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江戸時代~明治時代までの学者について疑問があります

儒学者についてですが、儒学者は現代の我々のように古本屋や新刊で出ている孫子や老子や論語といった書物を読書している人達を指しているんですか? それから儒学者は平安古典も読んだりしたのでしょうか?

みんなの回答

  • nagata2017
  • ベストアンサー率33% (6877/20339)
回答No.3

学者という名前がついていますが 学者というよりも 儒教の教えを教え広めるような人のことでしょう。 宗教には戒律という言葉で代表される 人生の指針のようなものがそれぞれの教えにありますが そういった価値観 規律 を儒教に求めたものです。 「仁・義・礼・智・信」という言葉で語られる価値観です。 そして 先祖 目上の人を敬う気持ちです。

  • head1192
  • ベストアンサー率20% (161/785)
回答No.2

そういう書物は「四書五経」と言われ、藩校に通う子どもが暗記するものだった。 読むだけはもちろんぜんぐ暗記してもその程度では儒学者になれない。 学者というからには、それをもとに誰かにアドバイスをしたり書物の新見解を探究したりするのである。 2つ目の質問への答えは「その人次第」

  • gunsin
  • ベストアンサー率32% (415/1290)
回答No.1

儒学者の呼称は明治以降の歴史学者が呼んだだけで、当人たちは その様な意識は無かったと思います。 当時の知識人であり教養人でしたから、兵法書、土木学、薬学、など 広範囲に読学していたと思われます、平賀源内も寺子屋で論語を 教えていたようです。 水戸藩が編集した大日本史には、歴史書の他に文学書なども、 収録されています。 和歌は古今伝授で代々、受け継がれています、その中の一人、 細川幽斎は石田三成の挙兵時に小野木重勝に城を包囲されましたが、 朝廷からの勅使の説得に応じ講和が成立し幽斎の一命が守られた のです、細川ガラシャの自害が有名で、こちらの出来事はあまり 報じられませんね。 此の事が有ってからか?後水尾天皇の時に、古今伝授は朝廷に 受け継がれました。 北村季吟も古今伝授の一人で、柳澤吉保に受け継ぎましたが、 古今伝授と所縁が深い公家の出の側室 正親町町子に役目を任せ ました、正親町町子は王朝文学の形式を模倣した日記など多数 書き残しました。 北村季吟は源氏物語の写本に新しい命を吹き込みました、上段に 注釈、下段に原文を書いたのです、現在、多くの古典の注釈本は この方式で発行されてますね。 与謝野晶子などの現代語訳は北村季吟本を基にしてます。 「雨月物語」の上田秋成らの物書きも平安文学や平家物語から 発想を得て小説を書いてます。 上田秋成は平安文学の解釈の違いで本居宣長と手紙で論争して います。 江戸時代は戦争が無かったので、末端の庶民の文化・芸術の 花が咲きました。

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