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人間の行動について考えを教えてください。

人間の行動:Human Behaviorは主に遺伝子:One's genes、環境(教育):Upbringing、自由意志:Free Willのどれに影響されていると思いますか?理由を書ける人は書いていただければうれしいです。みんなの意見を聞かせてください。

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  • ruehas
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回答No.4

こんにちは。 たいへん興味深い問題ですね。 私は、人間の「行動選択」の本質的な基準は「本能」であると思います。 階層的には、理性とは本能を媒体にして構築されたものであり、その目的を補助するためのものです。そして、その目的に対して、自由意思というものは何の意味も持ちません。 全ての生物にとって「行動の動機」とは「欲求の実現」です。 主体にとって何が欲求であるかは、価値観という判断基準によって決定されます。そして行動とは、その価値観に基いて発生する欲求を実現するために選択されます。従って、全ての行動は主体の持つ価値観によって選択されているということになります。 我々の人間の行動選択には、「本能」と「理性」の二通りの判断基準があります。このふたつを、各々「本能の価値観」「理性の価値観」と位置付けることができます。 「本能の価値観」とは、遺伝子にプログラムされた、主に自律神経系の「反応基準」です。生まれる前から決まっていたものであり、与えられた入力に対して必ず定められた結果を出力します。もちろん、生物が生きるため、子孫を残すために最低限必要なものですから、自分の意思で変更することはできません。この価値観によって「食欲」や「性欲」といった欲求が発生しますので、我々はそれを実現するために行動を選択しなければなりません。 それに対して、「理性の価値観」というのは生まれる前から決まっていたものではありません。それは生後の生活環境の影響を受けて後から作られたもので、こちらは変更が可能ですし、個人によって違いがあります。 本能のように予め定められた結果だけを出力するのではなく、生後の体験や記憶によって脳内に作られた新な神経結合の反応です。大脳新皮質など高次中枢が複雑な処理を行なうことによって、我々は状況に応じた多彩な行動を選択することができるようになります。 個人の体験や記憶によって学習されたものを「個人的価値観」、生まれた社会の慣習に従うものを「文化的価値観」と言いますよね。このような価値観によって、より豊かな生活がしたいとか、有名になりたいとか、世の中の役に立ちたいとか、人間には様々な、また複雑な欲求が生まれます。我々は、その欲求を実現するために行動を選択しています。 このように、我々人間には価値観がふたつあります。そのため、ふたつは互いに深く絡み合いながら人間の行動選択に複雑な影響を及ぼしています。因みに、本能と理性、このふたつの判断の食い違いを、大脳を発達させてしまった人類の苦悩、即ち「悩み」と言いますね。 人間にはふたつの価値観があり、それが行動選択に直接関与しています。ここで、残った自由意思の取扱いというものがたいへん面倒になってきます。 まず、このような価値観に基く行動選択に自由はありません。 如何なる場合も、我々は自分にとって不利益な行動を選択することはできません。ある価値観を持った時点で、自分にとって何が利益であり、何が不利益なのかは既に決定してしまっています。価値観とはそういうものですよね。 本能の価値判断は言うに及ばず、ひとたび価値観というものを持ってしまったならば、我々はそれに反する結果を選択することはありません。YESかNOかの内、常にYESしか選択できないというのですから、そこに自由意思はないということになります。行動というものが価値観に従って選択されている限り、自分の人生に自由意思が反映することはないわけです。 行動選択に自由意思が反映しないのは、それは、我々が価値観によって定められた結果に対して選択の自由を持っていないからですね。では、行動選択に自由意思を反映し、自分の意思で生きるためにはどうしたら良いのでしょうか。 我々は、価値観に基く判断をYESからNOに変更することはできません。ならば、価値観の方を変更すれば良いということになります。自分の意思で価値観を選択することができるならば、それに基く行動選択には自分の意思が反映されているということになりますよね。本能の方の価値観は変更できませんが、理性の価値観は幾らでも変更が可能です。我々は、価値観を選択することによって行動選択に自由意思を反映させることができるわけです。 ですが、ここで更に問題が生じます。果たして我々は、本当に自分の意思で価値観を選択することができるのでしょうか。これができなければ、我々に自由意思はないということになります。 価値観を選択することによって、我々はその結果である行動を選択することができます。そして、より良い行動選択を実現するためには、より良い価値観を持たなければなりません。 では、その「より良い」とは、いったい何を基準にしているのでしょうか。それは、自分にとって価値の高いということでしょうか、それとも、その社会で認められている価値判断なんでしょうか。 このように、価値観には絶対的な基準というものがありません。