- ベストアンサー
天皇についての素朴な疑問
まず始めに断っておきますが、私は天皇制に反対する者ではありません。 これは歴史の事実に関する素朴な疑問です。 本題 昔、日本という国は争いが絶えず、たくさんの時の覇者が誕生しました。 他の国の歴史では力のある者は今ある頂点の存在を滅ぼして、自分がそれに取って代わる、というのが定石であったと思います。 日本の歴史の中で力関係から実質天皇を凌ぐ者も多々存在した事は知っておりますが、その全てが位的にはあくまでも天皇の家来という存在で、自分が新たな天皇になる、又は王になる、という者はいませんでしたよね。 近代に近づけば近づくほど、天皇制の歴史の長さ、その由緒ある存在に取って代わるという考えは成し遂げ難くなるでしょうが、太古に誰もそれを実践しなかった主な理由とはなんでしょうか。 再度断っておきますが、私は世界一の歴史を誇る天皇家のある国の民である事に誇りをもっています。 申し訳ありませんが、質問の内容から離れた天皇制の是非をめぐる御意見又は中傷などはご遠慮ねがいます。
- みんなの回答 (13)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
『逆説の日本史』の受け売りですけど、神の子孫という 位置を確立してしまった天皇家にとって代わる革命理論 を当時の(今もですが)もつことが出来なかったから でしょう。 たとえ建前にすぎないとしても、既成の権威を打ち倒す には相応の理屈が必要なのですが、日本には天皇家の 権威をひっくり返すほどの考え方が、根付かなかったの ですね。 例えば中国では、儒教の『孟子』による革命理論があり ますから、徳の少ない天子は別の有徳者にとって代わ ら ることもあるという理屈でもって、前王朝を打倒する ことができました。
その他の回答 (12)
私も常々oshiete7さんのようなことを考えています。長くなったので暇だったら読んでください。 日本の島々には古代からいくつかの部族国家があり、大陸続きに同様のクニが各地にあったようです。もちろん今の東北地方、北海道にも。その中で複数のクニを従えまとまりをもってきて、すめらみこと=みかど=天皇という称号に変わってきたのでしょう。日本の国土全域を天皇が支配した時代は今までないのではないでしょうか。東北地方でさえ天皇が支配しているという意識が蝦夷の人々にあったかどうか。また、その地の豪族にさえ。平将門にしろ源頼朝にしろ彼らの行動は天皇の支配の及ばないクニを考えていたということです。東北、北海道、沖縄に支配が及ぶにしてもそれは秀吉~家康そして、明治以後のことです。もちろん、沖縄には尚氏がいました。しかし、天皇の支配力ではありません。明治政府も明治天皇の国家と考えている人はいないでしょう。天皇は実質権力を失い、藤原氏は九条、近衛らに名を変え宮廷をかたちづくり、天皇は天照皇大神宮として神道の中心に据えられてきました。また、そういった役割が江戸幕府によって与えられそれによって生きながらえてきたといえるでしょう。(それでさえ、江戸時代は神仏混淆で仏教と神道は明確な区分がなかった。)時の庶民は天皇の名さえ知らず、明明治になって政府がご真影を飾ることで天皇の宣伝(?)をしたくらいです。しかし、神道とはいえ、日本全体が神道になっているのではなく、近代までその地方特有のカミを祀り、信仰していたことは柳田国男の研究からも明らかで、神道が広まったのはむしろ明治以後で、最近の教育やマスコミ(日本は稲作のクニ、神社は神道という民俗学の逆輸入)にも影響されています。ヨーロッパ諸国の王家は、同じ民族の王でなくてもよし。入り婿でもよし。ナポレオンのように一般人でさえ皇帝になれるのです。日本の天皇家はその時々によって、宮家が天皇家となってきて、何とか朝何々というのが正解で、まぁ結果的に見れば男系で続いてきたことは世界にも類がないでしょう。それは、私も誇るに十分な王家だと思います。つまり、天皇は祀られるものであり、武家勢力の台頭あたりから、世俗的な権威や権力の対象ではなくなったことが、天皇家を存続させてきた大きな理由と私は考えます。現在のことを想像してみてください。今上天皇が今の経済情勢を語れるでしょうか。株取引の法的な仕組みを説明できるでしょうか。一個人が国家全体を語れる時代ではもはやなくなり、クニが大きくなればなるほど国家の仕組みや経済が複雑になればなるほど、世襲という必然性から決まった人物が必ずしも能力を発揮できないということではないでしょうか。そんな状況が過去の時代、何度も訪れ、天皇の存在が時代の表舞台から遠ざけられてきたのでしょう。
