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悪という概念の役割について
江原氏(スピリチュアカウンセラー)の本を読んでいたところ、守護霊の話についての部分で、 「守護霊はどんなにその人が悪党であっても見捨てずに最後までよりよい方向に導こうとする」 というような内容が書かれていました。 そこで、ある仮説を立てました。 天上人(霊界、あの世の人)には悪という概念がない。 考えてみると悪という概念は他者(神、他人、動物、自然、物)との関係の上でしか存在しないと考えられます。 すると、肉体を持たない天上人にとって他者は存在するにしても関係自体にたいした意味を持たないのではないでしょうか。 働く必要も、食べる必要も、眠る必要もないのですから、他者との関係を必要としないはずです。 他者との関係が極端に希薄な彼らにとっては「悪という概念」は事実上無意味に等しいのではないでしょうか。 すると、肉体を持たない天上人にとって『善』は蓮の花のごとく美しいものでしょうが、肉体を持ち他者との関係を維持せねばならない我々にとっては時に非常に危険な代物となりうるわけです。 地獄への道は善意によって舗装されているなんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っているのですから。 そこで、結論として、 『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 「悪」とは独善という名の『善』なわけですから。 皆さんはどう思われるでしょうか。 ちなみに、死後の世界があるとか無いとかは気にしないでください。
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ありがとうございます。様相が分かりました。では、話を展開してみましょう。こうなると、皆が皆、自らのうちに絶対の善を持っているといえるかもしれませんね。善が相対的であると判断するのは、あくまで他人にすぎない。当人にしてみれば、絶対のものであるのです。 絶対の善をもつ者同士は、会話できないことでしょう。意見が合うか、合わないか、二つに一つです。そして、一方が一方に「悪」だと通告して、相手の独善を制止するのです。例に出ているオウム事件も、加害者と司法との話が通じなかった。お互いが、お互いの善を主張し合い、食い違い、政治的に弱い方が負けただけです。どうやったら、あれは相互的に理解できたのでしょう。 私は、オウムのポアが正しいとは思いません。しかし、田原総一郎みたいに、テロ組織にもある程度の理があるという主張もある(「我が心のアルカイダ」)。私は田原の理屈をあまり信じていませんが、凶悪犯だから、ともかくダメだと裁くのは一面的であるという主張は、同意するところです。相手側の動機を明らかにしていく作業も必要だと私は考えています。 しかし、これは労力がかかることです。オウムに関していえば、関与したジャーナリスト(田原ではない)は、一生の大部分をそれに捧げることになったそうです。辛かったと仰っているのを私は講演会で聞きました。というのも、対話の相手として、オウムは楽しいものではないからです。相性も、そのジャーナリストと悪かったのでしょう。ともかく嫌な相手だが、放送に携わるものとして関与する責任を感じ、相手を理解しようと努めていたということのようです。 オウムに限らず、身近な人間関係でいっても、相互理解は、何年もかかる作業です。労力を考えると相手を選ばないわけにいかない。自分にとって、どうしても必要だと考える相手とやりとりしなければ、人生を無駄にしてしまう。絶対的な価値観が、ただぶつかっているだけのコミュニケーションは、実際、ウェブ上の議論にいくらも事例がありますし、私も遭遇しました。ウェブという、行き当たりばったりの場で、じっくりと関係を築くのは難しいことです。しかし、異質ではあるが、ぶつかり合うことで生産的な話ができる相手もいます。逆に、双方を傷つけるだけの相手もいる。これは相性というべきでしょう。私はウェブ上では、自分と異質な方と出会い、新鮮な気持ちになることを楽しんでいます。こうした楽しみ方は、見方を変えれば、浅い範囲に交流を留めているということもできます。 しかし、人間は不思議なものだと感じるのですが、独善なら独善でよい、と開き直れる人は少ないものです。