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院政時の財政基盤について

桐原書店の教科書によると、 「白河・鳥羽・後白河の3上皇は出家して法皇になり、六勝寺などの造寺や造仏を盛んに行ったので、それらにかかる莫大な費用を得るために成功が繰り返され、知行国制が広まっていった」 とあるのですが、なぜここで国司が成功をしたり、知行国制が広まったりするのでしょうか。 詳しい方お願いします。

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  • ogisan007
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回答No.2

一般的に国主のことを受領といいます。どうしてかといいますと、国司が交代する時新任者が前任者より書類を引き継ぐといぅ行為=「受領」の言葉からその人をさすようになったようです。 初めの内はかなり厳格に引き継ぎ事務も行われていたようですが、10世紀中ごろの承平・天慶の乱が国衙財政に決定的な打撃を与えたようで、厳密な審査が出来なくなり、中央官庁への貢納を縮小し、地方の国政を受領に全面的に請け負わせていくように変っていったようです。 つまり、ここで有名な尾張国解文の藤原元命のような搾取のかぎりをつくす受領が普通になっていったようです。『北山抄』という書物にも「非法の物を徴した」とかかれています。 このような受領の最大の目的は、蓄財にあったわけでして、それを持って中央の権力者への奉仕に努め、その見返りで除目(じもく)に手心を加えてもらいいいポストを得るというものです。 除目で職につくには、その前に申文という自己推薦文を提出して競争したそうで、受領になる競争率はかなり高かったようで、その年に欠国数(任期満了・病気・死亡で欠員の出た国)は、全国66か国の1割程度のようで、しかも国守と言っても大国・上国・中国・下国の違いがあり、収入やそのほか雑収入に大きな隔たりででてくるわけでして、どこに当たるか大きな問題だったわけです。 また、中央の公卿(摂関家を頂点とした三位の貴族)も受領を掌握することによって国家財政および自家財政も確保するわけです。 そして、内裏造営や寺社造営に受領の私物を使う事がはじまり、それが補助的財源として運用され、11世紀末以降、御願寺・院御所の造営から本格的になったようです。このように私物を出した者には、申文を出さずに任官され、「成功(じょうごう)」と呼ばれた。 寛仁2年(1018)に長門守になった藤原文隆は吉田社を造進したことで官を得た。 賄賂もあったようで、治安3年(1023)太宰大弐になった藤原惟憲は、播磨守の転出でなったのですが、藤原道長の強力な推薦があり、見返りに、道長に1万石、関白頼通に3千石、天皇に1千石等を送ったそうです。 また、知行国制は、公卿に対して朝恩として知行国を与えた事が慣例化していったようで、制度としては、その国の知行権を与えて経済的収入を得させたものです。 上記のものは、集英社版「日本の歴史(6)」を参考にしました。

その他の回答 (1)

  • rczd
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回答No.1

「新修角川日本史辞典」から引用します。 ◇「成功」(じょうごう) 売官の一つ。朝廷の行事や造営事業、寺社の修造等の際、費用を進納したり造営を請け負う者に対して希望の官職や位階をあたえる制度。(中略)官職のなかでは特に国司を希望する者が多く、また一官職に複数名の希望者がある場合、成功はその官職への任官優先権獲得の手段にもなった。平安後期に最も盛行し、南北朝期まで続いた。 ◇「院宮分国制」(いんぐうぶんこくせい) 院・女院・皇后・中宮などが特定の国の国守(受領)を推挙し、その献納物を受け取る制度。908(延喜8)宇多上皇の信濃国を初見とし、平安後期に急増、鎌倉前期には知行国制と同質化した。 ◇「受領」(ずりょう) 遥任<ようにん>国守に対し、任国に赴いた国司の最高責任者である守(親王任国では介<すけ>)をいう。平安中期、中央官職を藤原氏に独占された中小貴族は競って受領の地位をもとめ、その徴税権により巨富を蓄え、経済力を背景にやがて院の権力基盤となった。(後略) ◇「知行国」(ちぎょうこく) 国の知行権(吏努<りむ>という)を特定の公卿・寺社などにあたえ、その国の正税・官物などの収益を得させる制度。これを得た者を知行国主といい、国守の任命権を得た。平安中期の院宮分国制に始まり、平安後期に急増。院政や平氏政権の財政基盤となった。(後略)