お礼
ご回答ありがとうございました。 >天皇は祀られるものであり、、、 なんとも不思議な存在になってしまったものですね。 皆さんの意見をまとめますと、 日本という特殊な島国の中で、他国から強大な力で侵略されるという事が大昔では起きなかった。 しかしいくら小さい島国とはいえ、それを統一するほどの力のある者はなかなか現れず、初期の頃に日本の中心辺りで栄えた天皇という存在がその優れた政策の為長期に渡って名の上での権威としての存続を可能にした。 その後、織豊徳川といった天皇に取って代われるほどの力をもった者が台頭したが、その頃にはすでに天皇という歴史ある権威が天井にまで上りつめ、人間一人の思惑では排除できない存在になっており、また排除する理由もないどころか、利用できる存在になっていた。 うーん、、。 あってます? ちょっとちがうかな? しかしいずれにせよこの世は諸行無常、永遠に続くものはありません。 近くない未来のいつかには天皇家といえども終焉を迎えてしまう事は必定なのですが、問題はその終わりかた、ですね。 天皇家が滅亡するときは人類が滅亡する時だったりして。 あるいはもしかしたら日本が滅亡するとき、、、? ちょっと怖いですけど、、。 皆さん貴重なご回答ありがとうございました。 とても勉強になりました。
- Tacosan
- ベストアンサー率23% (3656/15482)
みんながみんな「天皇につながっていること」を自らの権力の基盤としていたため, 天皇というシステムを廃止したり天皇になりかわったりすると自身の権力そのものがなくなってしまう可能性があるという事情はあったようです.
お礼
なるほど。 >天皇につながっていること が、なぜ尊かったのかがとても気になるところですね。 ご回答ありがとうございました。
- yaginumasan
- ベストアンサー率26% (12/46)
なんででしょうね。確かにかなり不思議ですよね。 中国には古くから易姓革命の思想が根付いていているので、日本がその影響を受けないはずがないのですが。しかも、ヨーロッパにおけるキリスト教みたいな、天の意思を裏付ける精緻な理論もないですし。 一応、天皇に代わろうという試みも何度かはされていいますね。 ・道鏡。これは有名ですね。実際、可能性もあったのでしょうか。 ・平将門。この人はどうなんでしょうか。とりあえずの目標は、関東に独立政権を作ることだったはずなので、本気で天皇の打倒まで考えていたかどうかはわかりません。 ・足利義満。この人はかなり本気で天皇に取って代わることを考えていたようですね。いわゆる禅譲というやつを狙ってたようです。
お礼
道鏡という人は知りませんでした、というより忘れていた?!(中学の歴史授業中、道鏡のページを習う日にたまたまお腹が痛くて学校を休んでいたのです) 平将門は下の方のお礼のなかでも述べましたが、大好きな武将の一人なのです。 何をした人なのかは全く知りませんが。。 足利氏は沢山いて誰が誰だか分からなくなっちゃいますよね。 でも、そんなに本気で自分が天皇になる事を企んでいた人なら、再調査する価値はありそうですね。 ご回答ありがとうございました。
- ss79
- ベストアンサー率33% (258/765)
実態として、力を持っていなかったからではないでしょうか。 時の覇者にとって脅威となる存在ではなかったから敢えて打倒する事はなかったのでしょう。 脅威となりかけた後醍醐帝には攻撃を躊躇いませんが、戦力を失ってからは利用するようになっています。 権力闘争外の存在で通す事がどちらの側にも利益であったのだと思うのですが・・ ヨーロッパ中世のローマ法王のように領主のように振る舞うと攻撃の対象となりますが、宗教的な盟主として振る舞うと権威として尊崇されたようなものです。
お礼
脅威となった後醍醐天皇の時も、織田家や豊臣家のように滅ぼされなかった(滅ぼされたと記憶があるのですが、間違ってたらすいません)のは、やはり“権威”、“ブランド”なのでしょうね。 昔、秀吉が信長の子のブランドを利用した有名なエピソードもありましたが、天皇家のそれとはどうやら桁がちがうようですね。 どの時代にも権威に頭が上がらないのは似たり寄ったりなのでしょうか。 ご回答ありがとうございました。
- umigame3
- ベストアンサー率27% (13/48)
