• 締切済み

人の行動や思考は、決定論なのか?

まず、決定論とは。 よく誤解されますが、オカルではなく、推論の結果というものです。 Wikiより抜粋。 決定論(けっていろん、英: determinism, 拉: determinare)とは、あらゆる出来事は、その出来事に先行する出来事のみによって決定している、とする立場。 Wikiより抜粋終了。 つまり、全ての出来事は、それまでに、あったものの結果である、という事。 逆を言えば、起きた出来事(結果)は、そこに至る事象(原因)が必ずあり、過去(原因)が変えられないように、起きた出来事(結果)も、変えることが出来なかったということ。 人の行動も、その人の経験や教育、環境、遺伝の上で、常にその人が、その瞬間に、一番良いと思った行動を、選び続けるということ。 その他の選択肢は、あるように思えても、それは選びようのない選択か、それ以上に価値の高い選択があったので、選ぶことはなかったという事。 もちろん、決定論も、未来予知ができるとか、未来が存在しているということではまったくありませんし、(私は)自由意志というものは、一切否定していません。 みなさんは、決定論について、おそらく何度も回答しているとは思いますが、どう思っていますか?

みんなの回答

  • stmim
  • ベストアンサー率24% (57/236)
回答No.8

話が食い違っていますね。質問者さんと私とで決定論の内容が違うとことだろうか?私が言っているのは「ハードな決定論」なのですが、質問者さんは「ソフトな決定論」なのかな? 「特定の状況でなら、誰しも、犯罪を犯す。」という話は、決定論と関係ないように思います(犯罪心理学の話ですよね)。言えるのはAさんが特定の日時に殺人をした、これはAさんには避けることができなかったということだけです。他の人だったら、どうだったかは不明です。 そして、その後Aさんが再び犯罪をするかどうかは既に決定されています。 再教育するとか、しないとかは関係ないのです。 というか、Aさんが、再教育がされるかどうかも既に決まっています。 私の考える決定論は、自由意志の存在しない決定論なのですが、質問者さんは自由意志が存在する決定論のように思います。 違うものに同じ「決定論」と名付けて話しているから、噛み合わないのだと思います。自分からすると質問者さんは決定論と違うものを混ぜて語っているように思えます。 現在の刑法は自由意志を認めており、もし決定論で考えるなら、法律を大幅に変更しないといけなくなることは一致してますね。そんなことをしたら犯罪を抑制できるのかな?と思いますが、それは横道ですね。

noname#236874
質問者

お礼

個人的には、「自由意志や自由選択が厳しい」「決定論が優しい」と感じるのは、「犯罪被害者と、その家族」の立場を考えるときです。 犯罪被害者やその家族は、考えるでしょう。 もし、「犯人が違う選択をしていたら?」、「もし私が違う選択をしていたら」、「被害者にはならなかったのではないだろうか?」と。 起こり得なかった選択を悔やむことは、とてもつらいことだと考えます。 私はその立場を経験したので、特にそう思うのかもしれません。 なら、変えようもなかったのなら、諦めもつくのではないか?と考えることができるのではないか、と。 そして、同時に、犯罪を行った人にも、選択の自由がないとするのなら、許すことができるのではないか?と、考えるわけです。 ということが、私の根底にあるのですが・・・、まぁ、えらいひとたちが、論争しても、自由意志も決定論も仮説どまりなので、話し合えたことは、楽しかったです。 一応アクションを、待ちますが、自信の考えを煮詰めるためにも、長考にはいりますね。 とても勉強になりました。 ありがとうございました。

