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大切さの由来??
違うカテゴリに書き込んでいたのですが、 これから質問する事は「道徳哲学」で『哲学』になるかもと思い、こちらにも書き込まさせて頂きました。 どうかよろしくお願いいたします。 先日、12歳の子と『人間関係の大切さ』について話をしていた所、『なぜ?』って聞かれ、答えに詰ってしまいました。 その子自身、他者の気持ちになって他者を思う事は出来るし、気持ちも分るけれど、それは、なぜ、そう言う他者の気持ちになる行為が大切なのかが、分らないと言われたからです。 なんでも、学級会の時に「思いやり」いうテーマについて話し合った際に、他者の気持ちになる事が大切な事は分ったのだけれど、何故それが大切なのか?という大切さについて疑問を持ったそうです。私は当たり前の事の様に思っていたけれど・・・その「なぜ?」にお恥かしいのですが、答えられませんでした。「人は1人では生きて行けないからかな・・・」と答えて見たものの、私自身もその言葉だけでは不十分に思いました。 私も考ええるからあなたも考えておいてと、その場をやり過ごしましたが、その後私の中で考えても、もっともらしい言葉が見つかりません。 他者の気持ちになることは大切ですが、その「大切さ」をどう説明したら良いのでしょうか? ご教示願います。
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はじめまして。QNo.1086501(No.1272)「思いやりとは何ですか??」という質問を以前こちら質問したものです。 sirayukihimeからのご解答にこちらのスレッドが書かれていたので、覗かせていただきました。 私も人間関係の大切さについて様々な考察をしております。 saekiさんのご質問に私が気になることと、参考になればと思い書き込みさせていただきます。 >「人は1人では生きて行けないからかな・・・」 このことに関して。人はよく「人間は一人では生きられない」と言ったり、「人間は結局は一人ぼっちだ」と言われる場面を見ますね。これは決して矛盾していることはないんですよね。 ただ、なぜこのように考えるのか。その前提にあるものとして、「人間はほんとうはもともと一人では生きていない(生きられないのではない)」ということが存在しているからですよね。これは他者がそこにいるからこそ「もともと一人では生きていないからこそ、時には「一人では生きられない」と感じ、時には 「一人ぼっち」と感ずるものだと思います。 saekiのおっしゃる「人は1人では生きて行けないからな・・・」ということにも、もちろんこれが前提にあることです。 「一人で生きていけない」とか「一人ぼっち」と感じたりするのは揺れ動く日常生活の場での当然の気持ちの揺れではありますが、そうした揺れの基盤として人間の存在そのものを支えている「人間は一人では生きていない」という事実はあまりにも身近で当然であるために、日常の場ではほとんど忘却され、見えなくなってしまっているものです。要は、空気の存在を忘れているようなものですが。 人々はこの基本を忘れているため、人間関係の大切さというものがわかりにくくなっていると思います。 この基本的なことが存在しているからこそ、思いやりも、大切にする意味も存在しているのでしょう。 もしお時間があれば、私のスレッドもぜひご覧ください。皆さんの意見も素晴らしいものだと思います。
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- sirayukihime
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お早うございます。No.2です。 12歳の子どもさんを貴方の御子さんと勘違いしていたようで失礼しました。 哲学のジャンルで考えるようなことって大人でも、なかなか答えが出ませんから12歳の子どもではボキャブラリーも少ないですし難しいの当然だと思います。基本的な説明を尽くして、あとは自分で考えながら大人になって行きなさい、というしかないかも知れませんね。 ところで、貴方の御参考にしていただけそうなスレッドを見つけました。 QNo.1086501(No.1272)「思いやりとは何ですか??」 覗いてみられてはいかがでしょう。
お礼
御返事ありがとうございます。 はい、私の子では無いのですが、会った時は色々な話をしますので、時折、私の身近な者でさえ、私の子の話と思われる事があるようです。なので、お気になさらないで下さい。 また、教えていただいた、QNo.1086501(No.1272)「思いやりとは何ですか??」をこれから見に行こうと思います。 教えてくださりありがとうございます。 嬉しく思いました。 <基本的な説明を尽くして、あとは自分で考えながら大人になって行きなさい、というしかないかも知れませんね。 そう、伝えてみようと思います。 私自身も、これを機に、考えて行きたいなと思うテーマになりました。