そして、我々が自分の意思で価値観を選択するにしても、やはりそのための基準というものがどうしても必要になります。その判断基準が、個人的な欲求や社会の慣習に従うものであるならば、我々は価値観を持つのではなく、持たされているということになってしまいます。 結局、我々は自分の欲求や周りの出来事に捕らわれた行動選択しかできないわけですね。因みに仏教では、俗世のあらゆる未練、即ち、全ての煩悩を絶ち切らなければ自由意思は存在し得ないとされています。 では、絶対的な価値観とはいったい何でしょう。 ここでは、お釈迦様が悟りによって得た絶対的な価値観とは全く話は違うのですが、取り敢えず、変更できないという意味では、本能は絶対的なものということができるのではないかと思います。 先に述べましたが、我々が価値観を選択するためには、そのための価値観がまた必要になります。我々の価値観は、生後の様々な体験が蓄積されて獲得されたものです。体験とは行動の結果であり、その行動も価値観によって選択されたものですよね。では、自分の価値観を作り上げた幾つもの体験を遡ってゆくならば、その行動選択の基となる最初の価値観とはいったい何だったのでしょうか。 これによって、先ほどの、人間の理性は様々な行動の選択が可能であるにも拘わらず、何故、自分にとって不利益な結果を選択することができないのか、という問題に説明が付きます。それはつまり、人間の理性に於ける価値観が、もとは本能を基準にして獲得されたものであるからです。本能は生まれたときからそこにあり、それは変更することのできない絶対的な基準となります。 行動選択の動機は欲求の実現ですが、最終的には「生きる」という目的に集約されます。 言うまでもなく、本能の価値観というのは、正に生命の維持と種の存続という目的のために定められたものです。ですから、それは極めて単純であり、本能はそれ以外の行動を選択することはありません。 それに対し、人間の理性はたいへん複雑な反応を示します。それによって、我々はそのときの状況に応じた多彩な行動を選択することが可能になります。その点では、人間の行動選択には理性が最も大きく影響していると言えるかもしれません。 理性は本能に対して高次なものであり、本能を抑制し、コントロールできるとされています。我々が行動選択そのものを認識できるのも、理性があってこそですよね。ですが、それと共に、理性は本能を効率良く実現するという役割も担っています。 幾ら本能を抑制できるからといって、人間が大脳の中に理性を宿したのは、わざわざ自分を飢え死にさせたり、子孫を根絶やしにしたりするためではありませんよね。それは、本能にはできない、状況に応じた柔軟な行動選択を行なうことによって、より有利に生き残るためです。 つまり理性とは、絶対的な価値観である本能の実現を補助するために獲得された人間の能力ということになります。ですから、その判断の基準は飽くまでも本能に順ずるものであり、幾ら大脳が複雑な処理を行なったとしても、「生きる」という行動選択の目的そのものを変更することはできません。何故ならば、それは本能を基準にして作られたものだからですね。 従って、人間の行動選択の本質的な基準とは「本能」であり、理性とは、その目的をより有利に実現するために、本能を媒体として獲得された人間の能力ということになります。そして、この「生きる」という目的に対して、自由意思というものが反映する余地は全くなくなってしまいます。 さて、長くなってしまってたいへん申し訳ないのですが、私は決して自由意思の存在を否定しているわけではないんです。ここから先は蛇足です。 上手く説明できないのですが、まず、本能の価値判断に意思は介在できません。そして、人間の理性が様々な意思決定を行うにしても、それは価値観に順ずるものです。他人の意見に従うか、自分の意思を押し通すかはもちろん自由です。ですが、それも何かの判断基準を運用した結果に他なりません。このように考えますと、自由意思が行動選択に関与する余地がなくなってしまうんです。 もしかしたら、上記のような理性のフレキシブルな価値判断を自由意思と呼ぶのかも知れませんが、ここから先は自由意思の解釈の問題になってしまいます。 量子力学では、未来が未確定であるという前提に基いて自由意思の存在は許されるとされています。未来が未確定であるならば、意思決定の結果は未来に反映します。未来が既に運命的に決定されているのであれば、人間の意思決定は全く意味を持ちません。 本来、自由とは得るものではなく、与えられるものです。全ての意思決定が価値観に従うものであっても、それが、未確定な未来に新たな結果を選択していることだけは間違いありません。意思決定によって産み出される結果は偶然ではあるにせよ、運命によって束縛されているというわけではありません。人間の自由意思は、未来の不確定性によって保証されています。 このように、私は自由意思とは、我々が保持しているのではなく、与えられているものたと考えます。そして、それは恐らく理性の範疇にあるものです。 では、我々が自由意思を行使するためには、理性が本能を抑制できるのと同様に、自分自身で理性をコントロールすることができれば良いわけです。ただ、そのためには自由意思は理性の外に独立していなければなりません。そのようなものが実際にあるのだとするならば、もしかしたら、お釈迦様の理論も覆されることになるかも知れませんね。ですが、このような「自己意識の存在」は、確か現在の心理学や脳医学でも未解決問題になっているはずだったと思います。

