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盲目的信仰
標題のことばは差別用語でしょうが、あるURLの名称ですので、どうか許容してください。 警視という階級の方の宗教団体とのかかわりが報道され、人間の心理の切っ掛けや状況など、まぁ人にもよるのでしょうが、考えさせられました。 そして偶々保存しているアドレスやネットの検索などもしてみました。 http://now.ohah.net/fp4/dharmaBlind.htmlというのもありました。 愛は盲目なりとかいいますし、いろんな方がいろんな信仰をしていられるのですが、突き詰めると、 1. 信仰はどうしても素朴な気持ちも、一つの必要事項ですよね。 ちがいましょうか? 素朴性は、盲目につながりましょうか。 2. そして信仰は、科学的確証を踏み越えますよね。 その時に、科学的確証に替わって何がものをいってくれるのでしょうね。 3. 例えば此のたびの警視の場合、何か(事情とか、心理とかについて)想像できるものはないでしょう。 私も拙い一精進者ですが、その立場での質問でして、科学や心理その他の面からの分析と教えは歓迎いたします。もちろんご信仰の方からのお教えは大歓迎いたします。 でも信仰について、あまり存在性をお認めになられない立場での、一刀の下(もと)の論断は、できればご遠慮申しあげたく存じます。 どうかよろしくお願いします。
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krya1998さま お邪魔します。 《愛は盲目なり》についてのみ 述べさせていただきます。 事実そうなのですが 《愛は理論家である》と基本的には言いたいと思います。 要するに 愛は どんな欲情に燃え情念の火にすでに焼かれて盲目になっていたとしても まだなお 何を愛すべきか これは愛していいのか悪いのか このことを じつは 知っているのではないでしょうか。その理論のとおりに実行できるかどうかは 別になりますが。 素朴さを見失うと――というよりも 自分で棄てたのだと思いますが―― いろんな事情や心理にからめて さも正しいと見える理屈や弁解を用意するものと考えます。 信仰には 方向性があり 志向となっており 力をも持ち得て これをとおして愛がはたらきます。というより 志向ないし意志が 愛です。 信仰は 不用意に 科学的確証を超えてしまいがちですが 愛が 実践において これを実証してみせます。
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- at9_am
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1. 質問者さんの言う「素朴性」がどういうものかは分かりませんが、必ずしも必要かどうかは疑問です。しかし多くの場合はある意味では持っていることは確かだと思います。 さて、信仰とは、「ある教え(又は慣習、人など)を絶対視し、それを自らの基準として採用すること」という風に捉えられると思います。その基準として採用することの度合いが大きければ大きいほど、信仰心が強い、というわけです。 例えばイスラム教の人は豚を食べませんが、これは豚肉を食べないという基準を自己のものとして採用しているという風に捉えられ、信心深くなると豚の脂が入っているかも知れないというわけで、豚肉を炒めたフライパンを使うことすらしなくなります。 では、盲目的に、とはどういう状況下といえば、いかなる基準であっても無条件に受け入れてしまっている状況だ、と考えることが出来ます。ここに素朴性が必要だとはとても思えず、単に思考停止状態や条件反射的状態として捉える方が自然だと思います。 したがって、素朴性はあまり関係がないと考えます。 因みに、この状態は自分では認識することが困難で、#4の回答にある「盲目は他者による評価」という意見は妥当であると考えています。ある種のマインドコントロール状態ですね。 2. 一部の人を除くと「科学的確証」そのものが信仰です(笑 例えば地動説にしても、地球が止まっているとしても何の不都合もありません。天動説で不都合が起こるとすれば、太陽や他の惑星(水星、金星・・・)の軌道計算が非常に複雑になることくらいです。 因みに同様の不都合は、例えば太陽を基準としたときの月の軌道計算でも見られ、そのため、月の軌道計算の基準は地球です。 また、別に科学的確証に基づいても盲信は起こります(野菜は絶対無農薬!とか)し、そういうものだと思っています。 もっとも、科学が扱っているのは現実世界の検証可能な世界であるのに対し、宗教の主に扱っているのは検証不可能な世界であるという点が大きく異なっています。 3. ようするにあれは、金儲けでしょう。信仰云々の問題ではない。もっとも、彼自身が単に利用されていただけという可能性は否定しきれないんだが。 昔から、何らかの権威のある人を担いでの霊感商法やインチキ商法は珍しくもありません。例えばパワーストーンの広告にはアメリカの何とか研究所の研究が紹介されていたりしますね。
