかは知りませんが。 でも 信者が神の真の名を知らないってのは、いいことなわけです。 信者が神の真の名を知ってしまったら、神を支配下にできてしまうので。 ゆえに 古代バビロニアでは神を示すとき、我が主って意味のエルを神を呼んでいたわけです。 神の本名じゃないので、みだりに「エル エル レマ サバクタニ」って公の場で言ってもよかったわけです。 というわけで、信者は神がどんなものか99%は知らないが、1%だけはわかっているとしている。 その1%が神は存在しているってことと神は100%正義だってこと。 で、神は存在しているのなら、どんなものか言ってみろ というと、「人間では到底把握しきれないので、存在している以外人間は知ることができません。」ってなるわけです。 で、結局「つまりあなたは自分が信じているものが、なんなのかわからないってことですね」ってなるわけです。 で、ゲド戦記の戻って、ゲドは自分を脅かし存在を関知したのですが、困ったことにその名前がわからなかった。 何かいるのはわかるが、それが何なのかわからなかった。 自分を脅かす対象の名前がわからない。 でも存在ははっきりわかっていたので、対決することにしたんです。 ところが、対象とすべき相手の名前がわからない。 つまり つかみどころの無いものなので、どっちに向かって奴と対決すればいいのかわからなかった。 でも 奴は必ずまた現れるはずだ と旅をつづけ、奴の存在をひしひしと関知するまでになった。 近くにいる。 そしてゲドはついに自分を脅かす奴の真の名がわかったんです。 魔法の杖を置き、両手で奴を抱きしめ、奴の真の名を言った。 ゲド と。 自分の全てを知ったってことです。 不可知論者が追い求めているものの真の名・正体も同じ。
- cyototu
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#1さんの解説によると不可知論は西洋語の翻訳語であるとか。もしそれが正しいなら、西洋人の世界観をご自分の頭でコピーしてからではないと、その意味は判らないと思います。 ただし、この言葉を漢字に直した後では、西洋人の元の意味とは違った概念も包含していると受けとれられても、文句言えないと思います。そしてその漢字の意味から、顕密の密とも受け取られます。西洋かぶれした世界観の偏見と独断から脱却する意味でも、顕教に対立する概念としての密教の意味から不可知論と密との関係を質問者さん自身がを分析することをお勧め致します。
お礼
言葉、思考の限界を定めるのに不可知論を考察するのは有意義だと思いました。 言葉遊びにならないよう心がけたいと思います。 ありがとうございました。
- 雪中庵(@psytex)
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論理学における不完全性定理、 物理学における不確定性原理において、 決定論的な客観的存在は否定された。 (完全な公理系は無矛盾ではあり得ない、 あるいは存在の有する相補的不確定性の 決定化は無=無限不確定に還元する) 原理的な確定=本質的な因果律が存在しない事は、 物理学的な状態Aが、Bに変化する確率は、そのAが Bになる複数のプロセスの全てを足したものとなる事から、 明らかである(=経路積分)。 それは、ミクロなレベルの話だけではなく、2本のスリットを 通してその向こうのスクリーンに電子を飛ばした場合、1個 単位で電子を飛ばしても、スクリーンに次第に描かれるのは、 2本の帯ではなく、干渉縞模様である事にも表れている。 即ち、スクリーンに1つずつ消えていく電子が、それ以前に 消えていった電子の場所を覚えていて、皆で協力しているか、 1個の電子が、2つのスリットをそれぞれ通った可能性同士が 干渉しているか、である。 「可知性」は、存在の原理的本質としての確率的実体の集合に おいて、そうした確率波動が相殺された上に成る=階層現象の 表面的定性化=いい加減な認識によって生じた幻想なのだ。 (存在とは、そこに無いとは分からない事) 一般的に「存在」とは、確定的実体が基本で、認識体との 相対に於いて不確定性を“派生”させると思われており、 そこに偶然と必然の論議が成り立つのであって、逆に 不確定的実体の方が本質で、認識体のテキトーさによって 確定性が派生する時、その“確定性”の上に立つ議論に、 本質的意味はない。