risausa
質問者

お礼

ご丁寧にありがとうございました。私の探していた答えがそのまま返ってきたのでとてもびっくりしています。確かに量子力学では自由意志の存在は許されていますよね。ですが、最終的に自由意志は脳内でエネルギー保存則を破るのは不可能ではないでしょうか。。。自由意志の存在を私はどうしても理解できません(×_×)価値観についての言及、すごく興味深かったです。大変参考になりました、そしてこれからも参考にさせていただくつもりです。本当にありがとうございました。

その他の回答 (3)

  • monti55
  • ベストアンサー率12% (2/16)
回答No.3

人間の行動は、私の考えだと、その三つによって成り立っていると思います。 それは、環境によって経験がここの経験が蓄積されそして「自由意志」は「自由」だけれど嫌でも「経験」が影響してしまうのは確かです。この場合の「経験」は「読書から得た思想」も自分の体の中では「経験」とすることもできると思います。(架空の出来事を疑似体験してしまう、ていうようなものです)。 そして、遺伝子は、確証はないけれど何かの本で「殺人者に共通した遺伝子がある」ていうのを読んだことがあります。。(-_-; このとき私は心底「その遺伝子がなくて良かった~」とホっとしたものです(この先どうなるかはわからないけれど・汗)。 で、、これらを総合すると、私は『人間の行動は、遺伝子(感情レベル)、環境、自由意志、すべてによって脳が判断、指令し、行動する」となると思います。 それから本能的な部分もかかわってくると思いますが、これは「遺伝子」の枠に入るんでしょうか。。(謎

risausa
質問者

お礼

この場合の自由意志というのは何事にも影響されずに出る意志のことをいいます。自由意志は経験に左右されてはいけないのだと思いますが。。。私も自由意志の定義についてはあいまいでよくわかりません。確かに本能は私も賛成ですね。どうやってかかわってくるかとなるとまた難しいです。ご意見どうもありがとうございました。

  • souziki
  • ベストアンサー率24% (116/482)
回答No.2

No.1の方と被ってそうなんですけど、経験。 経験っていうと、今までしてきたこと、って感じもするけど、そういう体験でなくてもいいんじゃないかなぁと。 情報という言葉がしっくり来るのかなぁ。 例えば夜眠くなるのは大昔の習慣による『経験』 モノを買う時にお金が必要なのは体験による『経験』 もし、お金がない国だったら、そういう情報が無いわけですよ。だから、その『経験』がない。 バスカードを乗る時に通す。これは周囲の人がそうしている、という情報を元にして行動する。 ホントは思考力かな、なんて思ったんですけど、だったら思考する時の行動は何に影響されてるんだろう、って。 別に一つでなくてもいいのかなぁ。 遺伝子ときどき自由意志のち環境、というような。 お天気みたいに。 遺伝子はよくわかりませぬ。 そういう勉強はしたことがないので。 でも、もしかしたらそうなのかなぁ?

risausa
質問者

お礼

回答ありがとうございました。経験は確かに大事ですよね。ですがその経験を記憶し学ぶのは遺伝子です。脳の中のFrontal Lobes(すいません英語でしか勉強してないので日本語名がわかりません。)は感情や個性をつくる場所です。Cerebral Hemispheres(半大脳?)は記憶をする場所。そこでシナプスが結合して人間に行動を起こさせるのかとも思いましたが。。。難しいですね。回答どうもありがとうございました。

  • hachisu
  • ベストアンサー率45% (18/40)
回答No.1

こんにちは。 私は環境だと思います。 正確に言うと、環境と個人の相互作用ですね。 理由は、 人の行動は、環境によって左右されていると思うからです。 雨が降るから傘を差し、信号が赤になったから止まるのです。 行動を選択するのはその時の個人の考えかもしれないけれど、その行動の選択肢を作ったのは過去の経験だからです。 と言うのが私の考えです。 環境と経験によって人の行動は規定される、とまとめられますね。 遺伝子も自由意志も、重要な要素だとは思いますが。 (特に自由意志は)

risausa
質問者

お礼

ありがとうございます。確かに人間の行動に環境や教育は不可欠ですよね。経験とはまた新しい選択肢ですね。興味深いです。私は自由意志をいうのは信じていなくて遺伝子からすべて成り立っていると考えます。貴重な回答をいただきどうもありがとうございました。