他者を理解しえることは、それだけ通じている、広く世界を生きていけるということではないでしょうか。人の体験を、共有できる。影響を受ける。他者の視点で物事を見れる。そのことで、世界が広がるからです。 それに対して、あの人のあんな行為は理解できない。とか、信じられないことをするな。など、理解できない他者の行為、気持ちがあることも事実ですし、何でそんなことをするのか?という風に、他者に理解されえない自身の行為や気持ちもあります。 自身の正直さを通すことは、他者が自身を理解するもっとも近道ですし、他者が自身を理解すれば、それだけ他者の心に自身が入り込めたということになります。自身がより、他者に通じるということです。 また、他者をより理解しえるということは、それだけ、自身に他者を重ね合わせることができる、他者を受け入れることができるということですので、心が広い、つまり、より広い世界、さまざまな物事の中でも、生きていけるということです。それだけ世界が、楽しくなる。 自分をスポイルすることなく(自己実現を果たしつつ)、広く世界を生きていくには、他者を理解しえるような心のあり方が、大切な役割を果たすということではないでしょうか。 他者に圧され、自己を矮小化し、その限られた世界の中で、自己を守り続けるのは自己実現とは言えず、自己を世界にひらいてゆくこと(正直な自己主張を徹すこと、自己を曲げない、自己実現を果たせていること)、世界や他者、他存在を自己に透過させてゆくこと(他者を理解すること、広く世界を受け入れること、理解すること、自分から離れるということ、自己に囚われないということ) これらの二つの心のあり方が、相互に補完しあって、自己と他者の食い違いや矛盾、自己存在に対する不安を、ほどくのではないでしょうか。 他者の気持ちになれることは、自己を曲げないという正直さ、自己を徹すことのできる強さを支えているので、大切なのではないでしょうか。 自己を曲げない真っ直ぐな意志は、他者の気持ちになれる、広く世界を冒険していけるような、保守的な自己から離れた心のあり方を、必要としているのです。 他者を理解しようと努めることは、勇気ある行為で、自己から離れて他者の身になって理解するということは、自己に芯があるから、できることだと思います。 自己が明確で安定しているから、自己を離れていられるのです。 子供さんは、他者を理解することができる勇気を持っておられるけれど、だけれどそれが、自己を活かすことにつながっていると実感されていないのではないでしょうか。もう一枚、自己から離れ、けして他者の存在が、自己を徹す上で、障害になるものではないとわかる時が、日毎大人になってゆく中で、訪れるのではないでしょうか。 積極的に、自己を他者にアピールすることと、自己に囚われず他者を理解することは、バランスが取れているのが望ましく、もしその方が、自己のアピール、自己表現も活発ならば、他者との仲で、バランスの取れた成長をされているのだと思います。
お礼
お返事ありがとうござます。 <もしその方が、自己のアピール、自己表現も活発ならば、他者との仲で、バランスの取れた成長をされているのだと思います。 そうですね・・・様子を見守りたいと思います。 こう言った疑問を今後も、私に投げかけてもらえるような関係を保ちながら・・・。
- vagabond_0710
- ベストアンサー率26% (68/257)
こんばんは! 僕の価値観です。 「自分が嫌なことを他人にしない。」 僕はフリーターで最近はバイトもせず、読書に没頭して何ヶ月も家にひきこもっ てます。(週末は友達と遊んだりしますよ)そんな気ままな生活をして人間の不 思議さに気づきました。まず、外に出たいと思うようになり、さらに人とコミュ ニケーションをとりたいと思うようになりました。今までは何かをするために遊 んでいたのに、人と何かをするのではなく、ただ人に会いたいと思うのです。実 家ですので、孤独感からではありません。 人間は1人では生きていけないと強く思いました。 自分と他人の関係を哲学すれば、いろんなことが言えます。例えば、他人とコミ ュニケーションすることによって、新しい自分を発見します。つまり、他人は自 分を映し出す鏡です。他人を知るということは自分を知るということですね。 また、人間は1人では完結しないと思います。絶対とか完璧とか(真の健康と か)は、人間の頭の中にしか存在しないと思います。言い換えれば、みんな障害 者だし、アシンメトリーだし、不安定な存在です。 もし、1人で完結していたら、満たされていたら、自分以外の存在に対して排他 的になると思います。 そうでなく、異なる他人がいるからこそ、自分が成り立つと僕は思います。みん な一人一人個性があるように異なります。お互い違うからこそ、会う楽しみがあ るし、その中に新たな発見があります。みんな一緒なんてつまらない世界だと思 います。みんな個性をアピールして、堂々と胸を張って輝ける社会になればいい なと思います。 恋愛して、女性の世界観の中に(つまり自分と異なる存在と出会って)新たな自 分を発見する歓び、そして絶望しました。その女性と出会ったからこそ、今の僕 がいます。僕は個性的な女性が好きです。(^^v こうやって書き込みをするのも、もっとハッキリと自分をつかみたいと思うから でしょうね。もっともっとコミュニケーションしたいです。
