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邪馬台国の正体とは?沖縄県~台湾説に迫る
- 邪馬台国は沖縄県~台湾に存在していたのか?与那国海底遺跡の関連性を考察
- 温暖な環境が邪馬台国の存在を支持する史料もあるが、他の説との関係性は?
- 邪馬台国と大和朝廷の関係についても探ってみる
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質問者が選んだベストアンサー
>与那国海底遺跡が邪馬台国であったと言う記事が有りました。 琉球大学の名誉教授が唱えている説ですね。 また、愛媛大学大学院終了の沖縄出身・名護博先生も同じ説を唱えています。 ※邪馬台国総合説・赤椀の世直し(名護博著・ゆい出版) >畿内説、九州説はどうなるのでしょうか? 先ず、畿内説はもともと無理がある説です。 「倭人伝は(九州北部から)南の方向へ進むと書いているが、これは東の間違いだ」 この条件が無いと、近畿にはたどり着く事が出来ません。 九州説だと、「漢委奴國王」の金印が見つかった九州北部までは正しい様です。 魏志の後に書かれた(前)唐事記には「倭国は、委奴國である」との記載がありますよ。 >大和朝廷との関連も気になりますが、どう言う事になるのでしょうか? (後)唐事記には、興味深い記録があります。 「倭国と日下(ひのもと・日本)は、別の国である」 ※奈良盆地に、日下という地名が残っています。 「日下は小国だったので、倭国が侵攻して併合した」 「倭国は、国号を奪い新たに日下と改めた」 ※古事記の(九州から大和へ向かう)「神武東征」と似た話ですね。^^; ※邪馬台国を「やまとこく」と読むと、奈良盆地には存在しない「やまと」の地名の存在理由・原因が分かります。 ただ・・・。 魏の末期に書かれた資料と言っても・・・。 「倭人は刺青をしている」 「倭人は、裸足である」 つまり、倭人の人物像は「南洋系」なんですね。 これだと、奄美・琉球列島辺りが邪馬台国となります。 矛盾が矛盾を生む。 どこかの国と違って「政府が決めた正しい歴史」が存在しないのが、日本です。 誰もが自由に考える事が出来るので、楽しいですよね。^^;
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- SPROCKETER
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邪馬台国と言いますが、邪・馬・台という具合に、3つの国を総称して邪馬台国と呼んでいたのかもしれません。当時は国名は漢字一字でしたからね。台は台湾でしょうが、他は琉球や九州だった可能性もあるでしょうね。邪馬台国は小さな国では無かったと思います。大陸以外の島国全体を邪馬台国と呼んでいた可能性もありますからね。今で言うならば、東南アジアとか、西太平洋諸島と同じような意味だったのではないかと思います。
お礼
ありがとうございます。
- maiko0333
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1説ですが。 「魏志倭人伝」は「魏」が書いた「倭人」の記録ですよね。 では、何のために書いたのか? 「魏」が「倭人」のために書いた?いえいえ 「魏」は「呉」「蜀」と戦っていてそれどころではないはず。 「魏」は朝鮮半島の北にあった国。 とすれば九州あたりに「魏」のお友達の国があると書いたら 「呉」「蜀」は「魏」に攻めにくくなる。 それでわざと九州方向に書いたのではないかという説。
お礼
ご回答ありがとうございます。沖縄県の与那国と北谷(ちゃたん)沖の水深50m以浅の海底に巨石構造物が存在する。どちらも中心的な構造物は、石壁に囲まれた巨大な城郭の跡の可能性がある。与那国のそれは今から3,000~2,000年ほど前に、北谷沖のそれは今から2,000~1,000年前頃に形成されたものと推定される。それらは、邪馬台国時代の城郭の可能性が出てきた。 こういう記事が有りました。
- nagata2017
- ベストアンサー率33% (6876/20336)
そうすると「邪馬台国」は今の日本を指しているのではないということになるのでしょう。別の国のことだと。 やまたい・・・・やまと ではないと
お礼
ご回答ありがとうございます。沖縄県の与那国と北谷(ちゃたん)沖の水深50m以浅の海底に巨石構造物が存在する。どちらも中心的な構造物は、石壁に囲まれた巨大な城郭の跡の可能性がある。与那国のそれは今から3,000~2,000年ほど前に、北谷沖のそれは今から2,000~1,000年前頃に形成されたものと推定される。それらは、邪馬台国時代の城郭の可能性が出てきた。 こういう記事が有りました。
