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国替えの移動。
A藩とB藩が「国替え」で入れ替わるときの状況について教えてください。 遠く離れた姫路藩松平家と前橋藩酒井家が入れ替わったときは、大変だったと思います。 1. 参勤交代時同様、大名行列で行進するのですか。 2. 妻子は、後日移動するのですか。 3. 移動ルートは途中で両藩が遭遇するように決めるのですか。 どの藩でもよいですから出発から到着までの様子が分かる資料はありませんか。 よろしくお願いします。
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>1.参勤交代時同様、大名行列で行進するのですか。 (二者間の)交換転封ではなく、複数の家中の連鎖的な転封事例に過ぎず、 また詳細は定かではありませんが、寛文期(1661~1673)には転封に伴い 藩主も同行(引渡・請取共に含む)した事例もあるようです。 〇亀山市歴史博物館 http://kameyamarekihaku.jp/ ・亀山市史>通史>近世>第2章 亀山藩政>第2節 転封の世紀(谷口昭) http://kameyamarekihaku.jp/sisi/tuusiHP/kinsei/02/02/pdflive.html (※左クリック=頁進む/右クリック=頁戻る※) <-10->~<-15->の谷口昭氏の記述を拾い読みますと、 ・亀山在城中であった石川憲之の場合 寛文九(1669)年二月六日に老中から参府が命じられ、注進の使者が十日に亀山に到着、 十四日に亀山を出発し、二十一日に江戸に入った。 前日(二十四日)の召し状によって二十五日に登城した憲之には、 五〇〇〇石の加増と淀への所替が命じられ、家綱の近習とする上意が伝えられた。 将軍に対して転封の謝礼を言上し(三月七日)、次いで献上の儀礼を果たす。 憲之は四月十二日に江戸を出立し、同二十日に亀山にもどった。 日を置かずして同晦日、亀山城を上使(正使と副使)に引き渡し、 その日のうちに亀山を去って五月三日、淀に派遣された上使・代官から城地を受け取っている。 亀山を退去する石川家中は、四月二十九日に先手の家士の集団が、 晦日に城主に従う人数が、それぞれ行列を組んで出発し、伏見で合流し道中二日で淀に向かった。 ・江戸在府であった板倉重常の場合 転封の申渡を受けた板倉重常は(将軍家の厚遇に報いるため、またその威光を示すためにも、 亀山城には騎馬百騎を連ね、威容を改めて入ることを命じた。) 三月二十八日、父祖の城地へもどる暇を賜い、 四月十五日に関宿着、翌十六日に当地に派遣された上使へ城を引き渡して江戸に帰り、 十九日に江戸を発して四月晦日に亀山城を上使から受け取ったのであった。 城主自らが請取渡の現場にいたとすれば、これを寛文期の特質といえるであろう。 石川憲之の場合は転封(亀山→淀)の移動距離が短いこともあってか どうやら城主、家士なども含め伏見までは概ね二組に分かれた行列、その後の淀までは合流、 ただ、家士家族等の事までは言及されていませんのでその部分は何とも言えません… 稀な事例か寛文期の特質なのかはハッキリしませんが、 石川憲之・板倉重常などのように転封に伴う大名行列も有ったようです。 >2.妻子は、後日移動するのですか。 道中の人馬利用や宿の受容力の問題も生じるでしょうから、例えば下記URLの如く、 家士家族は何組にも分かれて断続的に出立するのがふつうであったと思います。 〇『明治大学博物館研究報告 巻16/31-Mar-2011』(11-26頁) 「転封実現過程に関する基礎的考察─延享四年内藤藩の磐城平・延岡引越を素材として─ 日比佳代子」 https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/handle/10291/14066 〇『山田音羽子とお国替絵巻/佃与次郎著/梅本房吉/昭和5』 <16~/139> http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1120758/16 なお、詳細は分かりませんが、下記URLのような 「備中玉嶋港~(紀州)白子浦」間を海路利用の大部隊事例もあったようです。 〇『鈴鹿郡野史/柴田厚二郎/昭和2.1.15』 「武門政治時代 鈴鹿郡野史 巻之二 本記」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1192320/61 <61/207>(90頁) ○延享元年(二四〇四年※皇紀※西暦1744年)三月晦日龜山城主板倉周防守勝澄ニ對シ 備中松山(今ノ高梁)ニ移封ノ命下ル當時龜山ニ居住セル勝澄ノ諸臣左ノ如シ… http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1192320/62 <62/207>(92頁) …以上合計三百六十二軒(家族雇人ヲ合算スレハ約二千百餘人ヲ算ス)… <62/207>(92・93頁) ▲三月晦日備中松山城主石川主殿頭總慶ニ對シ伊勢龜山ヘ移封ノ命下ル。 四月ニ至リ双方ヨリ掛官若干ヲ派遣セシガ松山ヨリ名川六郎右衛門。加藤齋院等 約八十人ヲ從ヘ龜山城ニ到達ス。五月ニ及ヒ近藤外記大部隊ヲ引率シ船ニ乘シテ 白子浦ニ着シ六月四日龜山城ニ入レリ此移封ニ際シ移動セシ人員ハ家族雇人ヲ合算スレバ 三千餘人ニシテ未タ龜山城ニ入ラサルニ先チ井尻村小下ニテ分娩セシ者一名アリ 松山城ニ殘留セシ百餘人中殘務終了後未タ龜山ニ到ラサルニ備中玉嶋港ニテ病死セシ者一人アリ 備中ヨリ龜山ヘ御朱印(六萬石ノ印信)ヲ警護シ來リシ者ハ岡田小太夫。山中爲右衛門。 大津守右衞門等ナリ… http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1192320/68 <68/207>(105頁) …以上ノ記載ニヨリ六萬石諸侯移封ハ大畧如斯者ナルヲ知ル可シ 諸士ニ附與セラレタル引越銀ノ少キハ備中ヨリ白子浦(他領ナレトモ宿舎ノ都合上々陸ス) マテハ海路ヲ採リ其費用ハ藩費用ヲ以テ支拂ヒシニヨリ士卒ノ手ヨリ支拂フ所ハ乘船前後ノ 旅費ノミナレハナリ… >3.移動ルートは途中で両藩が遭遇するように決めるのですか。 前記と重複しますが道中の人馬利用や宿の受容力を考慮しますと、 (二者間の)交換転封か三方領知替かなどを問わず、 出来得る限り競合を避ける方向で事前調整されたのではないでしょうか? 以上 やや稀な事例に傾いた投稿となりましたので、 また既に御読破済みの箇所もあるかも知れず、 御参考になりますか否か定かではありませんので 賑やかし投稿ということで御容赦下さいm(_"_)m
