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武田典厩信繁公の妻子について。
戦国時代の武将として有名な武田信玄公のすぐ下の弟・信繁公の妻子について調べています。 (1) 以前呼んだ細川ガラシャ夫人に関する本で、「夫人が自害した時、そばに武田信繁公女が侍女として居た」とありました。 これは甲斐武田氏の信繁公の妻子なんでしょうか? それとも若狭武田氏にも信繁公という人物が居たのでしょうか?(記憶が曖昧で作者や内容が思い出せません…。そこしか覚えてないんです;;) (2) 信繁公の夫人は、どこの家の何と言う方なんでしょう? 複数の子供(男子が3人、女子が1人居たと聞きました)がいたので、夫人も複数人居たと思うのですが? そして信繁公の戦死後、夫人はどうしたのでしょう? (3) 父の跡を継いだ男子以外は養子として他家に入ったと聞きましたが、どこの家の養子になったんでしょうか? (4) 典厩信繁公の跡を継いだのは、何番目の御子だったのでしょうか? (5) 女子も居たと聞きましたが、何人いて、どこに嫁ぎ、どのような人生を送ったのでしょうか?(ひとりは勝頼公の側室だとも聞きました) (6) 御子達はいつ頃、どこで、何歳で、どのような最期を遂げられたのでしょうか? そして子孫は続いたんでしょうか?(武田氏滅亡と共に断絶したと聞きましたが?) 信玄公の事は色々と聞くのですが、やはり弟の事となると資料が見つからなくて、すっごく気になっています。 ひとつでもご存知の方、教えて下さい。 お願い致します!
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若狭の武田信繁は6代将軍:足利義教の時代の方ですから、ちょっと時代が違う気がします。 若狭のと書きましたが、正確には安芸の武田氏の出身で、彼の息子の信栄が若狭武田氏の初代ですから、安芸の武田信繁とすべきですね。 さて武田信玄で有名な甲斐の武田信繁には二人の息子がおり、長男が望月信頼(1547-64)、幼名は仮名三郎(父親信繁の幼名は仮名次郎)、信濃望月氏の名跡を継承して望月三郎と称しましたが、18歳で亡くなります。 次男は武田信豊(1549-82)で、幼名仮名六郎次郎、彼が嫡子となります。 天正10年2月に、離反した木曽氏討伐を実行するが破れて甲斐に退却し、関東での再起を図って信濃小室城に逃れるが、城代の下曽根氏の謀叛にあい、34歳で討死します。 三男が望月遠江守信雅、彼は長篠の合戦で24歳にて戦死しました。 系図を見ますと彼には昌頼・直義の子供がおり、直義の子が直次となります。 (望月氏系図) http://www2.harimaya.com/sengoku/html/motizuki.html
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書き間違えました 「三人の息子がおり、後を継いだのは次男の信豊です」 訂正します。
- huyou_77
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全く自信がないのですが、この方でしょうか? 一応、奥さんの素性と、子供の一人の没年齢はわかったのですが・・・・ 以上、参考にしてくださいね、これで失礼します。
お礼
早速のご回答、ありがとうございます。 はい、探しているのはこの方です。 時代が時代なので女性の名前や生没年が残ってないのは仕方ない事だと分かってはいるんですが、分からな過ぎてちょっとムキになってます!(笑) そして信豊公以外の息子達も、居たという資料を読んだのですが、せいぜい分かって名前ぐらい。 でも本によっては名前が混同されているみたいだし…。 仕方ないんでしょうかねぇ…。 とにかく、情報ありがとうございました! また何かありましたら、その時はどうぞ宜しくお願い致します。
お礼
ご回答、ありがとうございます。 若狭というか安芸の武田信繁は時代が違ったんですね…。 詳細なご説明と、系図へのリンク、ありがとうございます。とても参考になりました。 実は書き込んだ質問以外にも、もうひとつ気になっていた事がありまして。 山梨の民話に「18歳で彼に悪意を持つ武士に殺された典厩信繁の息子が、ある男の夢枕に立って八幡神社(寺だったかも?)を建立させる」っていう話がありまして、その息子が誰だか気になっていたんです。長男の望月信頼公の事みたいですね…。 でもその民話にははっきりと「武士に殺された」という記述があり、気になります…。 98Kin様のおかげで、謎が大分解けました。 ありがとうございました! また何かありましたら、その時はどうぞ宜しくお願い致します。