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親鸞の自然法邇と自然外道
- 親鸞の自然法邇とは法華経の教えを表し、善悪を判断し悪を改めて善に向かおうとすることを示しています。
- 質問文章の(2)は、自分自身の罪について反省し改めることを意味しています。
- (3)の「吾我を離るる」は自己中心的な考えを離れ、常に客観的な視点で自分を観察することが大切であることを示しています。
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ちょっと字にミスがあるようですが、正しくは「自然法爾」。 親鸞のいう「自然(じねん)」というのは、natureのことではなくて、「おのずからしかり」「おのずからしからしむ」と読んで、「世界を今あるようにあらしめる働き」といった意味です。「法爾(ほうに)」も同じニュアンスです。この「しからしむ」という言葉を親鸞は非常に多用します。 われわれ人間は、いつも自分の分別を働かせることで、善悪を判断したり好き嫌いの気持ちを起こしたうえで、何かを求めたり避けたりといった努力をするものです。親鸞は、そのような個人の作為や思慮分別(=はからい)を完全になくした時に初めて、世界の現象や事物すべてが良し悪しを超えて「ただただそのようである」という本来の姿を現すのだ、ということを説いたわけです。そのことを親鸞は「阿弥陀仏に受け入れられた状態」とたとえました。 ご質問の部分は、『唯心鈔文意』という書物からの引用。直前で「自然」という言葉を説明して「自然というのは『おのずから』ということ。おのずから、というのは『しからしむ』(=そのようにあらしめる)という働きのことだ」、と書いています。 引用部分はこれを受けて、「『しからしむ』(=そのようにあらしめる)というのは、どのようであれ人がはからい(=思慮分別)を捨てた時に、過去や未来にいたる一切の罪が転じて善となることを指すのだ」と説明しているところです。 道元の批判する「自然外道」というのは、仏教一般の解釈とは少し違うのですが、平たくいうと「人間は何もしないでもそのまま悟った存在である」ということを説く立場のことを指します。その立場の代表が、バラモンの一派であるインドのセーニカ学派です。 彼らの主張は、「人間誰にでも、思考や感覚の中枢である“心”が存在する。これはたとえ身体が滅んでも無くならない常住不変の実体である。これは汚れのない清浄な存在で、その存在に気が付きさえすれば、それを悟りというのである」といったもの。この考えを、道元は『正法眼蔵』という書物のなかで繰り返し批判しています。 ただ、「人は本来、仏である」という思想は、大乗仏教ではいろいろと論じられてきた歴史があって、仏性論、本覚思想など非常に広がりがあります。道元は、必ずしもこういう思想すべてを切り捨てたわけではないので、実態は少々ややこしいものです。 ここではとりあえず、道元が否定したのは、悟りの本質に実体があること、そして、悟りのためには修行は一切必要ないという主張である、ととるとよいと思います。つまり、道元の否定した「自然」とは、「修行をしない、素のままの状態」という意味だということ。 吾我というのは、いわば「欲望や執着を持つ存在としての私」といった意味です。執着の対象の最たるものが自分自身であるので、そのように言うわけです。 「宿善の~」は、「前世で善行をたくさん積んできたおかげで」という意味。「宿」というのは、「宿敵」などと使うように、「前世からの」ということです。
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- neil_2112
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ご質問の内容は別段難しいことではなくて、むしろ基本的なことだと思います。 ただ、あまりに宿題然としている(笑)ので、少々答えにくいのです。 よろしければご質問の背景を教えて下さい。
補足
宿題ではありません。 公務員試験を受けるため、高校の人文系の参考書を通読していたところです。 これは倫理の巻末の問題なんですが、本文を見ても、原文がまったく載っていなかったのです。
お礼
わかりやすいご説明ありがとうございます。これって古文をやらないとわからないんでしょうね。 公務員試験には出題されませんが、古文、漢文も機会があったら勉強しようと思います。