• 締切済み

江戸時代の石高の計算、年貢などの徴税方法について

江戸時代は、米遣いの経済といわれ、所領はOO石とか言われますが、実際はどういう意味・どういう計算方法だったのでしょうか。また、O公O民と言った表現も出てきますが、実際にはどうだったのでしょうか。実は私が住む北東北、南部藩が江戸幕府に提出した国絵図では、各村々の位置に、(OO石余00村) と書かれています。しかしこの絵図が書かれた江戸時代初期には米は全くといっていいほど採れていなかったはずです。穀物を徴収しても現金化は難物だったでしょうね。 同じ地域の江戸時代末期の海岸の絵図には、沢山の塩釜のマークの列がかかれ、村ごとに釜の数も書かれています。 江戸時代も後半になると、関東にも綿作が盛んになり、当地の鰯の締めかすが海路移出されていたそうです。当然浜役所が徴税もしていたはずです。 まことに素朴な疑問で恐縮ですが、ご教示ください。 

みんなの回答

  • m-jiro
  • ベストアンサー率55% (92/167)
回答No.4

まず高(たか)の計算方法ですが、田、畑、屋敷の一筆ごとの面積を測ります。これに石盛(こくもり)という係数を掛けたものが高です。ひとつの村の高を全部合計したものが「村高」、武士の知行範囲の村高を全部合計したものが知行高です。 高は江戸初期に決まり、この数値を基に大名や旗本が封ぜられます。××藩○○石というのはこの数値です。この数値は江戸初期の実際の生産量に近い数値だったと思われます。知行高は知行範囲に変化がない限り幕末まで変化しません。 新田は作られてもその高は村高や知行高に算入されませんが、年貢の対象になります。 年貢は高に免(税率)を掛けて出します。一般に新田の免は本田の免より低くなっていました。 米の生産量は時代と共に増えます。これは農業技術の進歩というより洪水や干ばつへの対策が進んだことが大きいでしょう。生産量が増えると高も修正せねばならないのですが、そうすると領主の格式(軍役などに影響する)まで変わることになるためやっていません。しかし免の数値を増やして年貢の量を生産に見合ったものにしています。 私たちが知っている実際に農民が領主に納めた年貢の量は幕末の数値です。村高500石の村で200石の年貢を納めると免は4ツ(4割)ということで、一般にこれを四公六民と言っています。 ここで考えて欲しいのは高は江戸初期の数値です。納米量は幕末のものですから、統計にも何にもなっていません。もちろん実生産に対する割合でもありません。 ではどの程度の税負担だったかというと・・・ 小生の生まれた村(備中国内)は当時の記録では八公二民という恐ろしく重税の村でした。しかし冬作も含めた実生産に対しては15%程度と考えられています。 なぜ八公二民が15%になるのか。まず石盛が近隣の村の半分しかないこと、検地帳には実際の面積の半分程度の数値しか書かれていないことが理由です。 当地では幕末には綿をたくさん作っていました。肥料代が嵩んだようですが、それを差し引いても米の1.5倍、一説には2倍の収入があったといわれていますから、実際の税負担はもっと少なかったかもしれません。 年貢の負担率”四公六民”については考え直さねばならないですね。なにせ異なる時代の数値から算出しているのですから。

elmsan
質問者

お礼

ご教示ありがとうございます。検地とか、石高と言っても上からの命令でやったようですから、相当ご都合主義的な感じもしますね。日本人は文盲ばかりではなかったでしょうから、意外に寛容な社会だったのでしょうか。 免という言葉が、課税率というのは初耳です。辞書でも分かりません。地域的な言葉でしょうか。封建社会と言っても地域ごとにさまざまなのはおもしろいですね。 ありがとうございました。