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- lv48
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http://books.google.co.jp/books/about/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%A4%A7%E5%90%8D%E3%81%AE%E3%81%8A%E5%BC%95%E3%81%A3%E8%B6%8A%E3%81%97.html?id=OEy9cQAACAAJ&redir_esc=y http://wwwhou1.meijo-u.ac.jp/housei2/tenpo/tenpo1.htm http://netabare1.blog137.fc2.com/blog-entry-3267.html
お礼
ご回答ありがとうございます。 『江戸大名のお引っ越し: 居城受け渡しの作法』をヒントに、著者・白峰旬氏の論文を丹念に読むと、凡その姿が分かりました。 まず、大名行列は行われなかったようです。 城の「受け取り・引き渡し」は、単なる転封の場合、城主(領主)は江戸に居て、立ち会っていません。 城郭は、大名の私有ではなく、将軍から預かっているものなので、幕府が現地に派遣する上使 の監督の下に行われた、ということが分かりました。 家臣もその妻子もある程度の人数はまとまっていたでしょうが、適宜新領地へ入っています。 城を受け取った翌日、妻子が着いたという例もあります。 おそらく、受け取りに立ち会うために早くから現地へ派遣されてきた家臣の妻子でしょう。
- Nebu3
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2度目、失礼します。 大名のではなく家臣の妻子、考えも及ばず恥ずかしいです。 大名行列につきしたがったとは想像しにくいです。別便で 出立したのでしょうか?すみません。わかりません。
- Nebu3
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「国替え」を少し誤解されているようです。 A藩とB藩が互いに領地を交換するわけではありません。 その例があった可能性も大ですが「国替え」とは要するに 支配者(豊臣秀吉・徳川将軍)が家臣であるべき大名を統率 するための施策でした。A藩を領地としていたA大名が処罰 され「お家断絶」や減封されてA藩の領主がいなくなるとそこ にB藩の大名と家臣団が報償としてより大藩であるA藩に引っ越し。 そのケースで両藩主が領地交換があった可能性は想像できますが 現実にはそのやり方は禍根を残しそうで賢明ではありませんね。 で、(江戸時代は) 1.は当然参勤交代と同じく大名行列をせねばなりません。 2.妻子は江戸屋敷住まいです。領国にはいません。 3.上で述べましたが領地を交換するわけではないので そんなことは考える必要はなかったと思いますよ
お礼
ご回答ありがとうございます。 家臣の妻子や大名のお妾さんも移動することになりますね。 病で臥せっている人を残さねばならないこともあったでしょう。 家財道具は売り払って身軽になって出たことでしょう。 大名お気に入りの職人(蕎麦、工芸など)も移ったのでしょう。 参勤交代では、定宿とする本陣宿があったにもかかわらず、大藩では半年以上前から宿の予約をしています。 それでも日程がずれて大混雑になった宿場もあります。 松平(越前)直矩は、越後村上から播磨姫路へ、そして豊後高田へ移っています。 初めて通る道ですから大変だったろうな、という想像です。
お礼
ご親切なご回答真にありがとうございます。 よく分かりました。 谷口昭氏の論文を「CiNii論文検索」で読みたかったのですが、ダメでした。 代わりに白峰旬氏の論文8本を読みましたが、全て大名は江戸に居て、立ち会っていません。 しかし、随所に「この時代の例であるがいつ頃から続いている慣例なのかまだ調べていない」という注釈が出てきます。 それで気にはなっていたのですが、dayone様のご回答ですっきりしました。 寛文期の「石川憲之・板倉重常などのように転封に伴う大名行列も有ったようです。」ということですね。 大名は新領地には、威風堂々と入りたいはずですから、大名行列なしではしまりがないと思っていました。 しかし、二者が入れ替わる場合に大名二人が立ち会うとなると、新領地に入る大名は気分がいいでしょうが、引き渡す側の大名は、追い出される感があるでしょうね。 白峰氏の示された例では、全て事務的に領主が入れ替わっています。 領主が在府であるからかも、という解説付きのものもあります。 領主が代わったことを示す高札を幕府の上使が持参して、これを城下に立てることが非常に重要であったようです。 妻子の移動については、多くの具体例を示して下さったので、臨場感があって大変よく分かります。 道路や渡しの様子、そして宿場について、事前調査を綿密にしています。 大勢では宿の確保が無理ですね。 城受け取り・引渡しの現場(城下)でも、双方の藩士は遭遇しないように、互いに区分された宿や住居に入っています。 移動の道中でも、同じ宿場にならぬように調整したと思います。 今回も良い事例を教えてくださいました。感謝申し上げます。