お礼
こんにちは。 お返事ありがとうございました。 とても実のある時間を過ごされて、また、それを自分の身にされたんだと伝わるとても為になったお返事でした。 ありがとうござます。 ♯9さんを初め、この事で、様々な事を教わりました。 上手く言えないのですが、 12歳の子から教わった、この「なぜ」と言う疑問点も含め、この子も私も、教わった事が言葉や身になるように過ごしていきたいと思います。 私事ですが、一人暮らしと職業柄に友達とも休日が合わない環境で、お化けでも良いからーと、辺りを見渡した事が有ります。その環境から離れた時、生きていると実感したした時間が持てた時、ああ、人は1人では生きていけないんだと思いました。 今を大袈裟に言うなら、皆さんや12歳の子を初め、人と関わる様々な環境で、私は、生かさせて貰っている感じです。そう言った個々の体験も、「大切さ」の考えも、その大切さを説明する肉付けになって行くのかもしれないですね。
- kaitaradou
- ベストアンサー率8% (102/1147)
kaitaradouです。あまりきちんとしたものにならないかもしれませんが、忘れないうちにとりあえず書いてみます.質問や確認が必要と思われたところはご遠慮なく指摘してください. いくつかの問題点があると思いますが、まず普段自分そのものであると思っていられる(つまり周囲の人が確かに認識していると思われる自分の容貌、財産そのほかの、とにかく周囲の人が認識しているはずだと信じられる自分の所有物が、実は自分ではないと気がつくことは、特に発育途中の子供にとって果たして良いことなのかどうなのか分からなくなりました.子供は無意識のうちにもこの虚構性に気がついているとは思いますが、かといってこれを言葉を使って確認するあるいは確認させることがどういう結果になるのか分からないということに気がつきました.この虚構性は子供が成長して実社会の中で自分で気がつくことのほうが自然なのかとも思いました.これが他の方のご意見も読ませていただいた私の現在の感想です。 すこしずれていると思われるかもしれませんが私は、この問題が「どうして人間は皆平等だと言われるのか」ということと関係があることだと思うようになりました.もし人夫々の自分というものを容貌とか能力などと同一視したらどこに平等があるでしょうか?むしろこれほどの不平等はないということが直ちに実感されるにちがいありません!分かりやすい例としてアインシュタインと私とを比べて相対性原理についての理解力には雲泥以上の差があることは疑いようがありませんが、アインシュタインも私も自分とは何物かということについてはまったくというか原理的にというか、とにかく分からないという点ではまったく平等と言えると信じています.これは誰でもいつかは必ず死ぬということと似ているようにも思います.とにかくほかの能力にどんなに差があっても自分による自分に対する認識は不可能ということを知ることは、人間関係を大切にするということを真に理解するために絶対不可欠なことと思います.ものすごい富豪でも天才的な芸術家でも名声をほしいままににしている学者や政治家でも、人間である限り(神格化されている人は別です)この平等性から逃れることはできないと思います. つまり御互い自分のことはわからないので、御互い存在しているということを認めあって、分かったことにしませんかというのが社会を成立させている原理でもありますが、このために容貌や財産などという不平等なものを媒介にしてしか人は自分の平等性を確認できないというところに最大の逆説があるように思います. もうひとつの問題は現実の場面では人はむしろこの平等性を前提にして行動することは極めて少ないということです.皮肉なことに人は優越的不平等によって周囲のひとからの存在保証(=存在認識)を受け取ろうとするわけです.オス孔雀のディスプレイのように!これも人間関係を大切にすることの中に含まれてしまうところが恐ろしい皮肉のように思われます. 悲劇的な場面として自分が平等性で接しようとしているのに相手が(優越的な)不平等性で接してきたときです.このひとは存在を文字通り抹殺されてしまいます。ちょうど武器も持たず防弾服も着用しないで戦場に出向いた兵士のように.成長途中の子供をこのような戦場に連れ出すことはどう考えてもよくないと思いました. どうもこの問題はやはり[私も考えるからあなたも考えてね。」という皆さんの推賞する表現が一番無難というか適切なのかもしれないと思うようになりました. ひとまずこれで失礼します.しかし始めに申し上げた様に何でもおっしゃってください.時間がかかるかもしれませんが必ず御返事いたすつもりでおります.