  • fumkum
  • ベストアンサー率66% (504/763)
回答No.3

削除されることを覚悟で回答します。 まったく、歴史作家を語ってウソを書くのはよくない。誤った知識を覚えることになり害毒を流す。 コメが取れない畑・海産物等も生産量を米に換算して石高を割り出すのであって、米が取れない土地は「領主にとっては「副収入」であり、○○石の計算外の収入でした」などは大でたらめである。屋敷地でさえも石高が表示されるのが歴史の基礎知識で、このようなことは高校の日本史の用語集などには記載されている。 二番目に〇公〇民についても太閤検地当時は六公四民ほどで、これも高校の日本史の教科書本文・史料集にあり、史料集には収穫物を三つの山にして、そのうちの二つを領主が取り、一つを残すの趣旨の資料が掲載されています。これも大学入試の常識に類するものです。このように2/3もの年貢も徐々に引き下がり、実質3割を切る状態となります。享保の改革で定免法が採用された中で、幕府の年貢率が3割を切ったことが分かり、それを五公五民に引き上げようとしたと高校の日本史では説明されます。確かに享保の改革の結果年貢率は上昇に転じますが、5割を超えることはほとんどなく時間が経つにしたがって4割を超えなかったとされています。ただし、これは幕府の天領の話で、大名領・旗本領などは八公二民もの高い年貢率も存在したとされます。これも高校の日本史の中で貨幣経済の進展の中で、武士の困窮化として取り上げられます。 三番目に、幕府は「田畑勝手作禁止令」を出していましたが、これはあまり守られず、商品作物が作られるようになります。この場合も商品作物が作られた土地の石高に応じて年貢を出します。商品作物に変えたからといって基本的には年貢が上がるものではありません。多くの商品作物は米より収入が良い(そうでなければ多くは作られないのですが)ので、商品作物を売って、代金で米を買い入れ、年貢としました。時代が下るにしたがって年貢の金納化が進み、この傾向に拍車をかけます。綿作の場合米の3倍程の収入があったとされますので、農民にとって米作より俄然有利ですし、干鰯(金肥)などの高額肥料を使っても引き合いました。 塩や干鰯についても上記したようにもともと浜が石盛され、それに応じて年貢は徴収されます。ただし、中には年貢を上げることを条件に商品作物の公認をすることもあったことは付記します。 現在海外なので関係資料を持っていませんので、Wikipedia該当ページのURLをコピーします。 石高 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E9%AB%98 石盛 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%9B%9B 享保の改革 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AB%E4%BF%9D%E3%81%AE%E6%94%B9%E9%9D%A9 田畑勝手作禁止令 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E7%95%91%E5%8B%9D%E6%89%8B%E4%BD%9C%E7%A6%81%E6%AD%A2%E4%BB%A4 質問者の方には他意はないのですがあまりにウソ・でたらめ・思いつきで不正確な回答をしている者がいるので、ここいらではっきりさせないといけないと思いこのような回答をしました。今回のことだけでなく、過去にも、近々にもそのような回答があり、ベストアンサーとなっている=多くの質問者の方はその回答を信じていることになります。間違った知識として覚える人が出ることは非常に残念に思います。ある面肩書詐欺だと憤慨しています。 この回答は削除されるでしょうし、私の回答が間違っている可能性もあります。質問者の方を含めこの回答を見た方が両方の回答を見比べた上でご判断ください。失礼します。

elmsan
質問者

お礼

具体的な資料とともに、懇切なご教示ありがとうございます。高校の参考書もさがしてみますね。日本史参考書は半世紀以上前の受験勉強以来さよならですが、随分進歩したようですね。徴収した米の現物はどう使われていたのかなとは以前からの疑問です。実際にはいろいろなものか、貨幣などで徴収していたということかなと思いました。 貨幣経済の進行に、各藩はどう対応したのかも面白そうですね。ありがとうございます。

回答No.2

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>江戸時代は、米遣いの経済といわれ、所領はOO石とか言われますが、実際はどういう意味・どういう計算方法だったのでしょうか。 「検地」によって、各村々の米の収穫量が決められます。、また、同じ田の面積でも上田、中田、下田にも分けられ米の収穫高は違いがありました。そして、あくまでも米の収穫高で○○石の領主と呼ばれました。 しかし、あなたがおっしゃるように「米が収穫できない土地」では、米に替わる、例えば、紅花などの栽培をし、それを移出して米の代金に相当する金額が献納されました。これらは、領主にとっては「副収入」であり、○○石の計算外の収入でした。 紅花などは、越後へ移出して「つむぎ」の染料となりましたし、櫨(はぜ)は蝋燭の原料となりました。漆(うるし)なども能登地方へ移出して塗り物となりました。あとは、綿とか生糸なども取引されたでしょう。 また、「鰯」もそうですが「紅鮭の塩漬け」など、そして、「塩」も海のない内陸部の藩に移出してその代金を米に換算して献納されました。 従って、「塩釜」はそうした「米」に替わるものとして、その藩では重要な収入源だったのではないでしょうか。 徴収は、一般的に「4公6民」(しこうろくみん)と言って、収穫高の4割が領主の取り分で6割が民の取り分と言うことです。 しかし、財政の逼迫した藩では「5公5民」と言って高い税率の藩もありました。