そのものの存在は認識できるがそれがどういうものかはわからないということはあるのではないでしょうか。ブラックボックスという言葉がありますが、暗闇そのものが不可知論の対象になるように思います。暗闇が存在することはわかるが、その正体を知ろうと明るくすると暗闇はどこかへ行ってしまいます。自我意識も同じではないでしょうか。
お礼
分かりやすくたとえ話を混ぜていただきありがとうございました。
不可知論のパラドクスの一番大きな意味は、 独断的な形而上学に対する批判つまり宗教批判であると同時に信仰の世界に道を開くものであるということです。 >もしくは、単純に、言語として準備されていない対象も数多くこの世には存在しているのだ、というのが「不可知論」の中軸なのでしょうか? 客観的本質的な実在に関してこれを単なる言葉に過ぎないとして、それの存在を絶対的に否定する極端な立場と、それは認識不可能ではあっても想定することは可能であるとする二通りの立場があります。 この回答の真偽も不可知ということで。
お礼
行き過ぎた独断論の袋小路にはまってます。 あるのにない。 ないのにある。 まぁ、薮の中なのでしょうね。本当のことってヤツは。 すっきりしないのですが、それも一つの正解なのでしょう。 グレーな結論に対してはロジックは有効ではないようです。 ありがとうございました。
- umasimaji
- ベストアンサー率30% (6/20)
不可知の言葉の意味からいうと、知ルベカラズ。 知ってはならない、あるいは、知るべきでない。 知っていることを世に広めるな、といった意味ですね。 知りえない物といえば、単純に考えると、不得知、とか、不能知になるはず。 言葉の使い方も、結構矛盾を含んでますね。
お礼
そうなんですよね。 矛盾含みまくってます。 それを揶揄するわけではまったくないのです。 そんなもんだと、心得てます。 知りえないよね、ってゆうのがとどのつまり共通の見解になってしまうのもなんだか切ないんですが。 鶴の恩返しの話を思い出しました。 ありがとうございました。
- mintarou1
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wikiによると 不可知論(ふかちろん、英: agnosticism)は、形而上の存在、死後の世界、神の存在、神のお告げなど、神学に関する命題の真偽、また客観的本質的な実存は本質的に認識することが不可能である、とする宗教的、あるいは哲学的な立場をいう。 ということで、質問者の言うように、 >対象に対して「知」っているからこそ ではなく、「客観的本質的な実存は本質的に認識することが不可能である」って書いていますね。 つまり、イメージとして、言葉として知っていても、実存の認識が不可能とする立場なので、意味が全く違いますね。 ロジックエラーではないと思います。
お礼
もっともらしい前提 と もっともらしい推論 から パラドクスは生じる。 不可知論の対象の多くはそもそもそういうパラドクス、ロジックが生み出したキマイラと私には映ります。それらはそもそも発見されたものではない、と。 興味深いのは、論理・計算式は間違っていない(ロジックエラーではない)のだが、訳のわかんないもの、途方もないものが生じることがある、ということ。そして、なぜかわからないけど、不可知であることが、もっともな論理・計算式でたどってゆくと、理解が可能であることです。 そしてもう一度、「不可知」を対象として論理に照らし合わせると、そのロジック自体の危うさが浮かび上がってくるのです。 ロジック上で展開されている計算式の真偽を測る、別の計算式は登場せず、不可知であると認定されている、という前提から思考を展開しても、不可知である、と言う結論しか出ないんですよね。 そういうもんなんでしょうね。ありがとうございました。
お礼
言葉、思考の限界を定めるのに不可知論を考察するのは有意義だと思いました。 言葉遊びにならないよう心がけたいと思います。 ありがとうございました。