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否定神学ってなんですか?
なんの本だったか覚えてないんですけど、以前に読んだ本に 「否定神学」っていう言葉が使われてたような気がします。 今、急に思い出して気になったので質問します。 否定神学って一般にどういう意味合いで使われるんですか?
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こんにちは。 過大評価を頂き、超プレッシャーですが 以下、参考になれば。 >「その解釈は違う」てな具合に、いわゆる"ミスリード"を >指摘できるのはどうしてなんでしょうか それは指摘した人に聞けばいいのではないでしょうか。 (過去の人の反論など、聞けない場合はさておき。) 違う、と指摘した人が絶対正しいわけではないでしょう。 正確に言えば「違うと思う」であり なぜ「違うと思うのか?」をじっくり聞かせてもらえばいい。 その理由に「なるほど!」と思える何かがあれば それはとってもためになりますし 間違っていると思えば逆に自分の考えを話せばいいし 議論を平行線を辿るなら、今後の関心事項になるだろうし。 別に知識の競い合いをしているわけではないと思うのです。 思索をベースにした深いコミュニケーションを楽しめばイイと思うし とはいえコミュニケーションで互いの意見が 完全一致することなどほどんどありませんが それはそれで今後の自分の思考を深める よいきっかけになる筈です。 個人的な話をすれば 私は20代の後半に相対主義に共感しまして でも一方で「これって何でもありってコトなの?」と悩んだものですから 否定神学の話題には関心が向いてしまったのです。 でも、例えばニーチェが「力への意志」という概念の中で 世界を絶えず生成しつつあるものと見たように 自分にとっての真実は 今、このようにあなたを想定して回答している 今現在の自分の「考え」が全てであり 仮にこのあとあなたから返事がくれば きっと何かを触発され 私にとっての新しい世界が生成されるのだと思います。
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- dddluiddd
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論理学、ちんぷんかんぷんです。 ちなみにこちらは飲み会で学術的な話題すらありません。 ゲーデルをだしてしまったのですが、 おそらくゲーデルの焦点は無矛盾かつ完全な公理系をつくることはできないということにあったと思うので、 ゲーデルからすれば神学のことは頭になかったのではないかと思います。 それでもゲーデルが証明したことは神をいかに語るかということにヒントを与えるものという点で、 ゲーデルをだしてしまった訳です。 言葉足らずでゴメンナサイ。 ともあれ形式論理学的に無限なもの(神学的に言えば神)を矛盾なく完全に語ることは不可能と証明されてしまったので、 eigosanが仰るとおり神学と論理学は別物であるとしても、 その論理は神学に影響を与えているみたいです。 そう考えると肯定神学は分が悪そうに思えてきます。 無限なものを語り尽くすことができるということ自体が矛盾していますし。 それでも神や超越的絶対性を語ろうとしてしまうのが人間らしさですね。 ワタシも人間ですが…
お礼
こっちでも飲み会で学術的な話なんて出ませんて!(笑 飲み会云々てのはこの前、飲みすぎて貞子みたいになってた女が 「あー出る。ゲー出る。」って呻いてたからです。・・・オヤジで申し訳ない。 しかし通じない上にオヤジなことを言う自分は結構最低だと思いました。
- dddluiddd
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No.2です。 >で、「~でない、~でない」っていうコベツ具体的なものを集めてくやり方だと、 >永遠に帰納できない気がするんですが、 …できないでしょうね。 ただ神を超越的存在とみなすかぎり、 神を概念として完全かつ矛盾なく規定することは不可能であると結論づけられてしまいそうです。 というのも、神学も言葉を用いて語るかぎり論理学の成果を無視することはできないので、 たとえばゲーデルの不完全性定理などは神学にも大きな影響を与えているようなので。
お礼
ロンリガクは本当に難しいですよね。 うろ覚ですけど、ゲーデルって神については 「○○(肯定的性質?忘れた)が"少なくとも一つは"存在する。」 みたいな感じの肯定の論法を核に語ってたような。 そうするとこれはdddさんの言う肯定神学に分類されるんでしょうか。 もっともこれは不完全性定理と切り離して考えた方が良さげではありますし、 僕がゲーデルなんて言っても、飲みすぎた二次会でのシャレにしかなりませんが。