なぜか、他者を必要とする。不安だから、他人に「正しい」と同意してもらうことで、自分の歩みを確認したいのでしょう。批判を受け付けるという行為も、結局、相手の批判に同意して自分が変わることで、他人に「正しく修正された」と言ってもらうためのものです。しかし、繰り返しになってしまうわけですが、客観的な「善」は存在しない。だから、誰に「正しい」と言ってもらおうと、独善には違いないのです。しかし独善で済ませたくないという気持ちが、人にはあるのですね。これが人間の不毛さであり、同時に、活力の根源になっているものだろうと思います。 ちょっとご質問から逸れる形で展開してしまったかもしれません。
- hakobulu
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#21です。 完全なる悪は無い、という点では一致しているんですよ。 相対的善悪を超越した存在がある、という点でも一致しているでしょう。 私はそれを自然・摂理と呼び、シフトさんは絶対善と呼ぶ。 呼び名こそ違え、基本的な構造把握としては大差ないというか殆ど同じと言えます。 つまり、 >もしかりに「必ず最善の選択をする法則」を絶対善と呼ばなくても、 : という注釈が可能なのであれば、この点に関しての論議は不要になるでしょう。 そこで、個別の表現について反論していてもきりがないので、視点を転換することになるのかどうかはわかりませんが、少し建設的(と思う方向)に進めてみます。 他の方々との間で取り上げられているオームの件が具体的で論議しやすいかもしれませんね。 あの事件の被告たちに欠けていたのは自我です。 自分の考えだけに凝り固まっていたかのように受け止める向きもあるかもしれませんが、本質はそうではありません。 麻原という人物に絶対性(絶対善)を求めたことが誤謬の発端であり結果と言えます。 個別の生育環境を云々するだけの資料がないので省きますが、言ってみれば彼らは自我をスポイルされた人々であったわけです。 当時出版された林郁夫の手記も持っていますが、また被告としての彼ら大多数の供述を聞いても明らかなように、教祖には逆らえなかったというのが犯行を思いとどまれなかった大きな理由のひとつになっています。 自分のことだけ考えての独善的行為という側面も確かにありますが、それを許したのは、このような自我の脆弱さであったわけです。 つまり、本当の意味で自分にとっての善いこととは何か、ということを判断する本当の意味での自己愛能力に欠けていたわけです。 教祖(神)に自らを丸投げするわけで、そこに自我の片鱗も存在してはいません。 自我自我とうるさく言う必然性を多少はご理解いただけることでしょう。 さて、このような相対的悪を為した者をどのように捉えるべきか、これは案外重要なことでしょう。 悪という概念に対する捉え方自体が悪を呼び込むこともしばしばある、というのはむしろ必然とも言える法則だからです。 今回のご質問は元々、このような局面を想定してのものだと考えていた次第です。 (1)世間一般では絶対悪だと捉える。 (2)私は悪と善とのバランスの狂った結果に過ぎず絶対悪とは言えないが相対悪である、と捉える。 (3)シフトさんは、絶対悪と言えないばかりか絶対善の一端に過ぎない。しかし相対悪である、と捉える。 この場合、絶対善という概念はどのような有意を持つだろうか、というのが当初から呈している疑問なわけです。 私の見解についてももう少し言及してみると、彼らを絶対悪と一概に突き放してしまうことは非常に危険であると考えます。 突き放してはいけない、ということはつまり、あくまで我々人類の一員として認識する必要がある、ということです。 今回のご質問に回答しているうちに色々考えさせられたのですが、結局、どのような悪であっても認めなければならない、ということではないかと思います。 我々を含む人類としての悪が為された、と認めるという意味です。 為された悪自体は糾弾されてしかるべきです。 しかし、それを為した人間自体を否定することをしてはいけない、ということではないかと考えるようになりました。 なぜなら、わたしたちは有形無形の関係性の中で生きており、関係性が存在する以上わたしたちは世界に対しての責任を免れることはできない、と思われるからです。 悪人を許す必要は無い。しかし認める必要はある。 今回のご質問での遣り取りを踏まえて、従来からの懸案が幾分ほぐれてきたような気がします。 ありがとうございました。 (そんなことはないと思うので)蛇足でしょうが、少なくとも江原某にかぶれるのだけは勘弁してほしいのものです。^^;