たぶん、藤原氏が偉かったのだと思います。 大化の改新により天皇を中心とした律令制が天皇ブランドを強固なものとします。それを支えたのが藤原氏。 天皇家そのものが他の勢力から侵されるという最大の危機は、この時の蘇我氏が最後と思います。 以後、勢力争いにおける新勢力の台頭時には、天皇家を有効に利用することで、新勢力の速やかな政治的基盤確立が出来るようになります。(近年の例では明治政府) 歴史的には、藤原氏の祖は大化の改新時の中大兄皇子の盟友である中臣鎌足。以後、藤原氏が摂関政治の中心として天皇の政治面での実権を掌握します。この藤原氏、天皇家を財力・武力ともに超越しながらも、常に天皇家を尊ぶやり方で政治を行います。 藤原氏の衰退に代わり登場するのが平家と源氏。大化の改新からこの間、500年超。藤原氏から平家にこの思想が移植されることで、以後現在に至る。。ですね。
お礼
なるほど。 天皇家存続の足長おじさん役は藤原氏だったのですね。(目茶目茶表に出ていますが、、) そういう意味では藤原氏は相当優秀だったのですね。 No8さんへのお礼にも書きましたが、藤原氏のとった政策で、後1000年をゆうに越す家の存続の源となったのでしょうから。 1000年も経てばそろそろさざれ石が岩となって、コケも生えているかもしれませんね。 ふと思ったのですが、さざれ石が時を経れば、本当に岩になるのでしょうか? 岩が長年の水や風雪の浸食により細かくなるのは理解できますが、その反対は、、、? それに、岩にコケが生えるのは結構短時間で済むような、、、?。 ご回答ありがとうございました。
- pyon1956
- ベストアンサー率35% (484/1350)
天皇家自身が実はその前に存在した天皇位を簒奪した、という説もあります。(たとえば九州王朝説)。 また天武天皇以前は天皇という自称はなかったのではないか、という説もあります。 継体「天皇」についてはNo.4さんの参照URLのような説もあります。 総じて天皇制というものが(名実ともに)ある程度権威を持つようになったのは8世紀以降という考え方が有力です。それ以前は天皇家といえどもほかの家と生存をかけて戦って生き延びてきた、というほうが正確でしょう。この場合、簒奪は無意味です。かつて権威があったものを奪ってこそ簒奪の意味があるので、自分たちと同等のものを簒奪することはありえません。
お礼
なるほど。 8世紀以前は要するに、「我こそが王」という権力者たちの戦国時代であったかもしれないのですね。 しかし考えてみると、その時に優勝した王(要するに今の天皇家?)の政治力というか、生き残りの理論というものは桁外れですね。 だって、徳川家にしろ、他のどの国の王朝にしろ、7~8世紀から今の今まで途絶える事なく存在してきたものはいませんでしょうし、 ご回答ありがとうございました。
こんばんわ、意見をさせていただきますね。 まず、そもそも天皇制を否定できるほどの実力者がどのくらいいたのでしょう? 自分は少なくとも藤原北家や平家、源氏および北条執権家、足利家までの権力者にその力があったとは思えません。 彼らの多くは朝廷によって権力を認められないといけなかった程度の実力だったと思います。だから鎌倉幕府も室町幕府も、完全な統一日本政府ではないし、藤原北家にしても、あくまでも朝廷内部での権力争いで勝ったに過ぎないと思います。 (平家は全国政権をめざそうとしたようですが) 真の日本全土の王者となったのはおそらく秀吉が初めてではないでしょうか? 彼こそは真の意味での王者だったと思いますが、その彼も朝廷から認められるという形をとっていますよね。 その後の家康の江戸幕府、この政権こそが始めて朝廷をないがしろ的扱いを平然とした政権だったのではないかなあと思います。だからこその「公家諸法度」ですよね。 江戸幕府のころには朝廷を否定せず、というより既に有名無実化していたから、武家権力でがんじがらめにしておけばよいという感じだったのでしょう。 でもそれも、幕末には再び朝廷権力が持ち上がり、王政復古~倒幕へと繋がるのですから、朝廷の底力って恐るべしですよね。 思うところ、日本の権力者には天皇を否定できる力がなかったといえるのかもしれません。 唯一できそうなのは信長、秀吉、家康の3人だと思いますが、その彼らだって結局は利用したり封じ込めたりする程度で終わっていますからね。 でもこういう「天皇制」があったからこそ、日本の歴史ってすばらしいものがあるといえるかもしれません。
お礼