否定神学って言葉が一部で(ほんの一部で)よく使われるようになったのは 東浩紀の「存在論的、郵便的」がきっかけではなかったかと思います。 で、東によれば否定神学とは 「否定的な表現を通してのみ捉えることができる 何らかの存在がある(少なくともその存在を想定することが 世界認識に不可欠だ)とする神秘的思考一般」とのことです。 何のこっちゃ? 比較的分かりやすい解釈があったので引用します。 「○○は無根拠である、○○には固定的な本質などなく、 そのつどの力関係のなかで構成されるにすぎないetc.…… これこそが○○の特質であり、 ○○に関して最終的に認識されるべき事柄である、 という思考法である。」 (http://thought.ne.jp/luhmann/baba/aj/aj01.html) 東は否定神学を否定したのですが それは即ちeigosanさんも指摘しているように 「本質の不在こそが本質だ」といった トートロジーに陥ってしまうことを問題視したわけです。 つまり、引用したサイトにもあるように 「○○」に例えば「正義」などを入れると分かるように そこから何か有益な結論が出るのか? ということだと思います。 しかしその後、いまだその問題を乗り越える思想は 出てきてないみたいなんですよね。
補足
せっかくCUEさんに回答していただけたので、前から聞いてみたかったこと を聞いてみてもいいですか?僕が哲学方面全般に関して抱いている疑問を、 CUEさんはどんな風に考えるのかめちゃ気になるのです。というのも、CUEさんの考え って、ココではもっとも鋭い方だと思ってるものですから。 (すいません。以下、殺人的に長いッス。) ・書かれたものを書いた人と同様に理解することは無理だし(同様どころか かなり近く理解することも難しいハズだし)、まして読むべき本が一冊なら まだしも、何十冊・何百冊にも及ぶというのに、「その解釈は違う」 てな具合に、いわゆる"ミスリード"を指摘できるのはどうしてなんでしょうか。 ・(もう少し詳しく言うと)例えば翻訳されたものなんて、ますますズレて くるわけですよね。まして自分が訳すわけじゃないし。それを、自分の書いた もののように縦横に引用するというのは、これはもはや「解釈は各人の自由」という 態度でもって、あたかも小説を自由に考えるのと同じように、文章の解釈を "自分の作品として"書いている、ということですよね。それなのに、程度の問題こそあれ 誰もがそうするよりほかない中で、「それは明らかにミスリード」、と言えちゃうのは なぜなんでしょうか。ミスリードってことは、正解(書いた人のオリジナルな考え)が あって、それを理解しているってことですよね。これって、フツーに考えたら(原理的に) ありえないし言い得ない、と思うんですが。 ・(まとめると)結局のところ、すべてを俯瞰できる記憶力は存在しないわけで、 だからこそ大なり小なり↑で言ってるような矛盾が出てくると思います。 ところが、そうすると、決まって言われる「この文は精密さに欠ける」とか 「厳密にいえば違う」などの言葉は一体なにを意味することになるんでしょうか。 精密な文なんて誰にも書けないし、精密を期したいなら初めからなにも語らないのが 一番だと思うんですが。一旦語り出したら最後、あとは語れば語るほど矛盾が増える だけなんだから、もう後は面白くするよりほかない、と思うのですが。どうして どの文も「正解」が存在するような前提で解釈されるんでしょうか。謎です。 僕は(たぶん、かなりCUEさんに近い感覚で)趣味として思想関連の本を面白く 感じている一人なのですが、上のような疑問を思うとき、決まって不毛な気分になります。 実際、そうなると途端につまらなくなります。今はもう読んでません。 ですので、CUEさんがこの辺とどう折り合いをつけているのか、ぜひ知りたいのです。 (そんなん誰も答えられねーよ、ってオチでもOKです。 あと、暇人でごめんなさい。)
- dddluiddd
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神とは人間の理性では把握することができない存在であるとする観点にたって、神を語ろうとする立場のことです。 否定の意味は、神の存在を否定するというのではなく、 超越的存在である神とは、否定的な述語(神は~ではない)によってしか語りえないという意味です。 「神とは、神より偉大なものを考えられえないもの」という定義が有名です。 その逆が「神とは~である」とする立場(肯定神学)です。
補足
分かりやすいッス。 で、「~でない、~でない」っていうコベツ具体的なものを 集めてくやり方だと、永遠に帰納できない気がする んですが、その辺てどうなってるか分かります? 自然科学と違って実験できないわけですよね。