お礼
なるほど、hakobuluさんのいうところの自我は平たく言うと人格形成のことですね。 人格形成がまともにできていなければ自我を超える、自我の終焉は100年早いと言えるかもしれません。 >絶対善という概念はどのような有意を持つだろうか ここは私も正直よくわかりません。 私たちの一人一人が一つの宇宙のごとき存在で60億通りの宇宙規模の可能性を持って生きている。 そのための担保かなとなんとなく思います。 道徳的善悪は人間社会から自然発生的に生まれたものではありますが、人の発明品とは思えないのです。 人の発明と言っても自然の模倣と再構成なわけですから、道徳的善もやはり模倣されたものだろうと思うのです。 おそらくそれが絶対善(私の言うそれかどうかは別として)でしょう。 ご回答ありがとうございました。
補足を頂きました。モラルに絶対的な判断がないというのは、それはそうでしょう。そういう考え方は十八世紀の末に流行ったようですよ。自然や真理は特に善であることを求めていない、だから自由に生きていいはずだ、という理屈です。リベルタンというのですが、サドの小説を読むと、そういうはじけた人たちの様相が分かります。 ――これはこれで、私も最初、想定していたことでした。なるほど、絶対性を認めず、相対的な価値観しかないという言説は、モラルとか、美学に限らず、現代では何でもそうなりました。絶対的な貧困はない、相対的な貧困があるだけだ、とか(柄谷行人)。私はこの点については、特に反対も賛成もありません。現実がそうなっているからです。おそらく王政であるとか、絶対的な存在がある社会では、絶対者が定めた絶対的な価値観があるのでしょう。だが、民主主義の社会では、絶対者はいないのだから、相対的な価値観しか生まれないものです。政体によって、生まれる価値観は異なるのです。リベルタンが誕生した時期は、民主主義が起こった時期です。 しかし、王政から民主主義へ移行する時期なら、この考え方がめずらしいのもわかりますが、今となっては、失礼ながら、当たり前じゃないの?という感想を私は持っています。とはいえ、この質問の面白いところは、悪がリミッターになっているというくだりです。これは、どう理解したらよいですか。オウム真理教にリミッターがなかった理由は「悪」という考え方がなかったと仰っているように思える。だが、この「悪がない」という意味は、自己批判の見方が無いということと同義でしょうか。この点が、オウムの例と言われるのみでは、よくわからないのですが。
お礼
ご回答ありがとうございます。 まずは下記のリンクの質問内容を読んでみてください。 http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6178389.html この絶対善という考えをベースにしています。 私は「善悪」を2つ想定しています。 一つは道徳善悪(相対的善悪)、もう一つがリンクにある絶対善悪 ※とくに断りがなければ善とは相対善、悪とは相対悪とします。 どんな人の行為も絶対善の法則に従って行動した結果によるものです。 オウム真理教の信者たちもこの法則に従ってサリンを地下鉄で撒きました。 当然、彼らは自分たちは正しいことを行っていると思っていたはずです。 ですから彼らにとってはサリンを撒くことは善なわけです。 しかし、他者(世間)から見ればこれは立派な犯罪で道徳的には悪なのです。 彼らの善(独善)をほっておけばますます被害者が増えてしまったはずです。 それは我々からすれば問題なわけです。 ゆえに彼らの善(独善)を悪と評決したわけです。 そして彼らを捕まえ刑務所に入れて独善的行為にリミッターをかけたわけです。 自分たちは正しいと思っている独善という善に、悪という概念がそれにブレーキをかけているという仕組みです。 自分たちは正しい行いをしているから人は行動するのではないでしょうか。 ゆえに暴走するとすれば悪ではなく善なのです。 悪とは他者の評価であって本人のそれではないのです。 リミッターをかけるのは通常他者です。 なぜなら、悪は客観的にしか存在しないからです。 自分を悪人だという人もいますが、それは自分自身を客観視した結果です。 この説明でわかるでしょうか?
