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細川ガラシャ その最期

こんにちは。 細川ガラシャは、家老の小笠原秀清の介錯で最期を迎えたそうなのですが、ガラシャはうなじを出して首を伸ばした?首を切られるのかと思っていらしたのか? 小笠原秀清が『そうではございません』と申して襖の陰からお部屋にいるガラシャ夫人に 『もっとお寄りください』と申して長刀で胸を突いたのは史実でしょうか。それとも創作ですか?

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  • oska2
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回答No.1

>細川ガラシャは、家老の小笠原秀清の介錯で最期を迎えたそうなのです どの文献でも、この名前がありますね。 >襖の陰からお部屋にいるガラシャ夫人に『もっとお寄りください』と申して長刀で胸を突いたのは史実でしょうか 当時のキリスト教の教えでは、自害は認められていません。 ですから、切腹の作法はしなかったでしようね。 女性の場合は、腹切りでなく「小刀で、首の動脈・静脈切る」のが一般的だった様です。 ※諸説ございます。 ですから、ガラシャ夫人が自ら首を伸ばす事はなかったと思いますね。 槍か否かは別として、武芸達者な近習が「お覚悟」となったかも? 物語的には、講談の襖の奥からブスッが良いですね。^^; 余談ですが・・・。 質問者さまは、何故秀吉が伴天連追放決めたか分かりますか? 最近の資料では、スペイン・ポルトガルの船に「多くの日本人が鎖で手足を結ばれて、奴隷として連れ去られていた事に激怒」していた様です。 一回の来航で、約200人。2千人近くの日本人が奴隷としてヨーロッパに連れ去られました。 ※スペイン・ポルトガルには、今でも日本人の子孫!と名乗る方が数万人います。 最悪なのは、黒人奴隷の奴隷となった日本人もいた様ですよ。 これも、記録に残る「裏歴史」です。

sora_iro1881
質問者

お礼

ありがとうございます。 家臣のひとりが裏切った為、予定より少し早まったそうですが…。 そうですね、キリスト教は自刀は禁じている為、難しいところだったと思われます。 家臣は同じ場所で果てるのは畏れ多いと屋敷内の違う場所で切腹なさったとか。 最後の方は介錯なしではお辛かったでしょうね。屋敷に爆薬を仕掛け、小笠原少斎もまた。 ガラシャ夫人は、嫁ぎ先があの男性では気苦労が絶えなかったと思います。 お気の毒でした。 バテレン追放は、その様ないきさつがあったのですね。ヨーロッパへ連れていかれて奴隷だなんて、そんな時代があったのは知りませんでした。 平和は何よりの宝ですね。 勉強になりました。お礼を申し上げます。 ありがとうございました。

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