- happy_books
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否定神学とは、要は神様は神様なので、人間には理解 出来ない物だ。という考え方だと思ったけど。 否定神学で、少し調べてみたらけっこうヒットするので、 調べるとおもしろいですよ。 という事は、人間が神様の事を考える事は、無意味では? という疑問が生じたために、闇の時代とか呼ばれたそう です。 ちょっとかっこいいですねー。 例えば、神様がルシファーを堕天させて、サタンとなし 地獄の総統にしたもの神様の御心の仕業で、その時天使 に被害が出たのも、人間に堕落を招くのも、神様の考えが あっての事? (来るべき世界への、選民って事なのかなー。) それとも、サタンは唯一神様の呪縛から離れた独立者で 神というシステムから、人を救うべきもの? (信者だけが救われるのが、本当に慈悲を持っているか どうかは、微妙。) それとも、サタンの新しいシステムさえも神様も思惑 どおり? (試練を超えた物は、神との列席を許可される?) なんで神様は、みんな幸せにしてくれないの? っていうのは、神様だけが知っているので、人間には とやかくは言えませ~ん♪って事。 人智を越えた存在のわりには、わりと人智で語られてる んですよねー。神様って。 それさえ否定するのは、斬新な意見ではあるけど。 追伸。 特定の宗教とは関係ないです。 サタン等のくだりも、他にもいろいろが諸説あります。
お礼
へぇーえ。なるほどねぇー、という感じです。 面白いですね。
補足
一晩経って自分の補足を見てみたらちょっと冷や汗がでましたが(長すぎ)、 こんな突然の質問に丁寧に回答してくださってありがとうございます。 >それは指摘した人に聞けばいいのではないでしょうか。 ああ!そっか!・・・って、確かにそうなんですけど、も。でも、"読者"が"著者"に 聞けるケースって、基本的にレアじゃないですか。会えないし。みんな大体が独立した 小宇宙に深化してて、それぞれは(たとえ本人が「開かれた知、云々」を言おうとも) 基本的に独自に完結しているわけですよね。その間を"横断的"って言葉が好きな連中が 結び付けようとするわけでしょう。そこで出てくる言葉(ほとんど隠喩ですが)の一つが 例えば「ミスリード」だったりするわけですけど、僕はどうもそこんところの"場"というか、 学会でないのに"学会言うところの精密さ"を金科玉条(あえてこう言いますが)にしている ような趨勢が、よく分からないんですよ。・・・気のせいなのかもしれないですけど。 (CUEさんの仰っている「思索をベースにした深いコミュニケーションを楽しめばイイ」 というのが、僕の補足の「どうせ矛盾が出るならただ面白く(ただよく思考)すればいい」 という部分とおんなじ根っこから出てきた考えだと勝手に思って、話を進めています。 その意味で、CUEさんがそう考えているという事実が、僕の今回の質問というか悩み相談 にとって非常に有意義なものになっているのは言うまでもありません) もちろん、ダイレクトにフィードバックがいくweb上のコミュニケーションでは、直接 聞いてコミュニケーションを取ることになりますよね。ちょうど今僕が質問できてるように。 そこでは基本的にCUEさんの仰るような交流と思考の反復が起きて、タメになるし楽しめる というのはまったくの同感です。 (ネットついでに言えば、ネット上の人文系大学生チックな文章の少なくない割合が、 「知識の競い合い」を書き進めるための無視できない要素、ベース、原動力としているのも また事実ではあると思いますが・・・。まぁそれは"気概"と表裏一体でもありますけど。) これらを踏まえたうえで、もう一回だけ質問させてください。 >今、このようにあなたを想定して回答している今現在の自分の「考え」が全てであり~ この「今・ココ」性といいますか、生成していく瞬間瞬間が全て、という考え (ニーチェ・ハイデガー的な考え?)って、結局CUEさんの仰った「なんでもアリ」 と非常に近しいと思うんですが、相対主義でこうした感覚に悩んだCUEさんは、今現在 どういったスタンスで「なんでもアリ」と折り合いをつけたんでしょうか。回答の前半を 読む限りでは、「なんでもアリ」を許容して、絶えず自分の変化を楽しむ方向性に なったようにお見受けするんですが、こういう解釈でOKですか? (もっとも、「それってなんでもアリじゃん?」というところでCUEさんも悩んだんだー、 ということを知れただけでも、僕にとっては大いに収穫なのですけども。 事実、今日この回答を見てから成績取りに大学行ったんですけど、図書館で本、借りてみました。) ってまた長ぇー! 反省の色なしか。