私は江原氏の霊界は、さっぱりわかりません。が、悪の役割という視点が面白いなと思って、ご質問を覗いていました。 善(独善)の暴走を止めるのが悪の役割だと仰っていますね。独善の例はいろいろ思い浮かびます。たとえば、イラク戦争をはじめとするパクス・アメリカーナなど、その壊滅的に困った事例かもしれません。アメリカが世界平和に関与するべきだと思っているが、その結果、紛争が引き起こされてしまった。しかし、やっている当人らにしてみたら、それは「美」かもしれません。 アメリカの事例については「美でも何でもない」と冷笑される可能性があるので、他の事例を上げれば、赤穂浪士の討ち入りなど、どうでしょうか。赤穂浪士はテロ集団ではあるが、忠義であるなど、美的に正しいと評されます。赤穂浪士の討ち入りは、テロ活動が当人らも正しいと思い、かつ、周囲も正しいと認めたような事例です。ここでいう「正しさ」とは、モラルの正しさではなく、サムライの精神性と照らし合わせて「美」として「正しい」という意味です。「美」が独善のアクセルを踏んでいるわけです。 が、悪が善の暴走を止めるバランスをとると仰る。そこで、私は、この「悪」とは、どういう意味なのだろうか?と考えてみました。 ・美:独善に拍車をかける、 に対して、 ・醜さ(悪):独善にストップをかける、 とお考えなのですか? ちなみに美学の概念では、「悪」に「醜さ」、という意味が含まれております(※悪に含まれる意味は、モラルとしての違反という意味だけではないのです)。 しかし、私が見当違いな解釈を質問から引き出したのかもしれません。質問を理解するにあたって有益な悪の事例について、具体的に教えてもらえないでしょうか。これは補足をお願いする投稿ということになりますが、既にそれを論じてしまったのなら、その箇所を示してくださったら幸いです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 なるほど、確かに悪には醜さを伴いますね。 ただ、美醜も道徳的善悪と同様に絶対性を持たないのではないでしょうか。 その花を美しいと感じるかは人それぞれです(醜いと思う人はまれでしょうが) 悪とは他者との関係性をあまり考慮せず、関係が破壊されても我関せずという態度の総称ではないでしょうか。 オウム真理教の事件はわかりやすいのではないでしょうか。 彼らは自分たちは正しいことを行っていると信じていますので、彼らにとって自分たちは善です。 しかし、私たちから見ればサリンをまいたり、ポアと称して人殺しをする集団ですから悪です。 つまり立場によって善悪が入れ替わってしまいます。 これが道徳的善悪の特徴ですね。 「私は正しい これが争いの元である」 という言葉が示す通り私たちは常に自分は正しいと思っているのです。 これは傲慢とかいう問題ではなく、そういう法則(絶対善)に基づいて行動しているがゆえの自然な心理状態なのです。
- satol2012
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この世界は、仮の世界です。善と悪、神と悪魔、調和と不調和、自然と脳が、交わる事が目的で作られた世界です。だから不完全です。宇宙の太極は、完全調和の世界です。調和の世界が、成長拡大するためには、まわりの周辺部の、不完全、不調和を、調和に変換する必要があります。そこで変換する場所として、仮の世界の地球が創られました。ここで不調和世界の脳と、調和世界の自然の心である神が、出会う事になりました。そこへ調和の世界から、宗教で言う神の子の無我が来て、不調和世界の脳の自我と、合体して、人が誕生しました。だから人の心は、自我と無我が合体して出来ています。最初の頃は、無我が強く自我が小さいので、神の超能力がありました。だから神と人の合いの子である、神人と呼ばれていました。アトランチス古代文明頃までいました。神人がピラミッドを創りました。現代は、人は、自我が強く無我が小さいので、神の超能力はありません。そして人は、脳が自我が自分だと勘違いをしています。人は本当は、無我の神の子です。しかしいよいよ仮の世界が、終わる時が来ました。終わると、仕切り直しになるので、人の心は、脳の自我と、神の無我が、解体されて、それぞれ元の世界へ帰ります。脳の自我は、不調和世界の脳の世界へ、神の無我は、完全調和世界の神の世界へ帰ります。人は、神の子だから神の世界へ帰ります。
お礼
