• ベストアンサー

豊臣は官軍

大阪の陣のとき、豊臣は朝廷に味方になってもらい官軍になれば、第一次戊辰戦争になりましたが、なぜ、官軍にならなかったのですか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11074/34518)
回答No.2

そもそも「豊臣」という姓そのものが自分たちと一緒にされたくないから作ったようなものですからね。 武士というのは家によっては清和源氏にたどり着けたりしてどこかしらはどこかしらの「ちゃんとした家」にたどり着きます。けれど秀吉は農民出身だから、先祖を辿ったところで「ちゃんとした家」にはたどり着きません。それはそういう血統がなにより大事な公家からすれば「そもそも秀吉は自分たちと同じ人類ではない」というふうにしか思えないわけです。本当は頭なんて下げたくないけど、天下をとっちゃったからしょうがなく頭を下げています。だから秀吉が自分にはない「権威」が欲しくて官位をとろうとして最終的には関白になったわけですが、そこはもう本当にすったもんだがあったのです。本来なら武家の棟梁である征夷大将軍か実務のトップである太政大臣なのですが、「人外」の秀吉にはそんなのはとてもやれなかったのです。 これを現代日本人に理解しやすいようにいうなら、在日韓国人や被差別地域出身の人が首相になれるのかというのと同じ話です。特に被差別地域なんて本来は「内閣総理大臣」という役職に就くにあたって何の問題もないはずだけど、実際はなれません。過去に少なくとも2人、父親が被差別地域出身であることを暴露されて首相の可能性がなくなった政治家がいました。 さて話を戻すと、そもそも公家や朝廷は彼らの価値観からすると「人間ではない」秀吉というか豊臣が天下をとっていることは、地球外生物が人類を支配しているような感覚に近いのです。 だから、それは武家という少なくともある程度は身分がはっきりと分かる血統をもっている徳川家が天下をとるほうがずっとマシだ、というのはあったと思います。 ただ、その家康が「公家諸法度」で自分たちをがんじがらめにするとは想定してなかったと思います。そこはちょっと「こんなはずじゃなかった」感はあると思います。

その他の回答 (1)

  • gunsin
  • ベストアンサー率32% (415/1290)
回答No.1

大坂冬の陣・夏の陣の事ですね。 天皇に仇名す者として、討伐の宣旨で大名に命令する物です。 徳川家康は天皇と朝廷に敵対していませんから、討伐の宣旨を 出す理由が有りません。 太閤検地により、少し残っていた荘園が無くなり荘園制度が 完全に無くなりました、朝廷の恨みをかっていたのは豊臣家 の方です。

関連するQ&A