elmsan
質問者

お礼

村高?の絵図を発見して以来、気にしていたことに早速のご教示ありがとうございました。塩は内陸部への重要な移出品になっていったようです。ベコ(牛)の背に積んで行列を作って運んでいたそうです。収益を石高に換算して徴収していたとのこと納得です。 この地方は天明の飢饉では、多くの餓死者を出しています。この時期は日本では浅間山の噴火。ヨーロッパではアイスランドの火山の噴火で凶作続きだったようですね。フランス革命の背景とのこと。やっと安定した経済活動・徴税も天変地異で崩壊状態だったのでしょうね。浅間山がマジで心配です。ありがとうございました。

  • mekuriya
  • ベストアンサー率27% (1118/4052)
回答No.1

石高の意味は2つあります。1つは領主と村の相対契約で取り決める年貢の算出基礎額としての年貢です。基本としては田の生産性を上中下の3分類に査定して、面積を測って計算します。といっても、そのやり方は領主の方針によってまちまちで極めて大雑把なものであったのです。面積を測るといっても厳密に測量をしたわけではありません。藩の役人が歩いて歩数で測るというものでした。 もう一つの意味は藩が幕府に届けて承認を受ける藩の石高です。それは大名の序列の決定と普請工事や軍事動員の人数の算定の基礎にする為です。江戸時代には300弱の藩があって藩の石高によって藩の格付け、大名の格付けが決まるのです。本来なら領地内の全ての村の石高を集計すれば藩の石高になる筈でしたが、必ずしもそうでもなかったのです。 時代が進むと農業技術の進歩によって一般に生産性が向上したので数十年に一度ぐらいのサイクルで不定期に石高の見直しが行われました。また貨幣経済の発達によって商工業も発達し、農民も副業を持てるようになってきました。O公O民はいわゆる年貢率の表現形式です。実際の収穫のうち何割が年貢として領主に納められるかという意味です。これは子供たちに分かりやすく説明する為の表現です。六公四民とか四公六民とか良く言われていますが、全国一律の年貢率であったわけではありません。六公四民といった場合は、村の表石高の60%が年貢として領主に納められて、残りの40%が村に残ったという意味です。実際には藩によって、村によってまちまちです。それは副業収入の比率が村によって極端に違うことも一因です。 江戸時代は何事も領主の方針によって決まるのであり、全国一律の法などほとんど存在しません。藩によって米一辺倒の方針の藩もあれば、多角化経営を推進していた藩もあります。で、副業を年貢にどう反映させるかということですが、副業収入を米の収穫に換算して米の収穫に加算する方法と年貢率に加算する方法と2つあります。だから副業収入が多い村は後者の算定方法だと異常に年貢率が大きくなります。 以上の説明は一般論であって、南部藩が実際どうであったか私は存じません。南部藩は地勢が稲作に向いていないにもかかわらず領主が稲作にこだわっていたので、不作・凶作の頻度が大で百姓一揆がだんとつの日本一であったといわれています。

elmsan
質問者

お礼

早速のご教示ありがとうございます。南部藩の北部沿岸部は夏は「ヤマセ」と言われる霧におおわれ低温続きでしたから、一般には稲作はなかったそうです。 「O公O民」は子どもたちに分かりやすく説明するための表現というお話、ありがとうございます。また、石高は動員人数の算定基礎とのことありがとうございました。何しろこの地域で日常、米を食べるようになったのは、なんと昭和18年からだったと聞いたことがありますよ。最近まで「稗飯」を看板にしていた店もありました。ありがとうございました。