ご回答ありがとうございます。 ちょっと質問があります。 >この世界は、仮の世界です。善と悪、神と悪魔、調和と不調和、自然と脳が、交わる事が目的で作られた世界です。 なぜこの物語に神が登場するのですか? 神が役者として登場するなら、神以上の存在が脚本家としているはずではないでしょうか。 >調和の世界が、成長拡大するためには、 なぜ調和しているものが成長拡大する必要があるのでしょうか。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
#20です。 >(必ずしも善=独善ではないですが、悪=独善ですよね) このように悪を善に置きかえて説明できると思います。 そうすればジレンマは解消されるはずだと思うのです。 : 平たく言えば、悪さをしようと思って(志して)する人間はいない、ということでしょうが、それには全く同意します。 ただ、そもそも善に対して独という注釈を付けざるを得ない状況を悪と呼ぶわけですから、ジレンマの解消とはいかないでしょう。 独の状態で善が成立すると考えることが悪につながるのだと思います。 独の状態で善が成立するはずがないと気がつけば、その本人にとっての独善は否定されます。 善というのは関係性における評価として生まれた言葉ですから、これはむしろ自然な捉え方です。 この意味で関係性を必要としない神をはじめとする天上人に善は不要というか、その概念を適用することは不可能なわけです。 >私という中心を持つ自我には他者を許すのも一苦労です。 相手を許すかどうかの権限は私という自我がもっているので或る意味傲慢です。 : 自我ゆえの独善とおっしゃっているのだと思いますが、それはたぶん違います。 自我というのは人としての支柱みたいなものです。 他者からみれば邪魔になるものですが、それがなければ立てないことは万人に共通しています。 自我がなければ優しさすらも発揮することができません。 >私という中心を持たないのであれば許すも許さないもないのではないでしょうか。 自我を中心に考えると苦労が絶えないと危惧します。 : しかし、我々は天上人になることはできません。 なったと錯覚することはできるでしょうが、諸々の新興宗教(に限らず宗教というもの)が破綻していく(いる)のは、ないはずの絶対善を求めるからではないか、と考えています。 自我は無いものにする対象ではなく、乗り越えるべき対象と言えます。 わたしは自我至上主義ではありませんが、エネルギー体としての人間の基本なので無視することはできないということです。 それぞれの自我があってこそはじめて関係性を築いていくことができます。 たしかに相対善の本質は所詮独善でしょう。 しかし、相対善=独善 に近づけていくのが人間の営為なのだと思います。 仮に絶対善というものがあるとすれば、究極のすり合わせに近づこうとする、この営為そのものを指すのではないでしょうか。
お礼
ご回答ありがとうございます。 この質問は絶対善(必ず最善の選択をする法則)をベースにしていますが、hakobuluさんはどんな形にしろ絶対善はないとするのですね。 私は絶対善と相対善(道徳的善)は分けて考えており、絶対善から相対善を見るとこう見えますよと書いています。 もしかりに「必ず最善の選択をする法則」を絶対善と呼ばなくても、 善も悪もすべてはグレーの濃淡差である。 完全な黒、完全な白はこの世界にはなく、 濃いグレーを「悪」、薄いグレーを「善」と呼ぶ。 濃淡の違いはどこまで他社との関係性を考慮しているかで決まる。 という現実に変わりはないのではないでしょうか。 書いてみるとひどく単純なことのように思いませんか。 ジレンマがあるとすれば心理的な要因でしょう。 連続殺人犯を濃いグレーとは普通は考えませんからね。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
