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「左遷」の菅原道真が「天神」とはこれいかに
菅原道真は太宰府に「左遷」されたんでしょう。藤原氏に陥れられて遠隔地に流されて「監禁」されて虐待されたわけでもないのになぜその「左遷」があれほど大げさに言い伝えられているのでしょうか。「東風吹かば・・・」なんて歌は当方には恨みつらみより甘い感傷を感じます。当時の社会の藤原氏憎しの気分のせいで天神にまで祭り上げられたに過ぎないと当方は思うんですがいかがでしょうか。
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万葉集の編纂で名を残した大伴家持の父の大伴旅人も大宰府へ 左遷されましたが、ガッポリと蓄財して朝廷に返り咲き、官位も どんどん上がって行きました、なので、貿易の玄関口の大宰府は 役人にとっては、金の生る木と思ってました。 だから、菅原道真が何であんなに嘆くのだろうと不思議でした。 大宰員外帥として大宰府に赴任されましたが、名ばかりで、何らの 権限も無い、監視付き幽閉の身で食べ物も、満足に与えられずに、 気の毒に思った近隣の住人の施しに依って生き長らえていた有様 の様です、飛ぶ鳥を落とす勢いの藤原道長が一介の学者を本当に 恐れていたのですね。 天神様になった経緯は一冊の本になる分量なので割愛します。
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- takochann2
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大宰府に送られる前は官職のNo.2の右大臣で、それが大宰府に食事もままならないほどの幽閉状態にされて間もなく死んだわけですから、当然怨霊になってしまって、それを一生懸命に鎮めたのでしょう。
お礼
当方の想像以上に道真公は悲惨な後半生を送ったというわけですか。天国から地獄行ですね。恨みつらみの歌や文章はおそらくないのでしょうが世の人は道真公の心をよく理解していた。そして怒りの神様というべき地位にまで上り詰めたといえます。 ご回答ありがとうございました。
- eroero4649
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幕末の時期に朝廷と幕府を融和させる策として、皇室の和宮が徳川家茂に嫁ぐことになりました。それを聞いた和宮は「関東は鬼が出るところだから行きたくない」と泣いて嫌がったといいます。 江戸時代末期になっても京都の身分が高い人の感覚ってそういうものだったんですよ。政治の首都江戸でさえ、いつエイリアンが出るか分からない土地に見えたのです。 だから当時の貴族の感覚では、大宰府に流されるのは月に飛ばされるも同然に思えたのではないかなと思います。地球(都)には戻ってはこられまいというのはあったと思います。 道真公が天神様になったのは、道真公が亡くなった後に京都で天変地異や疫病が流行ったので、これは道真公の祟りに違いないと京都の人々が噂したからです。 日本人は、祟りをなにより怖れる民族性をもっています。これは現代のホラー作品を見てもそうですね。「八つ墓村」は、戦国時代の落ち武者を殺した祟りだというストーリーでしたよね。あの「貞子」も井戸に投げ捨てられて殺された祟りで出てきます。我々日本人は現代に至るも「強い怨みを持って死んだ人間が祟りとなって出てくる」というストーリーを何より怖れかつ違和感なく受け入れるのです。 イギリスの王室の歴史なんて、怖い絵で一躍有名になった「レディジェーングレイの処刑」にあったように、16歳の少女が処刑されるなんてエグい話が山ほどあるのに、誰も祟りになって出てきません・笑。 そして、祟りとなって出てきた怨霊を鎮める方法が「神様にして祀る」というものなのです。菅原道真公は天神様になり、平将門公は神田明神で祀られ、崇徳天皇は白峯神社で祀られました。創作された怨霊であるお岩さんにも神社があります。だから本当は、貞子さんにも神社を作る必要があるのですが、現実世界に祟りっぽいのが何も起きてないので誰も作ろうとしないですね。 「怨霊」と「神社」そして「陰陽術」の相性は抜群で、ムー心をくすぐってやまないものがありますね。これに「密教」を加えると完璧です。
お礼
菅原道真の「左遷」は話は当時日本全国に広まったでしょうね。なにせ天皇のすぐそばにいた人物ですから。一般的に大宰府は京都から信じられないくらい遠隔地というか別世界に流されたという印象もあったと思います。実際本人の身の上に何が起ころうと頼るすべもなくそのうち悶々として死んでいったんでしょう。藤原氏としてはそれほど道真を恐れていたともいえます。二度と中央政界には戻れないようにしたんですね。 ご回答ありがとうございました。
- nananotanu
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太宰府じゃなく、大宰府ですね。 天神さまになったのは、都に禍が続いてそれを「祟り」と恐れたから、神さまにまつりあげて「勘弁してや~~~」ってことです。 >当時の社会の藤原氏憎しの気分のせいで天神にまで祭り上げられたに過ぎない ではないですね、「くわばらくわばら」の起源も調べてみると面白いと思います。 あと、今の天満宮がでっかいので、『遠隔地に流されて「監禁」されて虐待されたわけでもない』と思い込む方が多いですが、そうではないですよ。 当時、大宰府なんてもう役目を終えて、名ばかりの職だったし、榎寺なんてちっちゃな祠が一つ、あるだけです。
お礼