補足
お返事ありがとうござます。 以前の2つお返事と共に、何度も読み返していましたので、 このお返事に対するお返事が遅くなってしまいました。 お陰さまで、理解が深まりました。 疑問に思うと点はありません。 今の理解レベルは、自分の感覚と自分の言葉の間です。この点は私に係るの問題(--)なので、何度も読み返しています。人間と言う存在の根本とと言うか、外れてはならないような、なんだか大事な事(この点も言葉になっておりませんが)を、教えていただいたような思いです。 12歳の子を思ってくださり、ありがとうございます。 皆さんもおっしゃって下さるように、 本人の今後、様々な体験で感じた事から、この「大切さ」について、上手く肉ずけして行けると良いなと、なんとなく伝えてみます。
- kaitaradou
- ベストアンサー率8% (102/1147)
なぜか私の返事が前のカテゴリーの方へ入ってしまいました。それをご覧になってください。
補足
ありがとうございます。お返事をお待ちしております。 無知な私は、ヒントになるような事が書かれている本はないかと図書館に行ってみました。 書かれている内容が、求めていた事と違ったりして、本の選択ミスでは無いようにと思いながら難しい言葉を辞書で引きつつ、悪戦苦闘しながら読だした所です。 年末のお忙しい中、kaitaradouさんを巻き込んだ形になってしまいましたが、考えてくださる方が他にもおられると思うと、心強く思い、また嬉しく思います。 ありがとうございます。 お返事をお待ちしております。
- mktoolll
- ベストアンサー率22% (20/88)
他人の気持ちになることが大切という考え自体は、精神的な荒廃が存在している社会だからこそ「定着させたい」と願う祈りのようなものだと感じます。 つまり、「他人の気持ちを考える」という行為は純粋に平和な世界では意識するようなものではないのだと私は考えているのです。 なので、子供が疑念を抱くのは当然だと思うのですよね。だって彼ら彼女らは、精神的には純粋に平和な世界に暮らしているのですものね。「なんでそんな分かりきった事をいちいち言うのだろう・・。」とね。 だから、大人は「何故そのことについてわざわざいうのか。」という部分について教えてあげれば良いのだと思うのですが、もちろん哲学的な部分を大いに含むので決まった答えなどはありません。私であれば、 「この世界は残念なことに壊れかけているの、だから、みんなが力を合わせて本当に平和な世界を創らなきゃいけないんだよ。「他人の気持ちになることが大切」って言う気持ちを皆が忘れないことで、世界は少しづつ幸せな方向に進むことができるんだ。だから、そういう気持ちを確認して忘れないでいるってことはとっても大切なんだよ。もしも、「大切だって分かってるけど自分には関係ないや!だって面倒だもん。」って言う人ばかりだと世界はちっとも幸せな方向には進まないよね?ころんで膝をすりむいて動けない時に「大丈夫?」って言われると、それだけでうれしい時ってあるでしょう? 泣いている人に「大丈夫?」って言える一つ一つを積み重ねる事が悲しみのない世界を創る唯一の方法だから「他人の気持ちになれること」はとっても大切なんだよ。」 と言う感じで伝えると思います。 これが参考になるとは思いませんが、私であればそう言うだろうという感じで書いて見ました。
- neo-faust
- ベストアンサー率42% (18/42)
#5です。書いてしまってから、再び考えました…。お子さんが私が書いたようなことを全て理解していて、なお且つ「何故」という疑問があるのだとしたら、結局質問者さんがおっしゃった「私も考えるからあなたも考えてね。」という言葉が一番正しい答えなのではないでしょうか。一言で答えを「教えてあげる」必要はないと思います。「これから(一緒に)考えていこうね」というのはすばらしい答えなのではないでしょうか。
お礼
年末のお忙しい中、お返事をありがとうございます。 全て理解していてそれでもなぜと浮かんだようだと、解釈したのですが、私自身は、そう言うものだからという解釈で生きてきたように思います。なので、なぜに対して言葉が見つからなかった自分を恥かしくも思った出来事でした。 「私も考えるからあなたも考えてみてね」と言葉がでたのは、偶然でしたが、neo-faustさんの言葉にすこし 安堵?の様な気持ちになれました。 今後も難しい題材に、自分なりの答えがあったとしても、まだ、12歳。成長していく中で価値観はいろいろ変化していくでしょうね、きっと・・・。