#13です。 >(自然、摂理といった)そういう側面はもちろんあるんですが、最善を必ず選択するなんて神の意図を感じませんか。 : それで絶対善ですか。 もし絶対があるとすれば、自然というものであり、それはまた単なる宇宙的エネルギーの盛衰・変化の一過程にすぎないものではないでしょうか。 絶対があるとしたら善でも悪でもないものですよ。 善のみのこと、悪のみのことはあり得ず、善悪はワンセットで存在するしかないでしょう。 悪の伴わない善は、表面だけのコイン、あるいは2以上を想定していない1という概念を認めるようなもので論理的とは言えないんじゃないですかね。 悪に対する恐れがあるからこそ生まれたのが善という概念でしょう。 悪が想定されていない天上界には悪も善も存在しないわけです。 下界から見て、その状態を善と呼びたいという願望が宗教を生み出したと思うのですが、それは真理と善との混同だろうと思います。 真理に善悪の区別はないはずです。 >もちろんそうですが、単独で存在しうるのは道徳善ではなく、絶対善です。 なぜなら、絶対悪がこの世界には見つからないからです。 : 悪でも善でもないものが存在しても問題はないでしょう。 >サタンの罪(絶対悪)を許す必要はないですが、人のそれは許すことが必要なのだと思います。 なぜなら本人は絶対善に基づいて行動しているのですから。 : なるほど。 他者を許すということの論理性についての模索だったわけですね。 たしかに、これはより善き世界の構築に向けては重要な視点です。(個人的な見解として、より善きとは可能性の拡大、というほどの意味なのですが。) この点について、わたしは以前、憐れみによって憐れむ側も憐れまれる側も救済されるのではないか、と考えたこともありましたが、他者への憐れみは自らの自我の単なる抑制によってしか得られず、無理が生じるだろうと考え他の途を探っている段階です。 「許すことが必要」ではなく「許すことが自然」と納得できるような論理。 悪意のある言動を望む者はいない、というのが私の持論ですが、しかし、悪意のある言動をしないと身が持たなくなるという状態に追い込まれてしまうという者もたしかに存在します。 他者との関係性に関わってくる問題ですが、今回のご質問に照らして言えば、悪を望むものはいないが結果としての悪は存在する、ということになるかもしれません。 そのように追い込まれてしまった状況というものを、どのような論理で共有していくことが可能か、というあたりがヒントになるような気はしているのですが、なかなか難しいです。 相対悪ではあるが絶対悪ではないので許す、ということだと、相対という現実社会での関係性を超越する、もしくは否定する必要が出てきますよね。 ここにジレンマが生じるように思われます。 絶対善、絶対悪の有無は別にして、また善と悪の定義は置いておくとして、これらが絡み合っているのが善悪という概念の領域ではないでしょうか。 なにしろ、悪と言った段階で言った当人も悪を理解しているわけですから同類項というわけですしね。 どちらの水準にまでも近づくことはできるが、一方が完全に失われてしまうことはない。
お礼
ご回答ありがとうございます。 いわゆる神(自然といってもいいのですが)の用いる善(絶対善)と、私たちの善(道徳善)とは全くイコールではないわけです。 神の善は関係をあまり考慮していないという点で人間には使いづらいのです。 ゆえに、関係性を考慮した道徳的善悪が生まれたはずなのです。 ですから、相対善がそうだからといって絶対善もそのはずだという事にはならないのではないかと思うのです。 道徳的善悪は本質的に相対性を持つがゆえに、Aさんには善、Bさんには悪という風に評価結果が分かれてしまいます。これがジレンマとなるわけです。 これを統一する概念が絶対善と独善だと考えたわけです。 どんな悪も絶対善がベースとなっているのでこれは独善という善である。 (必ずしも善=独善ではないですが、悪=独善ですよね) このように悪を善に置きかえて説明できると思います。 そうすればジレンマは解消されるはずだと思うのです。 >他者への憐れみは自らの自我の単なる抑制によってしか得られず、無理が生じるだろうと考え他の途を探っている段階です 前にも書いたことがあったかと思いますが、hakobuluさんは自我ありきなんですね、 いっそのこと捨てちゃったらどうです? おっしゃる通り、私という中心を持つ自我には他者を許すのも一苦労です。 相手を許すかどうかの権限は私という自我がもっているので或る意味傲慢です。 私という中心を持たないのであれば許すも許さないもないのではないでしょうか。 自我を中心に考えると苦労が絶えないと危惧します。
