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真実って何なんですか?
前から思ってたことなんですがどうやって 「これが真実だ」って判断するんでしょうか? 真実って判断するまでに色々なプロセスがあると 思うんですけど結局は個人の 思想ということなんですかね? でも例え一人だけ本当のことを言っていても 周りが同じ考えを持っていなければ説得力が ないような気がするんです。 それとも多数派なのでしょうか?でも、 みんなが言ってるからこれが真実に 決まってるじゃないか!! ってのは納得できないんです。 どうやって真実って判断するのかについて 皆さんの意見を聞かせて下さい。
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ソクラテスは言いました。『無知の知』と。 自分は何も知らない。でもそれだけは知っている。 彼は国中の人々に質問しました。しかし彼らは何も知りませんでした。 現代でも同じです。絶対的な真実など、現代ですら存在しません。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E4%BA%94%E5%88%86%E5%89%8D%E4%BB%AE%E8%AA%AC を読んでください。世界五分前仮説です。 世界が五分前に始まったわけではないことを、誰も証明できません。 真実はありません。 と、いうのが真実と私は思っています。
- satotan111
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まず お詫びと訂正させて下さい。 NO.23の者です。かなり変な方に書いた回答が間違えてこちらの方にきてしまいました!大変不愉快な思いをさせてしまいました事を深くお詫びいたします。 間違いにきずいた時、自分で自分の回答に「管理スタッフに通報」しよう!!と思ったのですが・・・まず、謝罪と・・そして何かお答えしとかなきゃ!と思い、せん越ながらご回答させていただこうかと思いました。 さて・・・・ 私もNO.2様、no.8様のご回答に同意見です。 「事実」はたくさんあります。「真実」もたくさんあります。 ただし、(ココ重要)一つだけの分野(もの、点・・)でみた時には・・・「真実」は必ず一つだけです。 「真実」は(NO.8様がお答え下さっておられますが)、「本当の事、嘘、偽りのない事」です。 「自分が正しいと思った」だけでは真実であるはずもありません。根拠が提示されていないからです。 さらには「あいまいさ」がある時点でも、確たる実証された根拠が無ければ「真実」のあろうはずがありません。 「真理、真実」(Trust)・・・・これは大元はヘブライ語の「エメト」から来ています。これは、確実なこと、信頼に値すること、安定していること、忠実なこと、本当であること、あるいは「事実」としてさらに確証されている事柄を表す場合があります。 要するに、正しい(もしくは事実に則した)根拠が必ず必要不可欠になるのが「真実」です。 こういった話は、難しく混乱を呼びがちですから、「例え」を出して具体的にご一緒に考えるなら、比較的理解しやすいものとなるでしょう。 例えば・・・「水が存在する」これは真実でしょうか? 多くの方は水の存在を認めるのではないでしょうか。確かに存在する!という確たる証拠(根拠)があるからです。 誰も反論できません。 (補足)ここでこのように書きますと、言葉のあら捜しをする方がもしかしていらっしゃるかもしれません。特に・・例えば「水は真実か?」になりますと、「水」という主語(名詞)だけなのでどうにでも解釈しやすくなります。こうなると・・・「いや、真実とはいえない」などの意見を出してくるかもしれません。 実際混乱するのは、こういった言葉尻をどう捉えるか?に重きを置く一部の方から派生するのが(悲しいかな)多く感じてしまいます。 ですから、質問者様は言葉尻に過敏にとらわれなきよう、道理にかなった仕方で読んでいただけましたら、大変うれしく思います。 続けます・・・ 例えば、「電波」は存在しますよね?これって真実なんでしょうか? 「真実でしょう」確かに電波は存在します。電磁波を計る計測器を使えば、証拠がでます。他にも真実を裏付ける事実がいくらでもあることでしょう。 ところが・・・(仮に)・・この質問を200年前の時代でしたなら人々の反応は一体どのようなものになるかは、容易に推測できるのではないでしょうか? そうです。この当時でそんな事を主張しても、だれもそれを「真実」と思わないのかもしれません。 今だからこそ「科学的データ」に基づいた「根拠」があります。 ですから、論理的に道理的に考える事は重要な事といわざるをえません。 では今度は私達人間の心の反応について、はたして信頼の置けるものなのか?をご一緒に考えてみたいと思います。 私達一人一人に「良心」という心の機能が生まれつき備わっています。この「良心」・・・正邪に関しても反応します。この「装置」によって人は釈明されたり、とがめられたりします。したがって良心は人を裁きます。 自分自身でさえ裁いてくれます。 それはまた、思考や行動によって、すなわち研究や経験を通して人の思いに植えつけられる確信や規範によって訓練することもできれば、その逆もあります。 良心はこれらのものを基に、今取っている、または取ろうと考えている行動との比較を行います。そして、規範と行動が相反する時には「警告」を発します! これがいわゆる「良心が痛む」という正体です。 もっともこれは、良心に’焼き印が押されている”、つまり良心の警告に逆らい続けたために、良心が「無感覚」になっているというのでなければの話です。 (補足) 例えば・・よく残虐犯人の多くが・・残虐な映像(ビデオ)を何度も観る事によって知らず知らずのうちに、この良心に大きな影響を与えてしまうんです。レイプ映像ばかり過度に観るなら、そういう行動に走りやすくなってしまうのです。 最初は、胸が「ピクプク」反応するでしょう。しかしそれでも観続けるならその「ピクピク」の痛みは無くなり、反応しなくなります。 このことからお分かりいただけるかと思いますが、良心は人を誤導する場合があるという事です。だから宗教はこの良心を教化するという主旨を備えているのです。 いかがでしょうか。いろいろ考えさせられますね。 大事なのは、どんな偉い人の言葉であっても、自分自身で「一体それは本当なのだろうか?