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何のために勉強するのでしょうか?
人間生きていくために最低限の読み書き、常識などを学ぶことは必要だと思います。 でもそれ以上の事柄について、いったい何のために勉強するのでしょうか? 理由を教えてください。
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質問者が選んだベストアンサー
勉強にもいろいろあると想うんですが、学校で習うような虚学と、自分から積極的に学んでいく実学とあると想うんです。 「虚学」についてはいうまでもないと想うんですが、「実学」とは、喩えば、この質問も、質問者さまにとっての実学になると想うんです。 「なんでだろう?」とか「どうすればいいんだろう?」とういう心の働きが伴ったときに、人間には「志」というのが生まれると想うんです。 本当の勉強とは、純粋に、その「志」に従っていくだけであって、全ては自分のための勉強になるんだと想います。 そうして、志のままに進んでいって勉強したことが自分の身になれば、人は”それに成ってしまう”生き物なんです。 例えば、パンに興味があったら、その人はパン屋さんに”成ってしまう”んです。 ジャンボジェット機の構造を理解した人は、ジャンボ機を機能させることが出来る人に”成ってしまう”んです。 人は、何かを「理解すると機能する」特性を持った生き物なんです。 これが、人間が勉強する理由だと想います。 だから極端な話、人間は放っておいても、自然に勉強を始めるんです。 友達もいない、彼女もいない、趣味も、やる気もない・・・という人でも、「どうすれば自分は直るのかな~?」「なんで俺はこうなんだろう?」とか「どうすれば、みんなのように成れるのかな~?」と自然と考えだすんです。(放っておいても) そうすると、そこに自然と「志」が生まれますので、何らかの学びがあって理解があって、何らかの存在として機能しはじめるんです。(もちろん罪人になる場合だってあると想います) ・・と、長蛇乱文になりましたが、いずれにしても”機能するため”に勉強するのだと想います。
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こんにちは。 わたしは「偉くなる為に勉強せい」といわれましたが、 このざまです。
お礼
わたしもです。
- delta245
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興味と意見のつきない問題ですね。 何をもって"学ぶ"とするかで意見が変わりますね。 言葉を"知らない知識を新たに覚える"に変えての意見ですが。 全体像の一面ですが、生存し続けるための選択肢を増やすためでもあると思います。 極端な例ですが。 例えば飛行機が墜落したとします。運良く生き残りましたが生存者は自分だけ。幸いにも機内にあった水食料が発見できました。しかし捜索隊も来ず3日が経過した。水食料がつきるのは時間の問題。 この状況で生きていくには、何を学習してきたか(何が出来るか)が重要です。野生動物に比べるて脆弱な人間の身体。生きていくには体力もさる事ながら何を学んだかで差がでるでしょう。 水の確保。食べられる植物の見分け方。動物の捕まえ方。捕まえた動物の食べ方。問題もおこるでしょう。骨折してしまった。蛇にかまれた。長期間なら摂取する栄養分と補給すべき動植物も考えなくては・・・・。 学校の勉強に置き換えても家庭科から医療まで様々な知識が必要ですね。それどころかテレビを見て覚えていた知識が役にたつかも。。 こう考えると、生活すべてが勉強であり、また勉強する必要もありますね。
お礼
生活が全て勉強なんですね。
- baihu
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先のお礼欄に「大人の場合は」とありましたので、いわゆる学生ではない人の勉強のことなのでしょうか。この場合は比較的明確なのではないかと思います。何かについてほとんど知らなくて困っているとか、自分が今後やりたいことのために身に付けなければならない知識があるとか、そうやって勉強(学習)することがほとんどだと思います。先に「何のために」があるので、これは問題ないのでしょうね。自動車の運転が仕事で必要になるから、免許を取る勉強をするなど、資格の勉強ではそういうことがはっきりします。 学生なら、目的が定まらない状態で勉強をしているため、「いいから黙ってやってみろよ。後でやっててよかったって思うから」になるわけですね。例えば英語の勉強。最初はほとんど暗記でイヤになる学生が多いでしょうが、しばらく勉強し、それを使ってコミュニケーションが取れたり、かっこいい発音で好きなミュージシャンの歌が歌えたりして、ようやく達成感や喜びが出てきて、自発的にもっと深く学びたくなるものです。勿論人によります。ある人は数学かもしれないし、絵画かもしれない。経済学かも、古典かも、生物学かも、家政学かも。ある程度基礎が身に付くまで、自分に向いているとか、興味が湧いてくるとか、分からないことが多いのです。どこが光るか分からないから、いろいろな角度で磨いてみるわけです。「当たればめっけもん」でいいんだと思いますよ、学生時代の勉強は(笑) 上のように、先人に強いられて勉めて(努力して/頑張って)やるうちは“勉強”なのかもしれませんが、興味が出てきて知りたくて堪らなくなってくると、もうそれは嫌々やるような要素はなくなってしまいます。
お礼
とても参考になりました。 ありがとうございます。