- neo-faust
- ベストアンサー率42% (18/42)
こんにちは 「由来」という風に考えると、話が難しくなってしまうのではないでしょうか。それこそ哲学的というか、人によって捉え方も千差万別の意見になる気もします。 そこで「現実的な例」を挙げて皆で考えてみてはいかがでしょうか。私も3つほど考えてみました。 (1)例えば地震の被災地に何を送るかを考えてみる。自分の贈りたいもの?自分の家に余っているもの?それより相手の立場や気持ちを考えててみることが一番必要なのでは?地震は日本中どこにでも起こるし、明日は自分が被災者になるかも知れない、その時どう思うか、ということも付け加えれば、さらに現実味も増すかと思われます。 (2)いじめや万引きはやるほうは楽しいけど、やられた方の気持ちはどうか、その身になって考えてみる。これも自分も被害者になりうる可能性が大きいので考えやすいのでは? (3)例えばかなり混んでるデパ地下。自分は向こうのソフトクリーム売り場に行きたいが前のおばさんが邪魔で行けない。おまけにソフトクリームには長蛇の列。こんなとき自分の気持ちだけ考えるとイライラしますよね。でも自分にとっては邪魔なおばさんでも、おばさんにとっては夕食の買い物は大切であるし、また自分にとってはうんざりするような列も、他の人達がソフトクリームを食べたいという気持ちは、自分が食べたいと思う気持ちと同じく尊重されないといけないものだということを理解する。 ……ちょっとあまりに現実的過ぎて、深みがなかったかもしれませんが、あまり難しく考え思想的になり過ぎると言葉の堂々巡りで終わってしまうのでは?と思ったものですから…。 色々な例を示せば子供達が自分で考え、感じ、答えを探すことができるのではないでしょうか。 それでは…、頑張って下さい。
- kaitaradou
- ベストアンサー率8% (102/1147)
前の時にも意見を述べたものですが、そのとき「それ」と打つべきところを「おれ」とミスタイプしたことが気になっていました。 前にも書いたことですが、人間はお互いにというか誰でも自分のことだけはわからないというのは自分とは何(者)かということを自分で考えても分からないということに起因していると思います。これは人間である以上ソクラテスであろうとアリストテレスであろうとデカルトであろうとアインシュタインであろうと言えることだと思います(神格化されて居ない人なら誰を持ってきても良いと思います)。まして我々凡人にはとてもこの問題は難しいわけです(私は不可能と信じています)。普通の人は意識していなくても自分とは何者に対する答えを出せないことを知っていますから、地位とか容貌とか財産とかを自分の代わりに自分ということにしているわけです。これをお互いに認め合おうというわけです。そしてこの約束が社会を成り立たせている原理なわけです。又これがいわゆる人間関係を大切にしなければならないということにもつながるわけです。関係が悪ければ認めてもらえないわけです。関係がよければ互いそれを自分ということにしましょうということにもなっているのだと思います。これがいわゆる「おとな」であるということです。しかしまだ「おとな」になっていない子供はこの原理の虚構性を敏感に察知してしまうわけです。これが「何故・・・?」という発言になるのだと思います。多くの要領のよいというか普通の子供は、受験などの経験から(多くは周囲のおとなのふるまいから?)「おとなの論理」を身につけて「何故・・・」を言わないようになってしまうのだと思います。 この『何故・・・・?』はそれを発する子供にとって両刃の剣です。社会の落ちこぼれになってしまう可能性があるからです。落ちこぼれという言葉が何か引くいいあるいは悪いことのように感じられるのはおとなの感覚ではありますが、やはり落ちこぼれない方がよいというのも事実であろうと思います。 もう一度前のコメントを読んでいただけないでしょうか?