信じるに足る根拠は?」と吟味する事ではないでしょうか? 人のありとあらゆる意見の中で、本当のものを識別する力(識別力)、その本質を見抜く力(洞察力)を養う必要があります。特にこんな世では。 人の意見に流される人、根拠(裏づけ、確たる証拠、分析データ(科学的証拠)など・・)もないのに、さも正しいかのように説得するものに流されやすい人などに、私達は誰もなりたいとは思わないのではないでしょうか? 最後にもう一つ重要な事があります。その根拠の出どころが少しでもあいまいだったり、信憑性にかけるのであれば、考えなければならないといえるでしょう。 これらを踏まえた上で・・・ >真実って判断するまでに色々なプロセスがあると 思うんですけど結局は個人の 思想ということなんですかね? いいえ違います。 >でも例え一人だけ本当のことを言っていても 周りが同じ考えを持っていなければ説得力が ないような気がするんです。 確かに一見そう感じてもフシギではありません。しかし、それを見抜く力を養ったものには、はっきり物事の本質が見えるのではないでしょうか。 >でも、みんなが言ってるからこれが真実に 決まってるじゃないか!! ってのは納得できないんです。 yu1ro様は賢い方ですね。あなたは道理にかなった見方が出来ているのです。あとは周りにながされないで、注意深く・・・。 私の大好きな言葉の一つに・・・ 「鳩のように純真な心と、蛇のように用心深く・・」って格言があります。私も新たに考えさせられました。本当にありがとうございました!
- satotan111
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あなたは心の病気です。 そうでなければ、ただ単に心の状態が堅いのか、すれているだけでしょう。 例えそれが真実でなくても、自分に都合のいい回答だけ、受け入れるんでしょうね。いつも感情が勝っている人なんです。 答えても無駄。
- corpus
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多数決で真実が決定することもあると思います。 ただし、全員が一致したときだけです。 それが真実なのだと思います。 ただ、もし、自分だけが他の人と一致しない場合、 それはどうでしょうか? 自分だけが頭がいかれているからでしょうか。 私は、多数決とともに権威というものを考えています。 権威が考えたことが真実なのだと。 ただ、その権威はだれが決めるのかということ、 だれが、その真実を認めるかということが、問題だと思いますが。
- zenzenzen
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行く川の流れは同じくして しかももとの水にあらず. のような... 真理
- zenzenzen
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星の数ほど真実があっても そこに何か共通点があるかもしれない. それはいったい何か.
- cafatabaco
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どうやって真実と判断するか? あくまでも判断するということでしたら、それはその人が 真実と確信したときでしょう。確信するとはつまり感じる ということです。これは真実だ!と感じたらそれがその人 にとって真実と「判断」するときです。 すごく曖昧な感じがしますがこう考えてみてください。 どこまで判断要素を集めれば真実だと判断できる? 私よりまえの回答者の中にもありましたが、「地球は丸 い」ということを目で見ればそれは真実と判断できる要 素としてパーフェクトでしょうか?私たちが見ているも のは私たちの脳が造っている映像にすぎなくて、実際は 平らかもしれない・・・。この考えを推し進めていくと 「我思う故に我あり」に行き着くようですが、つまりそ ういったこと自体を思考している私自身が存在すること は真実だ!・・・。しかしその私が実はプログラミング された猫型ロボットでそういった思考をするように、プ ログラミングされただけかもしれない・・・。 見せられてる映像は真実ではない! でもさせられてる思考は真実だ! そうでしょうか? というふうにここまで来ると真実と判断する要素はどこ まで積み上げても真実に至らないということになります。 ですので結局、判断するのは本人がそう感じたときなのです。要素を積み上げるのに満足したときとも言えます。 次の質問ですが、多数決で真実が決まるわけではありません。真実の判断は人それぞれが行い、それぞれに判断した結果の真実が存在します。 これが私の回答です^^
- zenzenzen
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星の数ほど真実はある. の間違いでした. 澄みません.
- zenzenzen
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生きているものの数だけ 真実がありそうだ.
- kazuyamakazuo
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真実だと思えることと思えないことは私生活で確かに区別されています いろんな種類の真実があるのかもしれませんね 多数決で決まる真実と人数に関係のない信実と 真実を信じている人は多いですがだからといって多数決で決まる真実って言うのはありえません 人の考えで真実が捻じ曲げられることも絶対ありません しかし考える範囲を広くすると真実は何かというと絶対にわかりません 今見ているものはすべて幻覚かもしれない・・・・・ となると今見ているものは真実ではないのです 「触って感じるから存在してるってことになるじゃん」 その感じる感覚も幻かもしれない 今目の前にいる人はもしかしたら幻覚かもしれない となればやはり目の前にいる人も幻覚なのです ただはっきり真実だとわかることはひとつだけあります 自分は少なくとも存在しているということです 自分の肉体が幻覚だったとしても自分の声が幻聴だったとしても 自分は明らかに意識を持っているのです だから考えることができるのです それだけは確かです たとえ自分以外のものがすべて幻覚だったとしてもです 自分が存在することは完全に真実なのです