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明治元年頃の日本から欧州への連絡方法。
Wiki「渋沢栄一」によれば、 徳川昭武は、パリ万博とヨーロッパ各国訪問を終えた後、パリに留学するものの、大政奉還に伴い、慶応4年(1868年)5月には新政府から帰国を命じられ、9月4日(1868年10月19日)にマルセイユから帰国の途につき、同年11月3日(12月16日)に横浜港に帰国した、そうです。 新政府は、どんな方法で徳川昭武に帰国の指示・連絡をしたのですか、教えてください。 よろしくお願いします。
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徳川昭武の帰朝に関し、下記の(1-1)(1-2)を見る限りでは、 「伊達少將・東久世前少將」から「民部大輔(徳川昭武)」への達書とその逆の 請書とは、何れも書状だった様子が伺えます。 なお、下記の(1-3)や(2)の如く、1867-68年当時の通信手段としては、 場合によって電信(電報)の利用もあったようです。 (1) 〇『德川昭武滞歐記錄 第一/大塚武松編/日本史籍協会/1932.2.25』 ●(1-1) <288-289/292>(515頁7行目-516頁2行目) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917707/288 二〇 東久世通禧等より民部大輔(※德川昭武)へ歸朝の件達書 明治元年三月廿一日(※1868年4月13日) (封表) 德川(※昭武)民部大輔殿 伊達少將 東久世前少將 此度 王政御一新に付可致歸朝旨被仰出候條申達候以上 三月廿一日 伊達少將 東久世前少將 德川民部大輔殿 ●(1-2) <289/292>(516頁3-12行目) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917707/289 二一 同上民部大輔よりの請書 明治元年五月廿七日(※1868年7月16日) (封表)伊達少將殿 東久世前少將殿 德川民部大輔 此度 王政御一新に付可致歸朝旨被仰出候條御達之趣致承知候以上 辰五月廿七日 德川民部大輔 伊達少將殿 東久世前少將殿 ●(1-3) <272/292>(482頁5-11行目) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917707/272 一七 老中より在佛民部大輔(※德川昭武)への電報 慶應三年十一月二十日(※1867年12月15日) 丁卯十一月廿日 電氣機信報 御老中より巴里斯外國事務局に在る民部大輔アルテス江 日本ノ形勢大ヒニ宜シ〇人々 大君ヲ信仰ス政權及職號ノ事ニツキ 大君建言ノ旨アリシカ十一月三十日國内ノ大名一同會議スルマテハ 御門ヨリ是迄ノ通リ大君絵委ネタレハ政制一定スルニ至ヘシ (2) 〇岩倉使節団・米欧亜回覧の会>米欧亜回覧の会> <特別寄稿>(2) 会員による研究資料 •ノンフィクション:蓮舟田邉太一のつぶやき(2) ~ 翁の著書「幕末外交談」から ~ 2011年10月14日 田邉康雄 http://www.iwakura-mission.gr.jp/tokubetu-kikou/kikou/sho-tanabe2.pdf <パリ万博使節団の通信≫ 私は1867(慶應3)年のパリ博覧会徳川昭武使節団の組頭だった。その時、持参 した運営資金がなくなり、逆為替を組んで日本から送金してもらった。当時は パリから上海まで電信が通じていた。上海から江戸までは船を利用した。これ で逆為替が成立したのだ。そういう実務経験を持っていた私が、実務未経験の 薩長政府から頼まれればいやとは言えず事務方を引受けた。 次に、帰朝達書の輸送方法につき、当時の状況を調べてみますと、 下記(3)の「幕末・明治初年の日本と欧米間通信交通事情」文中の 「郵便輸送手段としての船舶」&「西回りと東回り」各項目によれば、 1867-68年当時、西回りでは「英国船が月2回、仏国船が月1回と、横浜は 月に3回の定期航路の船舶によって、ヨーロッパと結ばれたことになる。」 とある一方、東回りではその頻度が?で、 なおかつ「1869年5月10日にアメリカ大陸横断鉄道が完成し、」を考慮すれば、 1867-68年当時、日本からフランスに通知・命令等の書状原本を届ける場合に は、西回り(当時は、紅海・地中海間は陸・鉄路か、喜望峰回り)の英国船又は 仏国船の何れかでの郵送(又は使者による持参)が考えられます。 (3) 〇横浜黒船研究会>シンポジウムの記録1>ペリー来航と横浜世界デビュー> 「話題提供 3」日本郵趣協会理事長 松本純一 「幕末・明治初年の日本と欧米間通信交通事情」 http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Suzuran/5198/gijiroku/p8.pdf では、英国船又は仏国船の何れによった可能性が高いのでしょうか。 下記(4)(5)(6)から徳川昭武の往路・復路何れもフランス郵船によること、 英国への留学生の帰国に際しても徳川昭武が関与した事もあり、フランス郵船 によったこと、大政奉還の知らせもパリ経由でイギリスへの留学生に伝達され たこと(<元>大君の弟がパリ在留ゆえ、当然と言えば当然なのかもしれません が…)からも、当時、欧州でのセンターはパリ在留の徳川昭武、向山隼人正、 山高石見守あるいは栗本安芸守または渋沢篤太夫(帰国した栗本安芸守の事務 代理)など、断定は出来ませんが、郵送又は持参はフランス郵船利用の可能性 が高いように思います。 上記の可能性による机上計算に過ぎませんが、 徳川昭武の往路所要日数約55~56日(1867.2.15→1867.4.10-11)から 途中マルセイユでの滞在期間約1週間を差し引くとフランス郵船での当時の 横浜・パリ間(但し、内の陸路マルセイユ・パリ間は、約18時間~で1-2日) は概ね48-49日程度、 これに基づき帰朝達書の日附「明治元年三月廿一日(1868年4月13日)」と 下記(4)[45/62]のフランス郵船(横浜・上海間)便の1868年の発着とを照合 してみますと、「4.15→(4.18)」便では所要日数が掛かり過ぎるのに対し、 「5.13→5.17」便の流れに乗れば受信日「七月四日」 (下記(5)[57(5/21)](57頁上段4-7行目)& (7)「巴里御在館日記」<163-164/260>(303頁12行目-304頁7行目))に辛うじて 間に合い、請書の返信日「明治元年五月廿七日(1868年7月16日)」には十分に 間に合う計算になります。 (4) 〇「フランス郵船と日本 : 1865年から1889年までの横浜寄港から/澤護」 『千葉敬愛経済大学研究論集 26/1984.6』(73-134頁) https://keiai.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=868&item_no=1&page_id=13&block_id=21 [9/62](81頁11-12行目) [11/62](83頁6-9行目) (5) 〇「【特集 東と西】初期日仏交流における私信と人的ネットワーク -徳川昭武宛のフランス語書簡を中心に-/寺本敬子」 『跡見学園女子大学人文学フォーラム 13/2015.03.15』(53-73頁) https://atomi.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=1131&item_no=1&page_id=13&block_id=21 [57(5/21)](57頁上段4-7行目) (6) 〇「幕府イギリス留学生 [下] /宮永孝」 『社會勞働研究 36(4)/法政大学社会学部学会/1990.3』(43-110頁) http://repo.lib.hosei.ac.jp/handle/10114/5955 [40-41/68](82頁11行目-83頁9行目) [44/68](86頁6-13行目) あと、帰朝達書に関し、郵送か使者による持参かの問題ですが、 下記(7)などを一読した限りでは日本から使者が持参したのであれば 具体的な役職・氏名等が記載されていて然るべきこと、 (下記(7)文中「京地ヨリ公子江御達書相成候御歸朝達書佛國公使ヨリ送來」 の解釈?と栗本安芸守帰国後の公使は誰?のままでは有りますが…) 日仏間では継続して郵便でのやり取りがあったこと、 何よりコスト・パフォーマンスを考慮すれば郵送が妥当と考えます。 (7) 〇『澁澤栄一滞佛日記/大塚武松編/日本史籍協会/1928.1.25』 「巴里御在館日記」(1867.11.19-1868.11.11) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1076220/163 <163-164/260>(303頁12行目-304頁7行目) ※「京地ヨリ公子江御達書相成候御歸朝達書佛國公使ヨリ送來」の 解釈(徳川昭武に達書が届いた旨を公使が渋沢に伝えたのか?)? 公使は誰?かは疑問符のままで申し訳ありません※ 以上 フランス郵船の「5.13→5.17」便の利用等は都合の良いこじつけとの お叱りを受けるかもしれませんが、今回はこんなところです。 あと、正式な通知とは別に大政奉還の情報をパリ在留の日本人は、どの時点で 何により把握したのか何てネタも有りますが、これ以上カキコミますと せっかくのお楽しみを奪ってもいけませんので自粛します(笑)