秀吉が“初の”全国統一を成し遂げた、というのを勉強したような記憶があります。 >日本の権力者には天皇を否定できる力がなかったといえるのかもしれません 結局はやはりそうなのかもしれませんね。 日本に勝ったアメリカも、天皇家を滅ぼすことはしませんし、一人の人間、又は組織が左右できるという存在ではないのでしょうね。
- toro321
- ベストアンサー率29% (1222/4138)
欧州や、アジアと違って、日本は島国ですよね。 他民族から侵略されることはなかったので、天皇を倒すより、利用したほうが手っ取り早かったのでしょう。 地続きの他の国では、異民族が支配してきましたから、その地の王を滅ぼすか、追放するしかなかったのだと思います。 それと、天皇家が象徴的存在で、実権を握ろうとしなかったことが、存続できた大きな要因であると思われます。
お礼
なるほど。 地理的要因が絡んでいるのですね。 この時代でも、外国という概念は武家の中には普遍的知識としてあったでしょうし、そうみると、国内の領地争いはあくまでも内輪もめ、家庭内の事として思っていたのかもしれませんね。 家庭の外として大陸人とかヨーロッパなどがいて。。。 となると、天皇はさしずめお父さん又はお爺ちゃん敵存在だったのでしょうかね。 ご回答ありがとうございました。
厳密には、10世紀に関東地方で平将門が朝廷に反旗を翻し、自ら新しい天皇である「新皇」(しんのう)と名乗ったことがあります。 「力のあるものが国を支配するのは当然」という考えからです。 もっとも、その後2ヶ月で滅ぼされてしまいましたが。 その後、天皇に代わる権威になろうとする者が現れなかったのは、天皇を倒して自ら一から権威者としてのブランドを築くより、天皇から官位をもらうなど、天皇ブランドを利用したほうが手っ取り早く自己の権威を高めることができるからと考えたためでしょう。 織田信長も内心、朝廷を軽視しつつも、窮地に陥ると天皇ブランドを利用して助かったりしています。
お礼
ご回答ありがとうございました。 >平将門が「新皇」(しんのう)と名乗ったことがあります この質問をしたあとにその事を色々なHPで勉強してきました。 もし彼が関東に新国を作っていたならば、今頃はもしかしたら関東と関西は別の国であったかもしれませんね。 “それはない”などと言わず、そんな幻想を抱かせてください。 将門といえば私は何一つ知らないのですが、大好きな歴代の武将の中の一人です。
- t2c
- ベストアンサー率39% (77/195)
天皇家にとって代わるより天皇家を利用した方が天下統一が楽だったからでしょう。 また「自分達を残しておいた方がいろいろ便利だよ」って公家連中が武家にいろいろ 働きかけた延命策もきいていると思います。 天皇家を滅ぼす度胸となると、信長ぐらいでしょうが頭がよい信長は外交政策に 天皇家の歴史の重みが利用できると考えているので天皇家を利用するでしょう。 天皇家はその歴史の長さゆえ価値を持ち、その価値を利用しようとした人々に 生かされてきたと思います。 ただし、朝廷も始まったばかりのころは天皇位の簒奪(天皇を倒して新たな天皇になる) があったという説もあります。 ↓ http://www.tanutanu.net/history/hist02.html
お礼
回答ありがとうございました。 ご紹介いただいたHP見てきました。 色々勉強になりました。。。というより、ある程度知っていなきゃいけなかった事を学びました。 あぁ はずかしい(汗 でも、年表を見てふと思ったのですが、かの有名な卑弥呼がいた時代には既に天皇(大王)という存在が話の中ではなく実在していたようですね。 しかし卑弥呼は外国から王と認められ、外交、政治(この頃は占い?)などをしていたのですよね。 それでは実際に卑弥呼が名実共に王という存在みたいですね。 この頃の天皇という存在はいったいなんだったのでしょうね。 あるいは、その時代には卑弥呼の居た地域と天皇が居た地域は別々の国という考えなのでしょうか? なぞは深まる。
- 1
- 2
お礼
ご回答ありがとうございました。 >日本には天皇家の権威をひっくり返すほどの考え方が、根付かなかったのですね そうですね。王の権威なんてそう簡単にはひっくり返せないですよね。ちゃぶ台とは訳がちがう。 >儒教の『孟子』による革命理論 そういえば、日本では歴史上革命が成功した事はあるのでしょうか?(無知すぎな質問だったかな?) 一番最近の革命の試みは三島由紀夫なのかな? ちょっと自分なりに調べてみたいと思います。