- double_triode
- ベストアンサー率26% (520/1997)
与那国島くらいの面積では,まともなクニは成立しえないだろうと思います。琉球列島にまたがる海洋王国という線もないではありませんが,そのような記述はないと思います。 あちこちに比定するのは面白いですが,機内でほぼ確定なんじゃないかと思っています。
お礼
ご回答ありがとうございます。沖縄県の与那国と北谷(ちゃたん)沖の水深50m以浅の海底に巨石構造物が存在する。どちらも中心的な構造物は、石壁に囲まれた巨大な城郭の跡の可能性がある。与那国のそれは今から3,000~2,000年ほど前に、北谷沖のそれは今から2,000~1,000年前頃に形成されたものと推定される。それらは、邪馬台国時代の城郭の可能性が出てきた。 こういう記事が有りました。
どう言う事になるのでしょうか? ただ〇〇説が一つ増えるだけです。
お礼
確かに。
お礼
石清水八幡宮に伝わる『八 幡愚童訓』という古文書か ら、卑弥呼と神功皇后が同一人物で有る事が分かってきました。 先ず、『八幡愚童訓』に何が書かれていたか? ・『八幡愚童訓』の記述内容 仲哀天皇の時代に、【塵輪】(じんりん)という外国人が攻めて来た。 その正体は三韓の連合軍で、10万8千層の船で長門の国の豊浦郡に押し寄せた。 仲哀天皇は此れを迎え撃って自ら出撃するが、流れ矢に当たって戦死。 残された神功皇后は、自ら陣頭指揮を執って此れを撃退する事を決意。 此の時、武内宿祢に祈願させると、下記の神々が次々と降臨して、神功皇后を指導補佐した。 (1)五十鈴川のほとりに住む【天照大神】 (2)水神こと【宗像大明神】と、龍神こと【厳島大明神】の二人の童女 (3)神功皇后の二人の妹である【宝満大菩薩】と【河上大明神】 特に河上大明神は【豊姫】(トヨヒメ)という名前で、その後【淀姫】(トヨ⇒ヨド)と名前を変えられて「河上神社」に祀らる。⇒【臺與】の事。(4)住吉大明神こと【ウガヤフキアエズの命】、別名を虚空菩薩、又は明星天子とも言う。 わが子の月神を大将軍として給う。 (5)大将軍には月神こと【高良玉垂】(こうらたまたる)、のちに高良大明神となって高良神社に祀られる。 ⇒神様なので戦う訳にはいかないと、藤大臣連保(とうのおとどつらやす)と名乗る。 ⇒高良玉垂は、実在した人物で「高良玉垂宮縁起」等に詳しい記録が残っている。 ⇒その子孫が物部氏や草壁氏となる。 (6)船の舵取りには【阿曇磯良】(あずみいそら)が指名される。 ⇒潮満玉、潮干玉を取りに行った豊姫(神功皇后の妹)を竜宮城に案内するが、鹿島の海底に住んで居たので体中に牡蠣殻が着いていた。渡来人の安曇氏とは何の関係も無いと思われる。能楽『香椎』には、此の時の様子が描かれている。 ⇒阿曇磯良は、筑前国では【志賀大明神】と呼ばれ、常陸国では【鹿島大明神】、大和国では【春日大明神】と呼ばれた。つまり此の三神は同体異名である。 (ということは藤原氏が阿曇磯良を封印している事になる?) (7)四天王が石仏として現れ「敵国降伏」の有難いお告げを授ける。 ⇒現在、福岡市の箱崎神宮の額となっている。 此れはいつの時代の出来事か? 以上の登場人物を年代順に並べて詳細に眺めると、或い事に気付く。卑弥呼の没年と神功皇后の没年が略重なっている。 と言う事は、此の二人が何の関係も無い赤の他人は考えられ無い!→卑弥呼と神功皇后は同一人物 どうやら渡来人である藤原氏が『日本書紀』を編纂する過程で、本物の神功皇后とその取り巻き連中を削除して、ニセ神功皇后を潜り込ませる事に成功。 ・『両子寺縁起』や『宇佐神宮御託宣集』、更に『宇佐家伝承』には、全く違う神功皇后像が描かれている。 ・『宇佐家が伝えるニセ神功皇后の真相』 ・『御託宣集に書かれたニセ神功皇后の正体』 →全くの別人で渡来人が、本物の神功皇后と入れ替わっている。 此れは、どういう事か? 仲哀天皇には、二人の側室(娥皇と女英)がいた。 名前から、とても日本人とは思えません。 どうやらこの二人の側室の内の何方(どちら)かが、ニセ武内宿祢の子を孕んで、その子を応神天皇として即位させる事にに成功。 此処から「八幡信仰」が登場し、歴史が書き換えられる。 因みに、ニセ神功皇后は残虐非道で、旧皇族を皆殺しにし、その装束を奥方の頭に担がせて行進させたり、日本中の全ての神社の土を1m近く掘り起し、海砂と入れ替えさせたりします。 →神社と日本の神々の無力化を図ったのか? と言う事は、「邪馬台国論争」にもハッキリと決着が付けられます!! ※九州説・・・・本物の神功皇后(卑弥呼)の本拠地 ○畿内説・・・・ニセモノの神功皇后の本拠地