補足
こちらにもお返事をいただけ、嬉しく思います。 間違って解釈しているか、いないかどうか確認させてください。 <自分の事を他の人に保証してもらいたいという事に~ 保証というと・・・「自分」がいると言う事を他の人に「認識」してもらいたいと言う事でしょうか? (認識と置き換えると分りやすかったのですが、違う意味になってしまうまうかしら・・・) その「自分」を説明するものが、地位とか容貌とか財産とか目に見えるもの場合があって、それを認め合うのが大人社会とか人間関係と言う事で、話は戻りますが、そう言う互いを認め合う手段に「他者の気持ちになる」と言う方法を用い、その方法がなぜ大切かというのは、話が更に戻って、「自分」「他者」がいる事の保証となる・・・ と、浮かんだのですが、そう言う事でしょうか? <他の誰かに自分が存在していることを保証されないと不安になってしまうのだと思います. 誰かに自分が存在していることを保証されないとなぜ人の気持ちは不安になるのだろう・・・不安を取り除く為にも自分の事を他者に保証してもらいたいと人の気持ちは、なぜだろう思うんだろう・・・ と、具体例をあげ自答自問した所、気持ちの流れは分ります。 じゃ、なぜそう言う気持ちになるでしょうか・・・ 年末の忙しいさなかでは有りますが、もう少しお付き合いいただけませんでしょうか?
難しい質問ですね。 >「人は1人では生きて行けないからかな・・・」 これでは結局、自愛心が道徳の根拠となリそうです。 道徳哲学と一言で申しましても、色々のようです。 社会規範も含めて、一般的に道徳とされます。 他人の気持ちになることが大切なのは、 この社会規範の関係が大きいのではないでしょうか。 つまり、ある他人の行為が、道徳的(常識的範囲での) であるかどうかは、その人の状況によって 判断すべきだと思われるからです。 これに対して、善とは何か、道徳法則は存在するか? このように問う場合は、 他人は関係有りません。 だれにでも共通する、善・道徳律が存在するのか 存在すれば、それはどういうものか、と言うことです。 この道徳哲学にしたがえば、 社会規範はすでに手段であり 善悪とは無関係になります。 後半は無用でした、お役に立たないでしょうが投稿しておきます、失礼しました。
お礼
お返事ありがとうございます。 <これでは結局、自愛心が道徳の根拠となリそうです。 そう言う部分も含まれている気がしていました。 また、 <この道徳哲学にしたがえば、社会規範はすでに手段であり 善悪とは無関係になります。 全文、なるほどと参考になり、勉強になりました。 ありがとうございます。
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お礼
お返事ありがとうございます。 先ほど、帰宅たのですが、yuukichikaponさん、sirayukihimeさんからの新たなお返事に嬉しく思いました。 <「人間はほんとうはもともと一人では生きていない(生きられないのではない)」ということが存在している ~ なるほどと思いました。言われてみれば、そうですね・・・ さら深く考えさせられた思いがします。 なんとなく感動しました。 これから、教えていただいたQNo.1086501(No.1272を見てこようと思います。 ありがとうございました。