お礼
3. 宗教や信仰でもないのにのめり込んでいった事情や状況がなんとも、人間一般として、想像や画きがある程度、自分に構成されてきますので、とても悲しいのです。 そういう在り方が、曖昧さが、人であり、生命一般なのですものね。 それが、そして、それが全てについての大事な要件なのですものね。 それで、悲しいのどなたかの叡智をたまわりたかったのです。 有難う御座いました。
補足
有難う御座います。 ≪さて、信仰とは~~≫ 仰せの事は理解できました。私も一生懸命矢っているけれも、なかなか、完全に為らなくて。つまりは、飛ぶ矢の後ろと前みたいですね。 磁極ではプラスとマイナス。陰と陽。ややり対極に向かうのは陰・陽というほうからのようですね。単にこれはことばの連なりの原則ではなかったようです 後半については、他のご回答を重複させることになりますので、申しわけありませんが、どうかご参照くださることを切にお願い申しあげます。 ≪一部の人を除くと「科学的確証」~~≫ 科学の信仰というのもおかしなことですね。 それはつまり、科学のいうことの受け入れ、立脚する仕方ですね。 そういうことがあってもいいし、なくても別にどうということもありませんよね。確かに身の回りでも経験するし、自分も部分か大部分か、ありますが。どうでもいいと思っておりますよ。
- adaypajimy
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盲目と言う認識は、他者によるものですね。 >1. 信仰はどうしても素朴な気持ちも、一つの必要事項ですよね。 ちがいましょうか? 素朴性は、盲目につながりましょうか。 自己責任をとれない行動を行い、社会的ルールに反するならば、他者に「盲目になっている」と認識されると思います。あなたのいう素朴性(単純な)という信仰とは、何らかの対象を"仰ぎ見て信じる"ことですから、その対象以外のモノが見えていないのはアタリマエですよね。単純とは1つしか視点が無い事ですよね。空を見上げ続けているヒトに地面の石ころは見えない。2つのモノを同時に見ることはできません。でも、仏を信仰しても社会責任を見失わない人もいますね。たぶん盲目的信仰とはわき目をせずに、100%ある対象に魅入ることを指すようです。 > 2. そして信仰は、科学的確証を踏み越えますよね。 その時に、科学的確証に替わって何がものをいってくれるのでしょうね。 他の方も述べていますが、哲学では、科学的確証は"確かなこと"であるというような断定をしてはいません。科学的確証は思考の一形態に寄るものです。だから、哲学では、宗教も考えるし科学的確証も疑うのです。科学的確証に替わるモノがないなら、少し鈍感になって生きるか、宗教を信ずるか、考え続け、哲学し続けてしのぐか。確かそうな科学を研究して利用するか。 > 3. 例えば此のたびの警視の場合、何か(事情とか、心理とかについて)想像できるものはないでしょう。 恋をして盲目になる感覚って一般的なことだと思っていました。盲信する心理って、ままあることなんじゃない。激しい思い込みがなせる業。
お礼
ありがとう御座いました。 ≪哲学では~~~≫ まことに諸学に君臨しようとしていて、虚しいですね。 私は、鈍くなっているか、鈍いのか。でも信仰の中で哲学しております。私が思う信仰は、別のご回答さまのところに書きましたが、それとともに真の存在の確証を疑う(検討する)ことにあります。 ≪恋~~≫ 人は思わぬものに座し、浮かび、思わぬ波や風で、思わぬことに入っていくような、面もありましてね。 心身も知力も頑健でありながら、人は・・・。 海神(わだつみ)の世代のかたに二十歳で出会いました。私が職員でかの方が学生。1958かな。 人はその持つもので駄目になっていくね。 小才の利く奴がたくさんいた。その小才が彼らを滅ぼした。 知力や知性、処世の小賢しさ、頑健なる心身。親の金、門地、地位。 彼らはそれで、身をやつしていった。 そんなものだよ、○○(私)さん。十数年も離れた年齢。決して君ともよばないし、職員と学生のけじめ。年下への配慮。 わが国の先輩はいい教育でお育ちになられてきております。 激しい思い、職場の軋轢や雰囲気。 個人の心理状況。とても他人事には思えないのです。 親兄弟・家族のことも。なんとかならなかったか。