>絶対善における独善の暴走じゃないでしょうか。 なんか自分の間違いを恥ずかしいか何かの劣等感コンプレックスを隠そうとしてごまかそうとしてません? ご自身初め >『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 と書いてるんだから独善の暴走というのとは全然違うじゃないですか あと絶対善はほぼ独善と同じ意味ですよね? >他者はそれを見て「これは悪だ」と評価します。 まあそうですね。その評価は実は多様性があると私は思うわけです。 >暴走するのは常に善ではないでしょうか。 まあ絶対善とか独善という意味ではそうでしょうが悪というのは2次的な意味合いだからその逆の善という意味合いでは常に善が暴走するという訳でもないでしょう。 >当人は悪い事をしている自覚がないのですから。 そんな事は無いと思います。殺しが良くないという自覚もそこそこはあったと私は思うわけです。実行犯が無自覚で人殺しを実行したとは言い難く「人を苦しめるだろう」位の自覚はあったと思いますがオウム教団圧力の方が勝ったということでしょう。 >「悪」と評価するのは大抵他者です。 まあそういう側面はありますが悪いと自覚して行った人も悪とある程度は認識している筈です。 >ポアという救いを彼らは大まじめにやっていたのですから それは言えてますね暗示の方が勝っていた事は事実です。
お礼
質問を立てる前から私の中では分かり切ったことなのですが、 私の説明が悪いようでごめんなさい。
- littlekiss
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こんばんは、shift-2007さん。 (*^^*)v ほんまに好っきゃなぁー 『大奥』ときたか? 襖、開けても開けてもまだまだ先へとつづいてる ほな、引き続きいきまっせー 今度はこの襖の向こうにどんな景色があらわれてくるのか? 「特定の」カカァはいりません。 ↑ て、えらいキッパリ言うところをみると、これ「三行半」いうやつ? ああ、きけばきくほど涙が出る 「三行半をたたきつける」 ほんまやなぁー、男やったらいっぺんは山の神に向かって強気でこうでてみたくなるんやろうなあー(願望?=暁には) そやけど、山の神はお家の中じゃ大蔵大臣やしねぇー、いくら殿といえどもお金自由にならんのよねー。財布の紐が堅いんよねー。殿には内緒でちゃっかりタンスにヘソくってる。上座に置かれ手も足も出ないとなってくると、「よきにはからえ~」と言って済ましてきてたとしても、そのうち堪忍袋の中にフラストレーションいっぱい溜まってくるわよね? 心中お察し申し上げ候。 で、後生大事にタンスの中に眠らせ、ほぼタンスの肥やしと化したヘソクリをだね、ある日ある時、頭からスッポリと頬被りをし、背には大きな唐草文様の包みを背負ったこそ泥さんが襖を開け家に忍び込んだとしなさいな。こそ泥さんは鼻が利く。しまい込んだお宝の在処みつけることは造作もないこと。あっさりお目当てのもの見つけ、背中に背負った包みを解き風呂敷広げ手馴れた手つきでしまい込む。タンスの中のヘソクリはものの見事にスッカラカン。 明くる朝、部屋の異変な気がついた殿方と奥方 それぞれに「こんなことになるのなら……」とポツリ言葉をこぼし沈黙した。 さて、さて、このお二方がこぼした言葉「こんなことになるのなら…」 「……」この後にどんな言葉が来るんだろうね?「美・サイレント」 【初心者大奥ママの株式入門】 http://kabu.o-oku.jp/hofuri..html 【ほふりニューズレター】 http://www.jasdec.com/about/action/newsletter/ 【最新号Vol.13(2011年秋)(2,896KB)】 http://www.jasdec.com/download/data/newsletter201110_jp.pdf 【株券電子化で始まる「配当金振込みサービス」などを確認してみる……(上)各方式の確認】 http://www.garbagenews.net/archives/524155.html 【株券電子化で始まる「配当金振込みサービス」などを確認してみる……(下)各方式のメリット・デメリット各方式の確認】 http://www.garbagenews.net/archives/524159.html http://edit.dailynews.yahoo.co.jp/fc/economy/stock_market/diff_history/?vn=344 大奥 - 【日本の歴史巡り】 http://www.jphistoryrd.com/edo/ooku.html 【婚姻形態から見た中国の儒教家族】 http://www.geocities.jp/jukyosikai/kazoku/konin.html 【儒教倫理と資本主義の精神】 http://ritsumeikeizai.koj.jp/koj_pdfs/42401.pdf ♪(*^ ・^)ノ⌒☆ もってけどろぼう~♪
