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ヱヴァンゲリヲン第26話の”真実”の概念の出所は?
26話では、 冬月「受け取りかたで、別モノになってしまう脆弱なものだ。人の中の真実はね」 加持「人間の真実なんて、その程度のものさ。だからこそ、より深い真実を知りたくもなるがね」 と言及しています。 一般世間では、真実とは世の中に一つだけ存在するものとして扱われることが多いです。しかしエバンゲリオンの中では、真実は主観的な概念だと主張されています。 このような考え方はどのような哲学から来るものなのでしょうか。どんな思想家の哲学から来ているのでしょうか? 例えば、真実は個人が持つものというここでの考え方は、実存主義というよりは本質主義的だと言うことも出来るかもしれません(これは例なので異論あっても見逃してください) 誰か検討がつく方は、ご回答よろしくお願いします。
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- mp20palpunte
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「真実」という言葉の解釈をまず論じる必要があると思います。 goo辞書が参照している大辞泉では、「真実=うそ偽りのないこと。本当のこと」とあります。 Aという人物の人柄について、Bは「あの人は優しい善い人だ」と言っていますが、Cは「あいつは信用ならない」と言っています。 どちらが真実でしょうか。 人間はある一面を以ってすべてを語れる存在ではないと思います。 Bは善い人と感じ、Cは信用できないと感じる、どちらもAが持っている一面です。 「他人にとってのAの人柄」において、真実はふたつあることになります。 (まあ、これについてはいくらでも反論はできると思いますが) この双方の欠けている認識をお互いに共有し合うことが人類補完計画だとも言えます。 エヴァ世界における存在は、己と己以外を認識区別することで存在や形を保っていますが、人類補完計画は、その区別するための違い、すなわち欠けている部分を人類全体で補完し合うということです。 これは、他人と自分の違いがなくなる、区別することができなくなるということで、その結果が、人物たちが次々とLCLへと変化していったというシーンです。 あのようなことが起こる以上、エヴァ世界においては、自分は人間であるという真実も揺らぐものだということです。TV版最終話でシンジがさまざまな形に姿を変えていく抽象的なシーンがありましたが、あれもエヴァ世界では起こりうる事象なのだと思います。 ゆえに、「受け取りかたで、別モノになってしまう脆弱なもの」なのではないでしょうか。 これらのことから、自分は「コギト・エルゴ・スム(我思う、ゆえに我あり)」という言葉を思い浮かべました。 個人的には、この実体二元論が、エヴァの骨子に含まれているのではないかと感じています。
補足
回答ありがとうございます。 我思う、ゆえに我あり は確かにそうですね。 形を自分で決めるのですからね。 同じ意味で、サルトルの 実存は本質に先立つ という言葉も連想します。 本質としてはLCLでも線でも何でもいいんですもんね。ようは自分が何になるか自分で決めることで自分は存在できるという世界でしたからね。 最後あたりで、主人公は、そうか違う僕がいてもいいんだって言って人からではなく自分から与えられた役割を持つことに目覚めるんですもんね。我にかなりこだわっているんでしょうね。 でも結局のところ、真実て言葉はどこから来たのでしょうか。 エバ作者オリジナルの表現方法なのでしょうか。 "我"=真実 と定義している文献は他に聞いたことがありません。