補足
有難う御座います。 素朴性は、神から戴いている、そのままの自分になるということで、いろいろ右顧左眄したり、迷い、所謂る大人の世に長けた、小賢しさを出てみることでした。だから単純にも少し、通じますね。 万物にありて万物でない、創造の神が自己責任なく、社会ルールもわからないような仕方を、自分のうちに是也とはなさっていないようです。 仰ぎ見るが、親しみ、懐かしむということであれば、仰せの仰ぎ見るは、信仰といえます。 対象以外のものが眼に入らないほどに、神が自己内に経験していけるようになりたいと存じます。 自然、創造、そして万人である森羅万象、それを自己に、自己として含んでいる、創造の神には、全てがあります。 眼に入らなくなった、対象以外のものは、自分が何かで作り上げているものかもしてませんね。
- shift-2007
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私は少々世俗に染まりすぎたみたいですね。 krya1998さんのいう信仰は自然信仰に近いものでしょうか。 一般的には信仰とは特定の組織における教祖(キリスト、シャカ、麻原・・・等々)を神としてあがめることだと思っていますので、素朴とは無縁に思いました。 信じるという心理の裏には不安や恐怖があるのではないでしょうか。生の、死の、仕事の、病気の、将来の・・・ そういう心理が裏にあるならば信仰とは何でしょうか。神を慰み物にする心理を素朴とは思えないのです。 krya1998さんは地球が丸いのを実際に見たことがありますか? 実際に見たことが無いという意味で科学的確証は私たちにとって知識でしかないのではないでしょうか。同じ意味で、神はいる、キリストこそが唯一の神だ、等々もまた知識でしかないのではないだろうかと思います。 科学者の言うことを鵜呑みにすることは妄信とおなじだろうと思いました。 保険の外交員の話は忘れてください。krya1998さんとは無縁でしょうから。 補足ありがとうございました。
お礼
有難う御座います 唯一の神が唯一だけでは、無ですね。 空気も、太陽も、そして大好きな日本人にはお米のご飯。 味も匂いも、あまりない。そして飽きることもない。 美味しいとも、思わないこともある。ありがたいとも。 帝尭時代の施政みたい。 人もそういうのでしたら、決して眼にも見えず、手にも触れず。 判らない。眼前の方は、何か不完全で、癖がないと存在と知覚できない。 一なる、唯一なる神もそう。変容して多なるもの。 その正体は一なるお方。だからどなたのご信仰も、神も尊崇しております。
補足
たびたびご訪問くださり感謝します。 真珠(しらたま)の歯に染みとおる秋も過ぎた師走。世俗にも、空にもなかなか融けこめなくて。静かでもなく、加齢を迎えます。 私達の場合、自然信仰も入っていると存じます。創造とそれを越えた、そして万物にあって、万物ならざる、一なる、唯一の実在の意識に信仰を持っております。 対するに、素朴、原初的自分、素朴。何もなし、身につけるもの。 アダムとかイヴの裸。観念も、理屈も、演繹もない。介在がない。 受け入れるのは介在や純粋本性を出さない着物があっては、自分になれませんので。だから素朴が必要と存じました。 信仰にはそういう素朴が必要であり、信仰しているとはそういうことだと思っております。本人と信仰対象の関係は。 本人がどう意識していようと、信仰対象はそれを知って、受け入れてくれていると存じます。 慰みや、家具や飾りのものとなる、自分の便益にしている。 実はそういうプロセス・時期もありました。でも許容してくれていました。 今もそうかも知れませんが、でも、自分は素朴な本性で対しているつもりです。 ただそういくだけです、しているのです。ありがたいです。 科学者も科学もときどき、修正や訂正がありますよね。 でも私は鵜呑みです。妄信仰ではなく。 専門家の実証があると思うから、それを詮索はしていません。 くさいことには、判断を働かせています。 それは世に住んできた、処世の知恵。文殊の知恵です。虚空の知恵ではなく、いや、入っているかもしれません。 いろんな神話、民話。歴史観、解釈。よほどのことではないと、そうかとやっています。 でも前に聞いた見解や解釈・お話に支配されています。批判力がないのが私の欠点です。 でも神は知識としては受け入れていません。 自分の本心を支配しないようでは、神経験ではないのです。 個人としての神経験しか、私にはわかりません。 神の説明も、概念も難しすぎまして。
- shift-2007
- ベストアンサー率14% (143/1013)