- reny
- ベストアンサー率32% (81/252)
何をもって最低限とするのかで「学ぶ」ことの限界は違ってきます。 なぜ「学ぶ」のかは、個人個人の考え方によるので千差万別でしょうが、「学ぶ」対象には、「知識」「技術(=テクニック)」「考え方(=生き方」があります。 小中高の学校で教えてくれるのは「知識」が中心でしょう。 「技術(=テクニック)」は、本人が望む形で自動車の専門学校や美容学校に行けば得られるでしょうし、大学受験テクニックが欲しければ予備校や塾に行けば得られるでしょう。 「考え方(=生き方)」は人に出会い、その人から吸収するしかありませんが、直接でなく、歴史や書物に接し吸収することも出来ます。意識しないで影響を受けてしまっている場合もあります(両親や先生、先輩、職場の理想的な上司などから)。 人はコミュニケーションをとりながら社会生活を営んでいます。自分が所属する社会は、家庭や職場、同好の集まり、また専門的知識を必要とする集まり(会社の技術部門や学会、宗教団体など)など様々です。 これらの社会で生活する上では、最低限の共通する「知識」や「技術」「考え方」が求められます。学校で教えてくれる「最低限の読み書き・常識」では対応できません。あらためて「学ぶ」必要が出てきます。 自分がこうした社会の中で、どういうポジションでいたいと思うか、と言う自発的な意欲によって「学ば」なければならないレベルは異なってきます。そう言う意味で、なぜ「学ぶ」のかと言う客観的な理由付けは、小中高生への説教以外に意味がありません。 自分が持っている知識やテクニック、考え方が、これ以上増やす必要がない、進歩させる必要がないと思えば、そこで立ち止まればいいのです。立ち止まることによって、あなたの社会での位置付けは固定されます。あなたの所属する社会が壊れない限り、またあなたのポジションに他の人が交代で現れない限り、ですが。 ぼくに関しては、「学ぶ」ことによって日々変化する家庭や仕事、趣味の繋がりの中で、常に必要とされる存在でありつづけたい、と言う思いと、単純に「学ぶ」ことで得られる新鮮な驚きに出会えることが、原動力になっています。
お礼
ありがとうございます。 必要にせままれればおのずと学ぶ必要が出るということですね。
心をより豊かにして、煩悩を取り除く真実の知恵により近づくためです。 新鮮な知識は脳のための良い刺激でもありまして、そのうちに知ることの喜びも解るようになると思いますよ。
お礼
回答ありがとうございます。 勉強すること=知ること⇒喜び ですね。。
- 8942
- ベストアンサー率13% (188/1414)
脳が要求してくるんだと思います。 脳はつまらない事が嫌いです。 常に何か刺激を要求してきます。 その要求に応える一つの手段が勉強だと思っています。
お礼
なるほど。 そういう考え方もあるんですね。
- kobarero
- ベストアンサー率29% (106/361)
#15です。 >自己実現ってどんなことを言うのですか? イチローが子供の頃から野球で切磋琢磨して、世界のイチローになったのは、自己実現のわかりやすい例です。スポーツに限らず、自分の中にある「夢」を育てて、社会の中で役立てていくのが自己実現です。
お礼
何回もご説明ありがとうございます。
- kobarero
- ベストアンサー率29% (106/361)
#2です。 >「社会に貢献すること」の必要性は何なんでしょうか? 自分が一番生かされるのは、社会の役に立っているときだからです。また、「自己実現」と「社会の役に立つ」ことは表裏一体だからです。
お礼
回答ありがとうございます。 ちょっと言葉が難しいのですが、 自己実現ってどんなことを言うのですか?
- hakobulu
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「論理的思考を養う為」 物事を正しく理解するには、論理性が不可欠です。 「正しい勉強」は単なる知識の暗記ではなく、あくまでその過程を重視します。 論理的思考の訓練をしている事になります。 知識はあくまで副産物です。 なぜ論理的思考が必要か? 他者を理解(広義的に)し、人としての関係を円滑に保つためです。 それと同時に、出所定まらぬ、この人間という生き物の、 可能性を追求する為に必要だからでもあります。
お礼
回答ありがとうございます。 理系の科目は論理的思考を養えそうですね。
- kaitaradou
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現在では想像できませんが数十年前に日本はアメリカと戦争をして大敗し生活ががたいへん苦しくなりました。食事などもお米が食べられれば大喜びでした。誰も、いつも空腹でサツマイモとかカボチャなどを自分の庭で作っている人もたくさんいました。栄養が十分とれないために病気になる人もたくさんいました。現在ではこのような生活に耐えられる人はほとんどいないのではないでしょうか。栄養が十分というだけでは満足できなくて、おいしいものとか珍しいものもなければ辛くてしょうがないと思います。必要最小限の勉強だけでよいというのは、栄養が足りていればまずい食事でも平気というような感じです。つまり勉強の粗食に耐えられひとは、それ以上勉強をしなければ勉強の糖尿病にもならないるので余計な勉強は無駄どころか悪いことになってしまいます。必要を感じない限り勉強をする必要はないと思います。
お礼
回答ありがとうございます。 勉強は無理してするものではないということですね。
お礼
よくわかりました。 ありがとうございます。