お礼
ご回答ありがとうございます。 そうだね、まずは先立つものだね。 色男、金と力は無かりけりだね。 そうだね、 そうだよね、 そうだといってくれ、 足りないのは金と力だけだと言ってくれ。。。 いやいやぼろを着ててもお顔と心は錦じゃ。 いつの日か、女中の帯の端を持ってくるくる回すあれ、やってみたい。
>1.最善を選択しようとする性質、これを絶対善と勝手に命名(ここが始まり)。 まず 「ここ」として示される大前提が存在し ここと言語的・意義論的に同値である「始まり」は あり それを「論者=マスター」が規定する。 勝手がいい 勝手が悪い という判断は存在し、論者によって その具体的評価が行われる。 論理としての前提については 「選択」というプロセスを前提としたとき 行為しようとする意志が存在し その行為の主体は ある種の性質を持っている。 ここで述べられる「種」というものは ねこや いぬのように 系統発生する。最善は存在し、 これ ここ という 具体的事象は、 主観的想定の上に 成り立っている。 命名権の所在は、 論者にある。 >2.全ての人はこの法則から逃れることはできない。 論者によって立てられたルールというものが存在し、その第一は、議論されている最善者 および 善が そのひと自体であるか 人を介して行われ すべての定義されるひとは 論者の立てる法則から逃れることができないと 想定する。 >3.あらゆる人の行動は本人の自覚の有無にかかわらずこの法則が作用している。 あらゆる 「理論人」 の 行動は 法則「一」を根源的規定とする現象でありその発現である 自覚のあるなし 意思のある・なしは 問わない。 つまり 選択とは 意思が介入する行為ではない。 法則性であり、あらかじめ規定された現象である。 >4.しかし、絶対善の法則にだけに従うだけなら独善的になる。 上記 「絶対善に従うこと」を独善的であると命名する。 独善的とは 論者がもつ理性のとらえた 独善という属性を名詞的に表現したものである。 この領域での現象は 法則的規定性に基づいて生じ、例外はない。 法則的規定が個別に体現されることを独善と命名することとなる。 >5.我々は他者との関係なしには生きることはできない。 善の領域を仮定する。 関係性のバリエーションとして3つのカテゴリーが存在する。 善の領域とは関係性である。 われわれ というカテゴリー、他者というカテゴリー、生命(生きるもの)というカテゴリーである。 >6.そこで、絶対善に基づく行為に対して評価する必要が出てきた。 さらに クラスとして 細分化を行う。 そこ という場所/オブジェクトとしての絶対善/ 絶対善を規定性として根底に置くプロセス=行為/ このプロセスは例外のない「善の現象」ということになるが、 その全体を評価するという更なる行為 この プロセス評価の行為は、 前提的には 絶対善の第一規定から自由ではない。/ 最後に「必然」のカテゴリー。必然は、論者の主観による規定を受ける。 >7.それが道徳的善悪(相対的善悪)。 つまり、道徳的善とは、論者の必然性という主観を通じた個別の解釈である。 個の解釈は、論者によって「最善」と命名される。 また、善の領域とは、論者が論ずるすべての領域である。 道徳的善悪の起源は、論者である。 盗人の主観からすれば良かれと思ったことかもしれないが、 おれは それが 悪行だと命名する。よって 盗人は悪である。 盗人は 「種(ジェンダー)」である。盗人は系統発生を繰り返す。 盗人予備軍も盗人である。必然である。 おれは お前を抑制する絶対善である。 というのが 質問者様の意見であるようです。 こういう考えは、間違っています。 必要・必然というのは おれおれ無学1960年代の流行であり、 安保の「悪臭」に侵されています。 結局は国土が汚染され国が亡ぶことになります。 お気を付けください。
お礼
ご回答ありがとうございました。
お礼
自分を知ることが他人への理解につながると思います。 ゆえに自分はなぜそれを善または悪と呼ぶのか。 そういう基本的なことを理解することは、おのずと他人の基本を理解することにつながるはずなのです。 当たり前と思われていることをじっくり考えてみるということは大事なことですね。 ご回答ありがとうございました。