> 1. 信仰はどうしても素朴な気持ちも、一つの必要事項ですよね。 子供がサンタクロースを信じるのと、大人が教祖をあがめるのとはだいぶ違うと思います。そこに素朴さがあるのでしょうか。 > 2. そして信仰は、科学的確証を踏み越えますよね。 科学的確証といっても個人のレベルでは信仰と大差ないんじゃないでしょうか。実際にDNAの塩基配列を見たことのある人と、神を見た人の数は大差ないかもしれないですし。 >3. 例えば此のたびの警視の場合、何か(事情とか、心理とかについて)想像できるものはないでしょう。 単に自分の立場を利用しただけのことで、警察関係者ということでマスコミが騒いでいるだけのことじゃないでしょうか。保険の外交員と同じで利用できるものは全て利用するだけのことじゃないでしょうか。
お礼
早速にご見解のほどを有難う御座います。 そういうご見解もあるということを勉強します。
補足
> 1. 信仰はどうしても素朴な気持ちも、一つの必要事項ですよね。 ≪子供がサンタクロースを信じるのと、~~素朴さがあるのでしょうか。≫ 素朴という言葉の観念が伝わらなかったようですね。教祖をあがめるという、ご表現に信仰というものの世界が、私とは理解が異なりました。素直さというか、単純さが伴うという意味があったのですが。信仰とはやはり子供みたいになる、大人の経験と迷いの上での素朴性は必要なのですよ。 > 2. そして信仰は、科学的確証を踏み越えますよね。 ≪科学的確証といっても個人のレベルでは信仰と大差ないんじゃないでしょうか。実際にDNAの塩基配列を見たことのある人と、神を見た人の数は大差ないかもしれないですし。≫ 貴兄様は、科学の確証としての、DNAの塩基配列をご覧になったのですね。いやそういうことを仰せですね。それはどんな神かは知れませんが、神を見る意識とその場面は同じなのだと仰せですね。 それは個人の意識の出来事としては同じだという意味ですか。 そうなのですか。そういう神の見え方というのが有るのですね。 神の見え方とはそういうものでしょうか?そんなことを仰せではないと存じますが、私の理解が悪いのですね。 貴兄は本当にそう真面目に考えておられるのだと判断して、ご回答を戴かざるをえませんようで。 >3. 例えば此のたびの警視の場合、何か(事情とか、心理とかについて)想像できるものはないでしょう。 ≪単に自分の立場を利用しただけのこと~~騒いでいるだけではないでしょうか。~~≫ おことばを加えて、あの警視が自分の何かのために利用しただけだというのしょうか? だからどういう事情で、何のためにりようしたのでしょうね。 保険の外交というおことばですが、まさかそんなことではないでしょうね。すくなくとも信仰ということではなく、生活の上での何かの事情だ、という仰せですね。その何かが何だろうなと、今後のことを待つことにしましょう。
お礼
bragelone さま有難う御座います。 オウム真理教(がどういうものかは存じないのですが)やいろんな宗教があり、それに入っていく契機、理由、心理状況、そしてその中でのありようなどでは、時に考えさせられ、気持ちがつまることもあります。 このたびの警視の年齢は、個人として、二番目の甥より二つほど下で、ある意味で人生のターニング・ポイントでもあり、職場でも、歩んできた人生でも思うこと、状況は多々あるのではないかと、その不安定な中で、免疫性の薄弱な方は、ともすれば、初出会いのような対象や状況に冒されるのかなと思いました。 巡査、巡査部長、部長、警部補、警部。その上の階級。 誰でもなれる立場ではありませんし、常識も弁え、慎重性もある筈なのに、そして決して生活に波風があるべき環境でもないはずだし。 何がそうさせたのだろう。上下の指揮の厳しい職場も、気持ちが揺れることがあったのだろうか? 盲目的信仰という言葉になんとなく対応していて、人口に膾炙している、《愛は盲目なり》などと、使い慣れない、むしろ自分としては避けてきているフレーズを、ちょいと出してみたのです。 この盲目は、理論演繹や、収支的計算、価値判断をしない、事情がどうのということを度外視する、というくらいかなと、思っていました。 ラートブルッフの正義の女神の目隠しにもほんの少し似ているのかな、くらいでした。愛するには仰せのようなきちんとした判断や冷静は必要でしょうし、自己を持する中での燃えるものがないと、無理ですね。エゴの欲するがごときに発している欲望は全く無関係でしょう。 意外に愛はものをみていますね。自分が無関心でも、愛は決して無関心ではない。面白いものですね。
補足
素朴さを見失うと━ (以下)は 洵に、貴兄の思索と実践の中のお言葉で、熟読し、思いを凝らす必要を感じております。 私も、観念的ではありますが、矢であり、力であり、存在自体であるという意味で、同感しております。