ご回答ありがとうございました。 監禁とまではいかなくてもかなりの窮乏生活だったのでしょうね。お金とかがなければ遠くにも行けないし周りから監視もされていたでしょう。なにより人付き合いが制限されていたのではないでしょうか。彼の取り巻きが増えること、それが藤原氏にとって一番こわかったのだと思います。
- fujic-1990
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日本には、古来「荒魂(あらみたま)、祟り神」でも祀れば「和御魂(にきみたま)、守り神」に変わる、という思想がありました。 そして強い霊力をもって祟る恐ろしい神ほど、和御魂、守り神に変わると強い守護力を持つと考えられていました。 また、日本は「大八洲豊葦原瑞穂国中国、言霊(ことだま)の幸ふ国」と言われてきました。 ざっくり言うと「我が国は、大きな8つの島から成り、豊かに葦(水草)が生い茂る水豊かな国で、あの世とこの世の中間にある国で、言葉には不思議な霊力が備わっていて、発せられた言葉の霊力によって良いことも悪い事も実現してしまう国である」というような意味です。 令和の現代でも、「縁起でもないことを言うな!」とか言ったりします。悪い事を言うと、言霊のせいで悪い事が起きる。一説によると、太平洋戦争でも悪いこと(アメリカに勝てない)を警告すると実現してしまうと思って、警告ができなかったという話もあるくらいです。 確かに菅原道真は、藤原一族に陥れられて「太宰権帥(だざいのごんのそち)」つまり「太宰府の次席将軍」と言っても実際は窓際族で何もさせてもらえない地位に流されました。 そこで「東風吹かば・・・」なんて歌を詠んだわけですが、これは美しい歌を詠むと、言霊の霊力によって神が感動し、京都に戻してくれるに違いない、という発想の歌なのです。恨み辛みを歌にするわけにはいかないのです。ヘタをすると日本が滅ぶ。 菅原道真が死んだころ、偶然に天災地変病気、様々な凶事がおこりました。特に落雷(それを原因とする火事)が頻発しました。 藤原氏は理由についていろいろ考えましたが、心当たりは道真を左遷して死なせてしまったことでした。庶民たちもそう考えて、雷の音がすると「桑原くわばら」と唱えました。 桑原という場所は、菅原道真の所有地なので、いくら道真が怒ったとしても自分の領地には雷を落とさないだろう、ということで「ここは桑原です。雷を落とさないでね」という祈りです。 今でも、誰かに騙されそうになった時などには「桑原くわばら」と唱えます。「桑原くわばら、そのては桑名の焼蛤」などと。 話を戻しますが、そこで藤原氏は、藤原氏「が」菅原道真を神として祀ることにしたのでした。そうすれば強い守護をしてくれるだろうと。 藤原氏が道真を祀り始めると、庶民はその学識に注目して学問の神様として崇敬しだしたのでありました。
お礼
ご回答ありがとうございました。 『「東風吹かば・・・」なんて歌を詠んだわけですが、これは美しい歌を詠むと、言霊の霊力によって神が感動し、京都に戻してくれるに違いない、という発想の歌なのです。・・・』 そうだったのですか、ならばあの歌の調べも理解できます。大秀才菅原道真ならこの国を害する結果になるような歌を詠むわけがありませんね。藤原氏についてはともかくこの瑞穂の国については最後まで愛していたはずですから。
- oska2
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>菅原道真は太宰府に「左遷」されたんでしょう。 帰化人である藤原一族と対立して、大宰府に左遷となりましたね。 >「監禁」されて虐待されたわけでもないのになぜその「左遷」があれほど大げさに言い伝えられているのでしょうか。 その通りで、流罪になった訳ではありませんよね。 あくまで、大宰府に転勤でした。 じゃ、何故色んな逸話が残っているのか? 左遷後、天変地異・疫病流行が起きたのです。 ハッキリいうと、偶然が重なっただけの事なんですが・・・。 当時の常識としては、天変地異・疫病流行・一族の死亡は「天・神の怒り、呪い」が原因とされていました。 そもそも「天神」は、風・雨の神様で「農業神」なのです。 質問者さまも、「風神・雷神」をご存知ですよね? ところが、当時の天皇・貴族・庶民は「道真の怨霊が、天で怒っている・復讐」と考えたのです。 ここで、天変地異=天神=道真の怒りと同一視されたのですね。 そこで朝廷は故人道真に「右大臣、正二位を贈」となって怨霊を慰めたのです。 947年。北野天満宮で「神」として祀る事になった次第。 庶民としては、拍手喝さい。 「ざまぁ見ろ!独裁者・藤原ども!」という事ですね。^^; ちなみに、道真が学問優秀だったので「学問の神」にも変身!しました。
お礼
当時の天変地異、偶然とはいえなんか理由をつけないとかえって不安が大きくなるばかりだったんでしょうね。藤原氏への反感が薄れたのは武家政治家がはじまった頃からでしょう。それまでは事実上の日本の支配者だったわけですから自然現象も彼らに原因があるのだと思われたのでしょうね。 ご回答ありがとうございました。
- wetdaydreamer
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素人ですが、 食べる物を得ることもさせてもらえず 困窮死したらしいです。
お礼
なるほど、だとすれば悲劇です。左遷の名を借りた冤罪重罰だったわけですか。本人はたぶん恨みを残して亡くなったんでしようね。「あるじなしとて」の「なし」はそこにいないと言う意味だけではなく「死」のことも含めたのでしょうか。 ご回答ありがとうございました。
お礼
ご回答ありがとうございました。 左遷・冷遇、さらに再起の機会も完全に奪ったのでしょうね。それくらい痛めつけないと道真の賛同者が集まって一大派閥結成なんてことになるんじゃないかと藤原氏は恐れたのでしょう。確かにそこまでの境遇に落とせば誰も道真には寄り付かなくなるでしょう。藤原氏の恐るべき執念です。