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道中奉行
万治2年(1659年)、幕府に道中奉行が設けられ、五街道に付属していた脇街道を支配下としたとありますが、 これは単純に脇街道と街道沿いの村々とその村の田畑入会地を幕府が召し上げたと認識していいのですか? 話を戻せば秀忠の指定した五街道やのちの時代に指定された他の脇街道等も街道沿いの所領を召し上げた感じですか? また替え地の提供等はあったのでしょうか?
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道中奉行が五街道やそれに付属する脇街道を支配下としたというのは、それらの街道や街道周辺が幕府領になったという意味ではありません。それらの街道の道路・交通行政に関しては、大名領であっても道中奉行の管轄下におかれたということです。 『品川区史』近世編の「道中奉行」の項目(https://adeac.jp/shinagawa-city/text-list/d000010/ht002320)に、 > 道中奉行は、宿駅・助郷の助成、助郷の割替、道路・橋梁の監理ならびに普請のこと、並木のことなどを扱い、大名領内でも路線の変更・道路の拡幅など、すべて道中奉行の許可を得なければならなかった。 > と説明されています。
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ご回答ありがとうございます。 街道を幕府奉行が支配したにもかかわらず、大名が幕府にお伺いと立てるのですか??? これは幕府が街道を支配したというより、幕府が街道に位置する大名に対して、管理を指導したという認識でいいのでしょうか? 現在で言うところの補助国道・三桁国道のような扱いでしょうか?