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江戸時代の石高の計算、年貢などの徴税方法について
江戸時代は、米遣いの経済といわれ、所領はOO石とか言われますが、実際はどういう意味・どういう計算方法だったのでしょうか。また、O公O民と言った表現も出てきますが、実際にはどうだったのでしょうか。実は私が住む北東北、南部藩が江戸幕府に提出した国絵図では、各村々の位置に、(OO石余00村) と書かれています。しかしこの絵図が書かれた江戸時代初期には米は全くといっていいほど採れていなかったはずです。穀物を徴収しても現金化は難物だったでしょうね。 同じ地域の江戸時代末期の海岸の絵図には、沢山の塩釜のマークの列がかかれ、村ごとに釜の数も書かれています。 江戸時代も後半になると、関東にも綿作が盛んになり、当地の鰯の締めかすが海路移出されていたそうです。当然浜役所が徴税もしていたはずです。 まことに素朴な疑問で恐縮ですが、ご教示ください。
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お礼
ご教示ありがとうございます。検地とか、石高と言っても上からの命令でやったようですから、相当ご都合主義的な感じもしますね。日本人は文盲ばかりではなかったでしょうから、意外に寛容な社会だったのでしょうか。 免という言葉が、課税率というのは初耳です。辞書でも分かりません。地域的な言葉でしょうか。封建社会と言っても地域ごとにさまざまなのはおもしろいですね。 ありがとうございました。