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- tak7171
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1865年にはロンドンからインド国内まで2つのルートで電信線が繋がれていました。ひとつはサンクトペテルブルクとテヘランを経由してカラチまでを繋ぐロシア線。もうひとつはコンスタンティノープルからバグダッドを経由してインドまでを繋ぐトルコ線です。 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjasas/2013/25/2013_128/_pdf http://www.glocom.ac.jp/publications/glocom_review_lib/gr199803.pdf おそらくはインドのカルカッタやボンベイまでは海路なり陸路で郵便を、そこからは電信を使って連絡がとれたのではと思います。明治維新以降はNo.3の回答者様のおっしゃるとおりかと。
お礼
ご回答ありがとうございます。 ご提示の資料は大変参考になりました。 英印間の郵便・通信事情がよく分かりました。 徳川昭武への連絡は、インド以西は地上通信を利用した可能性があるということですね。 徳川昭武は、パリを拠点に欧州各国を訪問していますから、追いかけて、郵便物(書状)を届けるのは大変です。 郵便物とは別に、郵便の内容を簡潔に知らせるための速報として、通信を利用する手もありますね。
- jkpawapuro
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極東に最初に電信を届けたのは大北電信会社(Great Northern Telecom)が1871年ウラジオストックだったと思います。 よってそれ以前は郵便に頼るしかないでしょう。
お礼
ご回答ありがとうございます。 郵便ですか…なるほど。 日本駐在の外交官も本国と連絡を取り合わねばなりませんからね。
- teppou
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幕末明治のころには、すでに世界電信(電報)網ができていました。 大西洋横断電信ケーブルの敷設が 1866 年に行われており、欧米間の通信は電信で行えましたので、少なくともアメリカまで手紙を届けらられば、あとは電信で連絡できたはずです。 私の記憶では、幕末には上海からヨーロッパに電報が打てたと思うのですが、今調べて見ても確かなことは分かりません。私の記憶違いかもしれません。 なお、ペリーからの贈り物の中に電信機もあり、電信に対する知識は十分にあったと思われます。 参考サイト 「電信」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E4%BF%A1 「大西洋横断電信ケーブル」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%A5%BF%E6%B4%8B%E6%A8%AA%E6%96%AD%E9%9B%BB%E4%BF%A1%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%AB 「黒船のペリーと共に電気通信はやってきた」 http://www.xjzyz.com/communications_network/perry.html
お礼
ご回答ありがとうございます。 米英間の電信を利用した可能性があるのですね。なるほど。
- nannkaiporks
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郵便でしょ。 それでなければ、使者を向かわせての連絡しか思いつきません。
お礼
ご回答ありがとうございます。 受け取ったという返事がもらえるから、使者かもしれませんね。
お礼
詳細なご回答真にありがとうございます。 よく分かりました。 船便の郵便で書状をやりとりした、ということですね。 帰国に際しては、水戸藩から迎えの使者を2名派遣していますが、これ以外に使者を派遣していませんね。 帰国命令の請書は、フリューリー・エラールに託したようです。 松戸市戸定歴史館「徳川慶喜・昭武関係年表」 https://www.city.matsudo.chiba.jp/tojo/rekishikan_shoukai/rekishi/nenpyou/1837-1869.html 電報「電氣機信報」は、フランス語に翻訳して打電したのか、ローマ字なのか興味は尽きません。 ご教示に感謝申し上げます。