noname#236874
質問者

補足

私の方も、偉そうなことを言ったわりに、久しぶりに決定論について、深く考えたので、混乱しています。 また、誤解を招くような文章があったのも事実です。 そのへんは、申し訳ありません。 話を少し戻して、これについて。 決定論によると、Aさんがある特定の日時に殺人をすることは決まっており、それをどのようにしてもAさんには避けることができません。だとしたら、Aさんには、責任能力がないことになります。したがってAさんは無罪です。 要点をまとめると。 Aさんは、自由意志を持っている。 Aさんは、殺人をする。 自由意志を持ち、自由選択ができるAさんは、殺人を回避出来たのに、しなかった責任があるので、罪がある。 よって、Aさんは有罪。 決定論だと、 Aさんは、殺人を避けることが出来ない。 Aさんには、回避できたのに、しなかった責任は生まれない。 よって、Aさんは無罪。 で、良いですか? 私の考えも、ほとんど同じで、補足させていただくと。 Aさんは、自由意志という”主観”を持っている。 Aさんは、殺人をする。 Aさんは、殺人を避けることが出来ない。 Aさんには、回避できたのに、しなかった責任は生まれない。 よって、Aさん自身には罪はない。 しかし、犯罪行為によって生じた損害賠償やなぜ犯罪を犯したのか?というAさんに対しての、研究や教育、治療が必要になる。 また、所属する社会に対して、不利益を当てるものは、隔離される。 のが、理想的ではないか?ということです。 現行の法律の刑務所が、「その人の問題であり、その人の自由を奪い、再教育や刑務作業を行わせて、改善を促す」のに対して、私の決定論の考え方では、「その人の問題ではなく、その人を含めたケースの問題であり、誰しもが同様のケースになれば、同様に人を殺す。ので、その問題になるケースを分析し、そのケースにならないようにする」のが理想ではないか?と。 重大犯罪に関しては、特に、その人の自由を奪って、研究の対象とすべきではと感じます。 つまり、現行の法整備と大差はなく、刑務所での「労働や教育」が「犯罪行動への実験と研究」となるので、そこまで大きくは変わらないと考えます。 また、犯罪行為を行うことが、トータル的な得になるのか?という問題もあるとは思います。 で、特に気になったのは、この2点。 上記のとおりに、決定論だからといって、犯罪行為を行った者への、ペナルティーがなくなるわけではない。 >決定論によると誰の犯罪も責任を問うことができなくなるはずです。 誰の犯罪もその人に責任はないが、社会を維持していくために、犯罪を予防、対処する機能は、残り続けます。 仮に、決定論の社会が作られたとしても、犯罪者が野放しになるというのは、大きな誤解だと考えます。 もうひとつはこれで >私の考える決定論は、自由意志の存在しない決定論 私の中では、自由意志は、客観的には存在しないが、主観としては、自由意志はあり続けるというものです。 「本人がどう考えるか?を、コントロールできている」と考えるのは、その人の中でしか成立しないし、自分がコントロールできていると思っていても、他人から見れば、コントロールできていない場合もあると思うので、自由意志は、主観としては存在するが、客観的には存在しない。 ただし、私も、「自由意志の存在しない決定論」なんですが、語弊がありましたかね。 きっと、語弊があったのでしょう。 心理学、宗教も好きなので、けっこうちゃんぽんなのは、否定できません。 その点は、深く考えることができ、嬉しいです。

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  • stmim
  • ベストアンサー率24% (57/236)
回答No.7

現在の刑法では責任能力がある時のみ、罪に問われます。 責任能力とは、本人が犯罪をすることも、しないことも選べる場合です。 したがって、殺人などの重大犯罪を犯したとしても精神喪失などの理由により、責任を問うことができなれば、無罪か不起訴です。 決定論によると、Aさんがある特定の日時に殺人をすることは決まっており、それをどのようにしてもAさんには避けることができません。だとしたら、Aさんには、責任能力がないことになります。したがってAさんは無罪です。 また、刑罰についてても、刑罰の意味として、罰を与えるという意味と、再教育という意味があります。責任能力がない人に罰を与えるのは問題があるし、再教育には意味がありません。なぜなら出所後に再度犯罪をするかどうかは予め決定されているからです。教育によって変えることはできません。 決定論によると誰の犯罪も責任を問うことができなくなるはずです。 ・・・ということになりませんか?ということを言いたかったのです。

noname#236874
質問者

お礼

哲学の突飛な考え方を、わりと真剣に考えると、一般の考え方とまるで別の考え方があり、混ぜても良い部分と、混ぜると変になるものがあるのですが、この世界観を混ぜない考え方は、かなり苦労するのはわかります。 その上で、真剣に回答していただきありがとうございます。

