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言葉の巧みさと正しさ

僕の傾向として、自分と意見に食い違いがある人を、何とか説得したい、納得させたいという気持ちが強いです。 でも最近、相手を説得したり、納得させたりということは、ただ僕の方が言葉が巧みである、ということの証明にしかならないと思うようになりました。つまり正しさとは関係がない。 例えば宮崎駿には、色々な素晴らしい思想、主義主張があると思うんですけど、きっと討論したら負けちゃったりすると思うんです。僕の勝手な想像でしかありませんが。 そういうことを考えてたら、相手を説得するとか、納得させるということに、空虚さを感じるようになってしまいました。 皆さんは、言葉の巧みさと正しさについて、どう思いますか。

みんなの回答

  • pyon28
  • ベストアンサー率11% (20/168)
回答No.7

光ゲンジって歌の言葉の魔術ってやつで、筋も通ってなく言葉だけ巧みな人には 一切魅力感じません。筋のなさが浮き彫りになって生理的に無理って感じます。 なので、分かる人にはたんに言葉巧みな中身無しってわかるよ。

回答No.6

胸の内に秘めていて、その正しさを貫くことで価値のある考え方もあります。 相手に伝え、共有する、納得してもらうことで価値のある考え方もあります。 時と場合によって、どちらが相応しいか変わることもあります。 「正しさ」とは主観的なもので、人によってまったく違います。 言葉巧みに相手を説得できたから「正しい」というのはもちろん違いますが、そもそも「正しさ」は十人十色で、どの程度「正しい」という客観的な尺度はありません。 どちらが「正しい」かわからない、だからこそ議論をする、とも言えます。 例えば、増税が正しいと言う人もいれば、間違っているという人もいます。 どちらが正しいというわけではありませんが、これを政策として通すには多くの人を説得し、納得してもらう必要があります。 例えば、国が戦争に傾きかけているとき、非戦主義を胸の内に秘めていても何の役にも立ちません。 声を上げて同じ考え方を持つ人を増やさないと、戦争を止めることなどできません。 もちろん議論だけでなく、音楽や映画、絵画などで考え方を主張することもできます。 ただ、ときに「正しさ」を貫くには、言葉の巧みさが必要とされるときもあります。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.5

全くその通りです。 言葉が巧みなら、論争に勝つことは出来ますが、 相手を説得、納得させることはできません。 だから、議論など無駄、という考えも確かに あります。 特に、日本人にはそういう傾向が強い、と 言われています。 それから、言葉が巧みだ、内容が正しい、説得力が ある、というのはそれぞれ違います。 言葉が巧みで、内容が正しくても、説得力が ない場合もありますし、 説得力があっても、内容が正しくない場合も あります。 マルクスの資本論などは、説得力があった訳です。 だからあれほどのベストセラーになりました。 しかし、内容は間違っていた、と評価されて います。 もっと古い時代には、地動説よりも天動説の方が 説得力がありました。 しかし、天動説は間違っていました。 最近では、民主党の主張の方が自民党のそれよりも 言葉巧みで、説得力がありました。 で、結果はどうだったでしょう。

  • pluto1991
  • ベストアンサー率30% (2015/6674)
回答No.4

「本当に申し訳ないと思っていないくせに、口先だけですみませんって謝ってるだけ。あんたには誠意がない!」 なんていうセリフをよく聞きますよね。これも「うわべだけ」の意味でしょう。 やはり中身=真実は別の場所にあって、ああ言えばこう言う、という応酬話法で勝ってもそれは真実ではない。 質問者さんの性格。それは中国人と同じで「自己中心」なのだとおもいますよ。(実はそれって、世界の常識) つまり、自分と意見を異にする人はそれだけで「敵」であって、負かさないといけない存在。 でも、それがおかしいと気がつき始めている質問者さんは少しおとなになったということなのでしょう。

noname#202739
noname#202739
回答No.3

言葉が巧みな人はウソつき。

noname#235638
noname#235638
回答No.2

言葉の巧みさと正しさ・・・ それだけで、またはそれでは、人の心は動かない と、思っています。

  • bekky1
  • ベストアンサー率31% (2252/7257)
回答No.1

【皆さんは、言葉の巧みさと正しさについて、どう思いますか。】 言葉通りに受け取るなら、言葉の巧みさとは、一種ボキャブラリーの豊富なことを意味して、 適宜適当なときに、適当な表現を当てはめ、相手もソレを納得、了解、理解できることで成立します。 だから、相手も必ず、アナタと同じだけの言葉の能力を最初から担保してないとだめだということ。 正しさというのが、’論’としての正論をあなたは意味しているようですが、 この表現では、言葉の巧みさ正しさでは、’正論を吐く’というよう意味合いには取れないです。 【自分と意見に食い違いがある人を、何とか説得したい、納得させたいという気持ちが強いです。】 これでは、相手はアナタの真意がわからない。 説得する前に、何がいいたいかを、そのままに伝える方法をきちんと踏まえてないとだめでしょう。 意見の食い違い以前に’単語’としての微妙な食い違いはどこまでも生じる。 なるべく早い時間がどういう意味なのか。 午前中というのは、何時なのか。 朝・・・というのは? 起き抜けにという表現は相手にどのような時間をイメージさせるか・・・・とかとかです。 会話のなかで使う単語の齟齬を確認できないままで、相手に’正論’だというのは、 ただの押し付けになるでしょう? 宮崎さんは別に自分が正しいというわけではなく、自分の’論’はこのようだと いっているだけで、見た人聞いた人がある意味、勝手に感動して、ソウダソウダとおもうだけのこと。 更に言うなら、訴えたいことにピンポイントで賛同しているかどうかはまた別なんですよ。 ちなみに、どこまで言っても、'正論’はないし、'正当だから’と相手を納得させることも出来ない。 だからこそ、宗教対立は何千年立っても、解消できないのです。 みんな、自分がただしい、後ろには神様だってついているのだから、なおさらに正しく、納得しない 相手が悪い・・・・でしょう? 個人は皆、よい人でしょう、きっと、仲間もいるし、家族もいる、社会的にも認知されている 立派な人々でしょう。 でも、テロも、武装衝突もある。 みんな、’正論、正当’だからです。 ゴキブリを嫌うが、もともと、自然界に勝手に自分の’結界・家’をつくって、 ゴキブリを排除しているほうが悪い・・・・は正論?正当?