noname#236874
質問者

補足

平行線というか、自由意志と決定論を、混ぜて考えている誤解だと感じます。 決定論では、「本人が犯罪をすることも、しないことも選べる場合」がなく、特定の状況でなら、誰しも、犯罪を犯す。 だから、人に罪や責任もない。 ではどうするか? その前提の条件を潰せば、犯罪は起こらなくなる、という発想になります。 それでも、起きてしまった犯罪行為は、そうなってしまった要因を探し、その人は、再教育になる。 責任や罰という概念はなく、犯罪行為をしてしまった人は、特殊な条件下の”不幸な人”となり、原因の解明と治療ということになるということです。極論ね。 「自由に選択できたはずだから、責任がある!」という前提が、決定論にはないので、その前提で決定論を考えると、おかしくなるということです。 責任能力があるなしは、自由意志、自由選択の世界での話なので、その上で、決定論を語ろうとすると、変になるということです。 >決定論によると誰の犯罪も責任を問うことができなくなるはずです。 決定論の世界では、責任という概念はありません。 責任というのは、自由意志、自由選択での発想です。 「責任があるのが、それを全うしないという選択をしたから、罪である。」ではなく、「起きてしまったことは起きてしまったことで罪ではない。 問題は起きてしまった状況にあり、その原因を探して、以降起こらないようにしよう。」という考え方になるということです。 それをどう思いますか? ただ、この切り離しは、結構苦労するのはわかります。 私も、けっこう混乱します。

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  • stmim
  • ベストアンサー率24% (57/236)
回答No.6

決定論だと困るのは犯罪についてです。 Aさんが殺人を犯したとします。決定論だとすると、これはAさんには避けられないことです。Aさんがある日時に殺人をするこを防ぐことはできないのです。 なのに現在の刑法ではAさんに責任をとらせ、刑務所に入れることになります。 殺人を回避することができないAさんに責任はとれないのではないでしょうか? そして、責任をとれないAさんを服役させることにどんな意味があるのでしょうか? この問題に対して決定論者はどのように回答するのでしょうか?

noname#236874
質問者

お礼

裁判なんかは、自由意志や自由選択があると考えているので、犯罪行為は、それぞれがその人の固有の問題であって、罪を犯した人は悪、犯さない人は善とします。 が、企業の多くのプロジェクト管理は、人は特定の状況ならミスを犯すもので、属人的にその人を罰すれば良いという考えではなく、そのミスが何故生まれたのか?そうならないためにはどうすればよいか?に、主眼が向いています。 ミスをした人を、見世物的に、罰するのは、ちょっと考えが古いと思いますが、どうでしょう? お礼の場所ですいません。 ただ、特に犯罪に関しては、受け入れづらいものはあるとは思います。 その点の指摘、回答ありがとうございました。

noname#236874
質問者

補足

それは確かにありますね。 しかし、「罪を憎んで(そこに至った状況を問題にし)、人を憎まず」って、解釈は出来ませんか? 殺人を避けることは出来ないが、多くの人が、その状況によって、決定論的に行動を起こすことが知れ渡れば、 「人の善意を信じるとか、精神論に頼ったり(お前の根性や魂に問題があった!)とか、あいつは人を殺したのだから、石を投げて(差別して)やれ!」とかは、少なくなるはずです。 誰しもが、同じ状況で、同じことをするのなら、そうならなかったことに感謝をし、そうなってしまう状況を未然に潰す努力ができるとは、考えられませんか? また、多くの決定論者も、自分たちの社会とは合わない者を、教育のために隔離することは、否定しませんよ。

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noname#236819
noname#236819
回答No.5

つまり貴方は自分に都合のいい解釈しかできないという事。 他人に質問を投げかけているように見せて、自分の意見を主張したいだけ。

noname#236874
質問者

お礼

noname#236819 これは、書きにげか。 まぁ、でも、そうだよね。 匿名とかないから、弱い人間が、文句を言いたければ、書き逃げしますよね。 戦法の一つではあるとは思いますけど。 さもありなん。君にさちあれ!

noname#236874
質問者

補足

たとえば、どこでそれを判断しましたか? 前提条件を説明したに過ぎないと思いますが。 決定論は、科学者も信じていることで、それをみなさんにどう思うか?を、知りたいのです。 なんらかのバイアスがかかっているだけでは? と、私とあなたのどっちの主張が正しいのか?は、興味ありませんか? あなたが正しいと言われても、私は楽しいし、そうでなくても私は楽しいです。 基本猫的な性格なので、いじる時はいじるし、飽きる時は飽きるのは、ご容赦を。 でも、感謝はしてますよ。

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  • stmim
  • ベストアンサー率24% (57/236)
回答No.4

例えば、今日の食堂のランチをAランチにするか、Bランチにするかという問題があったとします。 私がAランチを選んだとします。そうすれば、決定論の人は「君は決定論により、必然的にAランチを選んだね」といいます。 じゃあ、もしBランチを選んだら、「ほら、君は決定論により、必然的にBランチを選んだね」といいます。 決定論によると、Aランチを選ぼうが、Bランチを選ぼうが、それは必然的にそれを選んだことになるのです。もちろん、決定論者には事前にどちらを選ぶかは予言できませんが。 したがって、決定論の人に「どういう現象が発生したら決定論ではない証明になるのか」を教えてもらうしかありません。反証可能性です。反証可能性がないものは、どうやっても検証しようがありません。 ただ、決定論だろうが、なかろうが未来がわからないことは同じなので、私はどっちでもいいです。

noname#236874
質問者

お礼

そう、決定論も自由選択も結局は、証明できません。 証明するためには、時間を戻して、なん度もやり直すくらいしか、検証できない。 私も実はどうでもいいとも思いつつ、決定論でこそ救われるケースもあるのではないか?とも、考えています。 okwaveでの、決定論の認識や反応を知りたいという意味もあったので、ありがとうございます。

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  • SPROCKETER
  • ベストアンサー率26% (2131/8006)
回答No.3

 原因が決まれば、結果が決まると言うのでしょう。それは古典物理学の話であって、現代物理学では違います。  ミンコフスキー空間の光円錐で考えればわかりやすいですが、原因と結果は1本の軸線で決まっているわけではありません。原因が違っても、同じ結果に辿り着く確率があり、原因が変わっても、同じ結果になる確率が存在します。同様に、原因が1つでも、結果は確率論的な幅があるわけで、原因が決まったから結果は全て同じになるわけではありません。決定論なんて、今ではナンセンスでしかないのです。(リンク先参照)  たとえば、私が宝くじを買って当選したとします。それが末等である確率は高く、1等である確率は低くなります。しかし、どれに当選するかは確率論の話でしか言えません。1等に当選すれば人生が大きく変わるので起こりにくい現象だと言えますが、絶対に起こらないとは言えないのです。実際、1等に当選する人は必ずいます。  それでは、私が未来の宝くじの1等当選番号を知って、宝くじの予想数字を変えたとしましょう。それで1等に当選するかですが、必ずそうなるとは言えません。タイムパラドックスという現象が起こるので、1等当選番号を買って当てたとしたら、同時に凄まじい異変が起こるはずです。タイムパラドックスが強ければ、1等に当選しない可能性もあります。  これは、宝くじだけではなくて、未来に影響を与える過去の変更全てで発生する問題です。逆に言えば、未来に影響が出なければ、過去をどんなに変えても問題無いという話になるわけですね。同じ原理を使っているのが写真画像などで有名なJPGファイルで、画像データの圧縮比を変えても画像がほとんど変わらない圧縮比にする方法(過去を変えても未来が変わらないのと同じ)を使っています。

参考URL:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E5%86%86%E9%8C%90
noname#236874
質問者

お礼

その辺がよくわからないので、さらに回答していただければ助かりますが、私の方でも考えてみます。 ありがとうございます。

noname#236874
質問者

補足

それは、実は是非しりたいのですが、心や意思決定にどの程度影響があるのでしょうか? 私は、仮に影響があったとしても、誤差に過ぎないと感じます。 たいていの選択や行動は、大きな目的のためになされて、誤差が影響するようなものは、ほとんどないと感じますが、どうなんでしょうか?

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  • kaitara1
  • ベストアンサー率12% (1165/9209)
回答No.2

物事には必ず前提に相当するものがあります。この前提が変更ないなら決定論ということになるのでは。ただ前提が複雑な要素から成り立っていれば一見決定的に見えないことも多いのでは。

noname#236874
質問者

お礼

複雑な要素から成り立つものは、一見しては、決定論には見えないが、決定論は覆らない。 ということで良いでしょうか? 回答、ありがとうございます。

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noname#236819
noname#236819
回答No.1

そんな事を言い始めたら、新しい技術は生まれなくなる。

noname#236874
質問者

お礼

新しい技術は、生まれるべくして生まれたということです。 でも、そういう誤解はたしかにあるのですよねー。 回答、ありがとうございます。

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